日本にて 1
在英日本大使館からパスポートが再発行されたと連絡を受けてから一週間後、私は日本の成田国際空港へ向かうプライベートジェット機に乗っていた。
アーサーが代表を務めるフェンリル・ファンド日本支社と、東日本電力から買収した送電網を元に設立された東日本送電株式会社の視察をするためだ。
長期の出張となれば、生気を必要とするアーサーについて行かなければならないけれど、今回の出張の同伴は、私にとっては「渡りに船」だった。
記憶が戻って一段落した後に思い出したのは、携帯電話代やら、インターネットのプロバイダへの接続料金やら、月々銀行口座から引き落とされる様々な料金がそのままの状態で放置されている事だった。
インターネット経由で解約できる物については、既に解約の手続きを取ったけれど、窓口に出向かないと解約できないものもあって、どうしようかと思っていた所だったから、丁度良かった。
それに、一度日本に戻ってやりたい事もあった。家族の眠るお墓に行ってアーサーとの結婚を報告もしたかったし、アルバイト先の同僚にもう一度会って、ちゃんと退職とお別れの挨拶もしたかった。
日本に一時的にしても帰れると聞いて顔を輝かせた私を見て、アーサーは苦笑いしていた。
その後、アーサーはロンドンにいる秘書のリチャードさんに連絡して、日本出張の日程を長めにとってくれた。
プライベートジェット機の中は、エコノミークラスの座席とは比べものにならないぐらい、広くゆったりとした座席が贅沢に使われていた。倒せばフルフラットになる座席は小柄な私であれば、十分寝返りを打つ事ができた。
離陸して安定飛行に入ると、パーサーが毛布と枕を持って来てくれた。アーサーに日本時間に時計を合わせるように言われて、初めてその意味に気づいた。
日本時間ではもう深夜になる。日本までのフライト時間は約12時間。時差ボケにならない為にも、もう寝てなければいけない時間だった。
お昼過ぎにイギリスを出発して、眠って下さいと言われても、体内時計の時間はお昼のままだ。眠たくもないのに寝るというのは一種の技術だなと私は思った。
ジェット機の窓は遮光ブラインドが下ろされ、客室内の明かりも朧気に手元が確認できる程度まで光は弱められていた。それでも眠る事ができない。
もぞもぞと眠ろうとしない体を持て余して身じろぎする。私の動きに隣の座席で眠るアーサーが目を覚ました。
「ユキ、眠れないのか?」
「うん……。目を瞑っていれば、眠れると思うから、気にしないで」
上半身を片肘をついて起し、アーサーは私を上から覗き込んだ。スーツのジャケットは脱いでいて、襟元をくつろげられたシャツの間から赤黒い水晶が散りばめられたチョーカーが覗いていた。
「何なら、添い寝してあげようか?」
これから悪戯を仕掛ける子供の様に、アーサーは口元を妖しく歪めて私に微笑んだ。こういう微笑み方をするアーサーには警戒するに限る。
周りにはアーサーの秘書のリチャードさんや、フェンリル・ファンドのロンドン本社の幹部の方も、このジェット機に乗っているというのに、少しは他の人の目も気にして欲しいな。
第一、座席が広いとはいえ、それはあくまで日本人の体形に対してであって、アングロサクソンの血を引いて体格の良いアーサーと私が一緒に納まるには、狭すぎると言わざるを得ない。
「遠慮しておきます。それだけじゃ済まなくなりそうだし……」
リチャードさん達を起こさないように声を落としてアーサーに返事をすると、アーサーはパーサーを呼んでミルクがたっぷり入ったホットココアを持ってこさせた。
「空腹を感じると眠りにくくなるから、糖分を補給しておく方が良い。ユキは昼食あまり食べてなかったからな」
「ありがとう」
座席を起こして、私はアーサーから紙コップを受け取った。
「腹八分目医者いらず」を実践している私は、イギリス人から見れば食が細いと映るのだろう。私から言わせてもらえれば、イギリスでの一人前が、日本人にとっての二、三人前の量があるのが信じられない。
渡された紙コップだって、某有名ファーストフード店のMサイズ位の大きさだ。その大きさに、なみなみとココアを注がれてもねぇ……。
頑張って甘いココアを飲み進めたが、結局半分ほど飲んだ所でギブアップした。
「ごちそうさまでした」
「もういいのか?」
「はい」
私が頷くと、アーサーはココアの入った紙コップを私から引き取った。何を思ったのか、アーサーはぬるくなったココアを飲み干した。
「甘いな」
「私の飲み残しを飲まなくたって、新しいココアを頼めばよかったのに」
「ユキが飲んでいたから、飲みたくなったんだよ」
「行儀が悪いですよ」
「そうだな。だが、みんな眠っているから、誰も見ていない」
アーサーが私の両頬を両手で包み込んで、そっと顔を近づけてくる。私は目を閉じてアーサーに身を任せた。
啄むように唇が触れあう。最後に離れる際に下唇を舌でなぞられはしたけれど、ディープキスにならなくて、私は心底ほっとした。
呼吸までを奪いつくされるような深いキスなんかされたら、私は声を押さえる自信がない。感じて甘ったるく響く声をここにいる皆に聞かれたら、恥ずかしくて暫くはまともに顔を合わせる事ができなくなりそうだ。
「ユキの唇も甘い」
「ココアを飲みましたからね」
「もう眠れ。眠れないと時差ボケで明日が辛くなるぞ」
アーサーはそう言って、私の座席を後ろに倒して毛布を肩まで掛けてくれた。
ホットココアのおかけで体が温まったからか、ほどなくして眠りの気配が近づいてくる。頭を撫でてくれるアーサーの大きな手が温かく感じた。
私が幼い頃、父もこんな風に頭を撫でて寝かしつけてくれたっけ……。
懐かしさに自然と頬が緩んだ。次第に眠りへ私の意識は引き込まれていく。
「おやすみ、ユキ。良い夢を」
眠り落ちる直前に、アーサーが優しく囁く声を聞いたような気がした。
* * * * * * * * * *
翌日の午前に日本の成田空港に到着したアーサー達は、本当はすぐにフェンリル・ファンドの日本支社へと向かう予定だった。
同じジェット機に乗っていたロンドン本社の幹部達と分かれて、何故か私とアーサーだけ宿泊予定のホテルに先にチェックインする事になった。
「ユキは4時間ほどしか睡眠を取れてないから、今日は時差ボケと睡眠不足を調整するためにホテルで休んでおいて欲しい。妊婦なのだから無理は禁物だと、カリンにも念を押されているからね」
アーサーは有無を言わさずに私をベッドに押し込めると、そう言って日本支社へと出かけてしまった。
「私だって日本でいろいろとしなければならない事があるのに……」
暫く眠ろうとベッドの上でゴロゴロしていたけれど、結局眠れなくて、のそりと起き上がった。
ロンドンでは土地勘もなかったけれど、ここは日本。私のホームグラウンドだ。ロンドンと違って、治安だって抜群に良い。日本でなら私が一人で出歩いても大丈夫だ。
夜間に女性が1人で歩いていても犯罪に巻き込まれないなんて、イギリスでは誰に話しても信じてもらえなかった。それくらい日本の治安の良さは世界最高水準なのだ。
パジャマを脱いでトランクからゆったりとした若草色のワンピースを取り出した。夕食までに部屋に戻ってくれば、アーサーを心配させる事もないだろう。
万が一、アーサーが私より早くホテルに戻った時の事を考えて、「出かけてきます。夕食までには戻ります」との伝言をフロントに残しておいた。
春のうららかな陽気が漂い、柔らかな太陽の光が照らしている街へ向かって、私は歩き出した。
30分ほど電車に乗って、私は住んでいた千葉県浦安市に来ていた。イギリスへ旅立ってから約7か月の月日が経ってしまったけれど、この町の佇まいは変わってなかった。
駅前の近くにあるビルの1階に私がアルバイトをしていた喫茶店はあった。歩道に面した部分は窓ガラスの部分を広くとっていて、外壁に貼られた赤レンガ調のタイルが喫茶店に落ち着いた雰囲気をもたらしていた。
今の時間帯は昼食を食べるお客様もあらかた終わって、一息つける頃だ。今なら、喫茶店に顔を出しても、あまり邪魔にならないだろう。
ビルの裏側に回って、従業員用の通用口から二階へと階段を上がった。廊下の突き当たりの右、事務所になっている部屋のドアをノックした。ドアが開けられると、目の前に喫茶店の女将さんがいた。
「こんにちは」
「まあ、由紀ちゃんじゃないの。いつ日本に戻ってきたの?」
「つい3時間ほど前です。アーサーの出張についてきました」
「入って。お茶でも入れるわ」
女将さんは私を事務所へと招き入れてくれた。事務所の中は女将さんの趣味で観葉植物が所々飾られていた。
勧められたソファーに座って待っていると、女将さんがお茶をお盆に乗せて持ってきた。久しぶりに飲む日本茶の味と香りに心が和んだ。
「いつまで日本にいるの?」
「アーサーのお仕事の都合次第なんですが、少なくとも四日間はいると思います。私がお店から借りていた部屋は、今、どうなっていますか?もし、そのままの状態で置いて下さっているのなら、日本に居る間に荷物を整理して、部屋をお返ししたいと思っているんです。次に日本に戻れるのは、いつになるか分からないですから……」
朝早くから開店する喫茶店で働く従業員達の為に、マスターは関連会社が所有するマンションの一室を格安で賃してくれていた。私の場合はワンルームタイプの部屋で、2万円の家賃だった。
「由紀ちゃんのお部屋は失踪した時の状態のまま保存してあるわ。ただ、由紀ちゃんの生体資料を捜査に役立てる為に採取するとかで、警察の方が部屋に入られたから、細かな物の位置は変わっているかもしれないけど……」
「それ位はどうという事はありません。明日にでも荷物整理と部屋の掃除にかかりたいので、鍵を貸してもらえないでしょうか?」
「いいわよ」
女将さんがキーケースから鈍く灰色に光る鍵を取り出して、私の掌に握らせてくれた。
ドアが開く音がして、誰かが事務所に入って来た。パタンとドアが閉まる音と共に、明るく元気な声が事務所に響いた。
「女将はん、戻りました。郵便局へのお使い終わりましたで」
声の主は私と同い年の同僚、野崎啓子だった。打合せ用に仕切られたパーテーションの間から私が声のした方へと顔をのぞかせると、啓子は私を見て駆け寄ってきた。
啓子は、頭、肩、腕と実体がそこにある事を確かめる様に私に触れて、感極まったのか抱きついてきた。
「由紀、お帰り。イギリスで事件に巻き込まれたって女将はんから聞いとったけど、よう無事に日本へ戻ってこれたなあ」
「長い間音信不通になって、ごめんなさい。記憶喪失になっていたから、連絡取れなかった」
私の言葉に啓子は何度も頷いて、目頭に涙を溜めていた。東京に暮らして数年経つと言うのに、一向に変わらない方言を久しぶりに啓子の口から聞けて、懐かしさがこみ上げてくる。
啓子は同僚の中では一番親しくしていた人だ。仕事で一緒の日は昼食を休憩室で一緒に食べ、非番の日が合えば、一緒にカラオケに行って遊んだりもしていた。
今度日本を離れたら、啓子や女将さん達には長い期間会えないんだと思うと、寂しさが心を占めていった。
「こうして会えたんやさかい、ええんや」
私を抱きしめていた腕を解いて、啓子は上から下まで私の姿を眺めた。少し心配そうに私の二の腕を擦っていた。
「会わへん間に少し痩せたんとちゃうか? 二の腕のぷにぷに感が減っとる……。イギリスで苦労しているんやないやろな?」
「啓子が心配しているような事はないよ。アーサーと結婚して幸せなんだから」
女将さんが私の言葉を裏付けるように、アーサーと私のロンドンでの様子を思い出して言ってくれた。
「旦那さん、由紀ちゃんにべったりくっついて離れようとしないほどアツアツなのよ。思わず夫との新婚時代を思い出しちゃったわ」
うふふ、と女将さんに生暖かく微笑まれ、私は赤くなって俯いた。
ロンドンでアーサーを放置してマスターと女将さんの所へ行こうとすると、腕を引っ張られて後ろから抱きしめられた。ティータイムで食べたショートケーキのクリームが口の端に付いていたのを、アーサーに見つけられ、唇を寄せられて舌で舐め取られた。
あの時のアーサーは、私が記憶を取り戻しても一緒に生きると決めた事に狂喜して、どうかしていたんだと思う。それで行動が過剰になっていたと思いたい。
「そうそう、由紀ちゃん、部屋を返す為に掃除と荷物整理をするんですって。私が手伝ってあげたいけど、仕事があるから……」
「ほな、私が手伝います。明日は非番の日やさかい、丁度ええわ」
あっと言う間に女将さんと啓子の間で話がまとまってしまった。明日の朝、部屋の前で落ち合う事を啓子と約束して、私はホテルへと戻ったのだった。
2013.02.11 初出
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