日本にて 2
翌日の朝、啓子は約束の時間に私が住んでいた部屋の前で待ってくれていた。どこから調達したのか、真新しいダンボールを二束持って来てくれていた。
「おはよう。早速始めようか」
鍵を開けて部屋の中に入ると、長い間換気していないせいで埃っぽい匂いがした。床もうっすらと埃が積もって微かに白くなっていた。
「あー、こりゃ、あかんわ。マスクして掃除せえへんと喉痛めるで。その服も着替えた方がええ。汚れてしまう」
「そうね」
アーサーにはアルバイト先に行って同僚に会ったり、転居の為の諸々の手続きをしてくると言ってある。埃まみれになった私を見られたら、今日は何をしてきたんだと、やんわりと追及されるに決まっている。
今日の主だった目的が部屋の掃除なんて事が発覚したら、妊娠中なのに体に負荷を掛けて過ぎているという理由で、ホテルからの外出禁止を言い渡されかねない。それは嫌だ。
折角、日本に帰ってきているのに、少しぐらいはアーサー抜きで自由に行動したい。
啓子はナップザックの中を漁って、マスクを二つ取り出した。一つを私へと渡してくれた。
部屋に入る前にマスクをつけて、私は埃を立てないようにそっと歩いた。小さなタンスに近づく。中を開けてエプロンとズボンと長袖のトレーナーを取り出して、一度部屋の外に出た。
3つ右隣にある啓子の部屋を使わせてもらって着替え、背中まである髪を掃除の邪魔にならないようにシュシュで後ろに一括りにした。
久しぶりの我が家の掃除だ。頑張るぞ。
両手の拳を握りしめて、気合を入れた。
「お待たせ」
準備を済ませて私の部屋に戻ると、啓子は窓を開けて掃除機を掛けようとしていた。私の声に振り向いて私を見ると、手を止めてまたナップザックを漁り始めた。
今度は絆創膏が出てきた。
「これ貼っておいた方がええで」
「???」
ケガもしていないし、あかぎれ等で手も荒れてはいない。
どうして絆創膏が必要なんだろうと、訝しげに思っていると、啓子は私から視線を逸らしつつ、自分の耳の斜め下を指で指した。
「ついてるで」
「何が?」
「キスマーク」
指摘された場所を慌てて手で押さえて、鏡がある浴室へ私は駆け込んだ。体を鏡に対して横に向け、首を捻って鏡を見ると、確かに右耳の後ろの方、斜め下のところにはっきりとした鬱血痕があった。
鬱血の色や濃さからすると、昨日の夜、眠っている間にアーサーにつけられた物だろうと推測できてしまった。
頻繁にキスマークをつけられているせいで、いつ頃つけられた物か分かってしまう自分が、何か嫌だ。
「見える所にはキスマークはつけないでって何度も言っているのに……」
ぼそりと呟くと啓子は聞いていたのか、後ろからからかうように首に腕を回してきた。声には明らかに楽しんでいる響きが混じっていた。
「真っ赤になっちゃって、可愛いわぁ。旦那さん、由紀にメロメロなんやねぇ。そのキスマーク、牽制の為にわざわざ見える所につけたんとちゃうか。溺愛されていて、羨ましいわぁ」
「今日は職場の同僚に会ってくると言っただけなのに、何で牽制が必要なの?」
分かってないなぁ、と呆れたように首を振りながら、啓子は手にしていた絆創膏をキスマークの部分にぺたりと貼ってくれた。
「由紀は自分に向けられる恋愛感情には鈍感やさかい、旦那さんは気が気でないんやろなぁ」
「鈍感じゃないもん……」
人の好意は感じ取ることができているのだから、恋愛感情を向けられたら分かると思う。鈍感って言い過ぎじゃない?
少しむくれて浴室を出て、私は掃除機をかけ始めた。啓子はくすくすと笑いながらバケツに水をくみ、雑巾で窓ガラスを拭いた。
2時間ほど掃除を続けると、誰に部屋に入ってもらっても恥ずかしくない位に綺麗になった。浴室、台所、トイレ、玄関、バルコニーに至るまで塵一つないほどピッカピカに磨き上げた。
部屋の中にある物は、啓子が使えそうな物は啓子に譲り、売れそうな物はリサイクルショップに持ち込んで売り払い、捨てるしかない物は市のごみ焼却場へ持ち込む事にしていた。イギリスへ持って行く物はダンボール1箱にも満たない量になっていた。
荷物の搬出に入る前に、私達は休憩する事にした。私はシュシュを外して髪を下し、狭い台所に立った。
幸いにも未開封の茶葉が残っていたので、マグカップに緑茶を注いで啓子に出した。
私が日本に居なかった間に、喫茶店で起こった出来事を啓子は休憩中に話してくれた。
「女将さんとマスターから由紀がイギリスで見つかったと連絡があった時、修二はんがえらい喜んではったけど、由紀が結婚していると聞きはって、すごい落ち込んではったんよ。一週間ぐらい情けない顔してはったなぁ」
修二さんはマスターの甥っ子で、一流のバリスタを目指して修業中の身だ。女将さんとマスターが仕入れ等で店を空ける時、修二さんがお店の切り盛りを任されている。
「新作コーヒー試飲の生贄がいなくなったから、誰に代わりを頼もうかと悩んでいただけじゃないの?」
修二さんはとても人あたりの良い人なんだけど、唯一困った事は、コーヒーをブラックでは飲めない私に、彼が独自にブレンドしたコーヒーの試飲を頼んでくる事だった。
コーヒーをブラックで飲める他の人に頼めばいいのに、何故か私は毎回試飲をお願いされていた。
「コーヒーの試飲を碌にでけへん人に、毎回コーヒーを飲んでもらおうとするなんて、何かあるとは考えへんの?」
「ちゃんと試飲はしていたよ」
何かを示唆するかのような啓子に私は取り敢えずの反論をしておいた。ほんの一口だけどブラックで飲んだのだから、試飲の役目は果たしていたと思う。
「舐める様にして一口だけ飲んだ後、顔を顰めて、容赦なく砂糖とミルクを大量投入してたんは、誰やったっけ?」
「……、私です」
確かに私はそうしていた。コーヒーは苦みが強いから、美味しく飲むために砂糖とミルクは、私にとっては必須アイテムだった。
「修二はんが新作コーヒー作りに励むのは、由紀がブラックで飲めるようなブレンドを見つけ出す為だって事は、バリスタの中では有名やったんよ」
「私を実験台に腕を上げる為に?」
コーヒーの苦みを苦手とする人でも飲めるブレントを開発できれば、喫茶店の目玉商品にできるかもしれない。
私の回答が的を大きく外したからなのか、啓子は脱力して両肩を落とした。
私、そんなに変な事を言ったのかな?
「天然にもほどがあるわ。修二はんは由紀が好きやったという事なんやで。知らへんかったんかいな」
「知る訳ないじゃない。好きだって修二さんから言われた事もないから、勘違いじゃないの?」
以心伝心で気持ちが伝わるなら、言葉は発達しなかっただろう。どれだけ心の内に想いを秘めていても、言葉にして相手に伝えようとしなければ伝わらない。
アーサーは私が記憶喪失の間、言葉でも行動でも「好きだ」「愛している」と伝え続けてくれた。
最初は戸惑うだけだったけれど、少しずつアーサーの存在を受け入れる事ができたのは、絶えず愛情を私に注いでくれたからだ。
風通しを良くする為に開けていてた玄関から、不意にアーサーの声が聞こえた。
「今日は同僚と会うだけではなかったのか? 掃除をするなんて聞いてないぞ」
土足のまま部屋に入ってこようとするアーサーを私は止めた。
綺麗に掃除したのに、汚されて、また掃除する羽目になってはかなわない。ここはイギリスじゃないんだから、部屋の中は土足厳禁だ。
「ストップ。部屋の中に入るなら、靴を脱いでからにして下さい」
足元に2組の靴が揃えて置いてあるのを見て、アーサーは靴を脱ぐと同じように靴を玄関に置いた。
ワンルームの部屋は大柄なアーサが入ってくると、途端に狭く感じられた。
「こっそり護衛するように依頼していたSPからユキが予定とは違う行動を取っていると聞いて、慌てて会議を切り上げてきたんだ。重い荷物とか持っていないだろうな?」
「持ってない、持ってない」
これから持つ予定だけどね。
心の中で付け加える。
私がお茶を入れている間に、啓子は喫茶店のマスターに、お店の軽トラックを貸してくれるように携帯電話で頼んでいたから、もう少ししたら、私と啓子とマスターで不用品を荷台に積み込む事になるだろう。
妊娠が分かってから、アーサーは過剰なほどに私に対して過保護になった気がする。
掃除とか少し荷物を持つぐらいは、十分日常生活の範囲内だと私は思う。仕事を切り上げてまで様子を見に来る事はないのに……。
そうは思っても、アーサーが私を気遣ってくれる気持ちは嬉しかった。
「このお方が由紀の旦那さん?」
「うん。彼はアーサー・リーフ。イギリス人で、フェンリル・ファンドの代表なの」
「初めまして。リーフはん。私は野崎哲子ていいますねん。由紀の親友兼同僚ですわ。今後ともよろしゅう」
哲子はこてこての方言でアーサーに自己紹介して、ぺこりと頭を下げた。アーサーは何とか意味が通じたのか、余所行き仕様の笑顔を啓子へと向けた。
「妻か日本にいる間、お世話になりました。ほんの数日しか日本に滞在できませんが、今後とも仲良くしてやって下さい」
その様子を見て、私はふと思い出した。このアーサーの余所行き仕様の笑顔って、私に一度も向けられた事がない。
地下室に監禁されている時も、記憶喪失になってナントの館に迎え入れられた時も、アーサーは素の表情で私に笑いかけていた。
何故だろうと思っていると、今度はマスターが玄関先に現れた。
「軽トラック持ってきた。荷物の積み込みを始めようか。……。リーフ伯爵、何故、貴方がここに居るのですか?」
部屋に入ってきてアーサーの姿を認めたマスターは怪訝そうに言った。
アーサーは仕事に行っていると説明していたので、マスターも予想外の人物がこの場に居るのを不思議に思ったのだろう。
「妻が心配になって様子を見に来ただけです」
アーサーはマスターに対しても顔に笑顔を貼り付けて、誤魔化そうとしていたが、残念ながらマスターはうやむやにはしてくれなかった。
「店の方に来るならともかく、いきなり由紀ちゃんの住居に辿り着くと言うのは、不自然です。尾行をつけているとか、由紀ちゃんの体にGPS発信機でもつけているのではないでしょうね」
「さあ、どうでしょう?」
二人は胡散臭い笑顔で目を逸らさずに相手を見ていた。不気味に高まる緊張感に、啓子は空気を読まずにマスターを急かした。
「はよ荷物を運ばんと日が暮れてしまいますえ。マスターも早めに店に戻らんと、店の子が困りますやん」
ふと二人の雰囲気が変わった。一時休戦協定を結ぶ事にしたらしい。どうしてマスターとアーサーは会った時から相性が悪いのだろうか。
「まずは電子レンジから運ぼう」
「あ、私も運ぶのを手伝います」
私が電子レンジに手を伸ばすと、横からアーサーに手を掴まれて止められた。
手伝ってもらえる本人が作業に参加しないと言うのは筋が通らない。咎める様にアーサーを見ると、アーサーは首を振って尚も引き止めた。
「ユキは無理をしてはいけない。俺が代わりに手伝うから」
「でも、私が何にもしないわけには……」
「それなら、俺のジャケットを持っていてくれないか」
返事をするよりも早く、アーサーは私の手の中に黒のジャケットを落とした。ネクタイを緩めて襟元を緩め、シャツの袖を肘辺りまでまくり上げた。
このジャケットを持っているだけって、私は何も役に立ってないじゃない! それに、アーサーにこんな事をさせても良いんだろうか? 伯爵でファンドの代表だよ?
体力も体格もあって、これぐらいの作業は楽々とこなせるのは分かっているけど、申し訳なくなってくる。
あれこれ悶々と考えている内に、洗濯機や冷蔵庫など、重い家電製品がアーサーとマスターの手で次々と部屋の外へと運び出され、アパートの前に停まっている軽トラックに積み込まれた。
マスターに準備ができたと言われて下に降りてみれば、リチャードさんが黒塗りの車の前で苦笑していた。
「私も手伝おうとしたのですが、これは会社の業務とは関係がないと、社長に断られてしまいまして……」
「本当にすいません……」
「由紀が謝る事はない。これは俺がしたくてやった事だ」
アーサーはネクタイを締め直し、シャツの袖を元通りに戻すと、私からジャケットを受け取った。
服を着替え直して、私とアーサーはリチャードさんが運転する車で、マスターと啓子は軽トラックでリサイクルショップと市のゴミ処理場を回った。
リサイクルショップで売れた家電製品は、あまり大した金額にはならなかった。そのままゴミ処理費に消えてしまった。
部屋に戻ると何も置いていない部屋がやけに広く感じられた。今まで住んできた記憶が頭の中を駆け巡る。寂しさに囚われそうになったけれど、戸締りを確認して私は静かにドアを閉め、鍵を掛けた。
部屋の明け渡しの準備が終わった後、私は喫茶店の事務所に部屋の鍵を返しに訪れていた。
事務所の中に入ると、女将さんに部屋の鍵を渡した。頭を深く下げて、感謝の気持ちを言い表した。
「今までお世話になりました。ありがとうございました」
「本当に寂しくなるわね。またいつか日本に来る事があったら、寄って頂戴ね」
女将さんは目に涙をためて言った。啓子はしんみりとした空気を振り払うように、明るい声を出した。
「赤ちゃん産んだら、写真送って欲しいわぁ。由紀の子供ならきっと美人さんやで」
「私も見てみたいですね」
マスターが相槌を打った。その時、事務所のドアがノックされて修二さんが入ってきた。
「良かった。間に合った」
走って来たのか修二さんの息は上がって乱れていた。私に持っていた瓶を押し付ける様に渡した。
「これ、餞別。妊婦でも飲めるノンカフェインのインスタントコーヒーだ。今まで新作コーヒー作りに協力してくれてありがとう」
「いいえ、私もいろんな種類のコーヒーを飲ませてもらえて、面白かったです」
試飲している間に、修二さんからコーヒーの薀蓄をいろいろ話してもらえて勉強になった。ウエイトレスをしていて、お客様にコーヒーを勧める際に、その知識が役に立つ事もあった。
私は本当に良い職場と同僚に恵まれた。
そう感じて皆との別れを惜しんでいると、修二さんはアーサーの目の前で爆弾発言を落としてくれた。
「俺はね、由紀の事が好きだったんだよ。結婚までしている由紀に好きだと言っても、振られるのは十分承知している。けど、知っておいて欲しかったんだ」
アーサーが外国人だから日本語は分からないだろうと高を括って、修二さんは言っているだろうけど、アーサーは日本語も理解できるんです。
隣にいるアーサーの纏う空気が変わっていく。決して良い変化ではない。
働いていた職場で揉め事になるのは勘弁して欲しい。切実に思った。
心の中で泣きそうになりながら、マスターに助けを目だけで求めるけれど、マスターは疲れた顔をして右半分を掌で覆って首を横に振った。
あーあ、コイツやっちまったよと言わんばかりの様子だ。
啓子が言っていた通り、私は自分に向けられた恋愛感情には鈍感なのかもしれない。同じ職場にいて、接点だって多かったのに、私は修二さんの想いに気づけなかった。
「ごめんなさい。私が好きなのはアーサーだけなんです」
「ああ、分かっている。彼と幸せになれよ。振られて、俺もけじめをつけれそうだ」
私が下げた頭を修二さんはくしゃっと掌でかき混ぜた。私が見ていた床に水滴が一粒落ちた。
「俺、店に戻るわ。元気でな」
私に顔を見られないように素早く踵を返して、アーサーの横を通り抜けて事務所を出て行った。
無言のまま笑顔を保ち続けていたアーサーが私の手を取って皆に告げた。
「我々は次の用事があるので、ここでお暇します。イギリスを来られる機会があれば、是非ナントの地も訪れて下さい。歓迎します」
女将さん達は名残惜しそうにしていたが、事務所のドアを開けて、店先まで一緒に下りていき、私達を見送ってくれた。
私を見ようとしないアーサーに一抹の不安を感じた。
2013.02.17 初出
次回は2/25更新予定です。




