第38話 乗馬の練習
ニューイヤーパーティを3日後に控えた日の朝、私はカリンさんと共に館から少し離れた場所にある牧場を訪れていた。
ここには、乳牛の他、羊、豚、馬、ヤギ等を飼育している。家畜に与える牧草も飼料もナント家の敷地内にある牧草地や農場からまかなっていた。
ここに来たのは、カリンさんが私にアーサーから離れておける時間を作るり出す為に乗馬を習ってはどうかと提案してくれたからだった。
ロンドンから帰ってから――クリスマスの誘拐事件以降、更に酷くなった――も、アーサーは事ある毎に溢れんばかりの愛情表現で私に構ってくるものだから、危うく溺れてしまいそうになる。
ライラさん達が目の前にいる事もしばしばあるけれども、好ましげに微笑まれた挙句、時には気を効かせて部屋を出ていってしまうものだから、そんな時は泣きたい気分になるのだ。『溺れる者は藁を掴む』というが、その縋りたい藁が逃げていくのだから。
アーサーがやっている行為は、イギリス人から見れば当たり前なのかもしれないけど、日本人の私には受け止めきれません。
耳朶を舐められたり、首筋に唇を落として来たり、昨日からは唇へのキスも加わったりで、その度に顔を真っ赤にする私を見て、アーサーは満足そうにしているが、私は一杯一杯です。間違いなく愛されていると感じるけど、同じものをアーサーに返せるかというと……無理です。そんなに急に性格は変われませんっ。
マックスさんがここ1週間ほど、パーティの準備作業と後片付けの為、講義するのも難しくなるほど忙しくなるとのことで、その間に乗馬の練習をしてしまおうということになった。
乗馬は貴族のたしなみだ。その練習にマックスさんが異議を唱えるはずもない。上手くいけば、乗馬の練習と称して館を離れて一人でいる時間を作れるかもしない。
カリンさんが根回しをしてくれた結果、一人前に乗りこなせるまで必ず誰かがコーチにつくという条件で乗馬の練習が認められた。
馬用厩舎へと向かう。馬は牛や羊の追い込みに使うとかで、厩舎には十頭ほどの馬が繋がれていた。黒、栗毛、白、様々な毛色の馬が入ってきた私とカリンさんに馬首を向けた。
馬房の一つから姿を現したレグルスさんは、私達を見るとこちらへやって来た。
「リーフ侯爵家では災難だったな、嬢ちゃん。今日は乗馬の練習で乗る馬を見に来たんだろ?マックス執事から連絡が来てたよ」
長靴を履き、手にブラシを持ったレグルスさんは、作業しやすいようにジャンパーとジーンズを着ていた。
「乗馬の初心者でも乗れるような大人しい気質の馬を推薦して欲しいんだけど、どの馬が良いかしら?」
カリンさんは一頭一頭馬の首筋を撫でて声を掛けていく。その度に馬は気持ちよさそうに目を細めて軽く頭を振った。
馬の扱いに慣れている気がして、カリンさんは医者なのに不思議な感じがした。
「カリンさんは、馬に乗れるんですか?」
「ええ、乗れるわよ。祖父も父もここの牧場で働いていたから、よくこっそりと乗せてもらっていたのよ」
へえ――。3代前からナント家に仕えていたのか。道理でライラさんがアーサーの乳母になった訳だ。余程ここは良い職場環境なんだなと感心してしまった。
「俺も父がこの牧場に勤めていた縁で、ここで働いているんだ。カリンの場合は、祖父の代からでは済まないんじゃないか? 遡れば18代前ぐらいからナント家に仕えていたように思ったが……」
「18代前って!? そんなに?」
私は唖然とした。いくらなんでも職場環境が良いからと言っても、そんなに長く同じ所に勤めるのはあり得ない気がした。
レグルスさんが、私があまりにもぽかーんとした顔をしていたからなのか、やれやれといった感じで説明してくれた。
「嬢ちゃんは、あの腹黒執事からナント家の歴史を教えて貰わなかったのか? この地に根拠を置いていた騎士団――聞こえがいいが、実際は脱走兵と難民の集団――の長に爵位を与えられたのがナント家の始まりだと」
「教えて貰いました。沼地と湿地帯しかなかったこの地を開墾して、村を作り柵を巡らして守りを固め、戦乱から民を守った功績で伯爵位を賜ったと」
確か、ナント家の成立は薔薇戦争の直後だったはずだ。30年にも及ぶ戦乱は幾多の難民を生み出した。森に隠され長い間利用価値がないと思われた地に目をつけ、難民を吸収しつつ誰にも悟られないように開墾を進めたナント家初代当主の手腕をマックスさんは絶賛していた。
ナント家創成期のお話だけで2日も費やしたのだから、その心酔ぶりは自ずと分かるというものだ。
「カリンの家は、爵位を賜った時、騎士団の副長の地位にいたんだ」
「カリンさんって実はすごいんですね」
「そうでもないわよ。トム爺さんの家は初代当主の奥さんを輩出した家だし、ポピーの家は当時騎士団の隊長をやっていたわよ。ナント家創生期から仕えている家は結構多いのよ」
なんですか。日本でいう大名家の家臣団みたいじゃないですか。イギリスはもっと個人主義なんだと思っていたけど、そうでもないのかな?
疑問に思っていると、レグルスさんが答えをくれた。彼も私と同じように思っているのか、その口調は揶揄するものになっていた。
「珍しいよな。妙に忠誠心が高いというか、団結が固いというか……。まあ、いい職場には違いないんだけどな」
「……。レグルス牧場長、推薦する気がないなら、私がマリの乗る馬を決めてしまうわよ」
おしゃべりを止めないレグルスさんに痺れを切らしたのか、カリンさんは毛並みの良い栗毛の馬の所へ歩いて行った。
「ああ、その馬なら乗馬の練習に使える。だが、練習するなら、わざわざ真冬から始めなくても、暖かくなってから始めても良いんじゃないか?」
レグルスさんはブラシを桶に突っ込むと、カリンさんの後を追った。私も後に続いた。
「こちらにも色々と都合があるのよ。マックス執事の講義がここ一週間ほどなくなるから、乗馬の練習を始めるには都合が良いのよ。始めるなら早い方が良いでしょ?『鉄は熱いうちに打て』とも言うから」
「ああ、確かに早い方がいいかもな。孕んじまったら乗馬なんてできないだろうからな」
「生々しい事を言わないで!」
カリンさんがレグルスさんの方を振り返って出した大声に、馬房に入っていた馬たちが騒ぎ出した。
興奮したように前足を踏み鳴らし、首を上下左右に振り嘶く。
カリンさんはやってしまったという顔をしたが、すぐに気持ちを切り替えて手近な馬からやさしく声を掛けてレグルスさんと手分けして馬を宥め始めた。私は急に様子の変わった馬たちに近づけなくて、通路の真ん中で立ち尽くしていた。
あんなに大人しくしていた馬がちょっとした切っ掛けでこんなに暴れてしまうんだ。これに乗る練習をするのに、私で本当に大丈夫なんだろうか? ……不安になってきた。
大半の馬が落ち着きを取り戻した頃、レグルスさんがこちらへ戻ってきて真顔で言った。
「馬はとても臆病なんだ。さっきのカリンみたいに大声を出したり、死角から近づいたり、急激な動きを見せないようにしないでくれよ。急に暴れ出すことがあるからな。特に背後から近づくのは厳禁だ」
声もなくコクコク頷く私に、カリンさんは申し訳なさそうに謝った。馬を落ち着かせるのに神経を使ったのか、外気は結構寒いと言うのに額には汗が浮かんでいた。
「驚かせてごめんなさい。注意事項さえ守っていれば馬は暴れたりしないから大丈夫よ」
絶対に注意事項は守ろうと思った。コーチもついてくれることになっているから、大事に至る事はないだろう。
レグルスさんはカリンさんが指定した馬に鞍と手綱をつけて馬房から引き出してきた。栗毛の馬は鼻先を私に近づけて匂いを確かめるような仕草をした。
「嬢ちゃんの事が気に入ったようだな。こいつは二歳の牝馬で名前はニケ。気性が穏やかで賢い馬だ。大事にしてやってくれよ」
「よろしくね。ニケ」
カリンさんを真似て、穏やかな低めの声でゆっくりと話しかけ、ニケの首筋を撫でてあげた。ニケは気持ちよさそうに鼻を鳴らした。
「マリが馬を乗りこなせるようになるまで、コーチを誰か付けないといけないのよ。それが乗馬の条件になっているから。私が非番の時は、私がコーチに付くけど、今日は診療所に出ないといけないから誰か付けてもらえないかしら? ……できれば、女性を付けて欲しいかな」
「おいおい、無理を言わないでくれ。牧場で馬を乗りこなせる女性なんて数えるほどしかいないぞ」
「だから、できれば、と言っているじゃない」
カリンさんは無理を承知で要望を出していた。恐らくアーサーの嫉妬を招かないようにとの配慮なのだろう。レグルスさんは少しだけ考え込んで、妥協案をカリンさんに出してきた。
「今日は俺がコーチに付こう。コーチできそうな女性飼育員の勤務予定を出すから、カリンは彼女達がカバーできない日にできるだけ非番になるように調整してくれ。それでも足りない場合は俺がコーチにつく」
「それでいいわ」
妥協が成立したところで、早速乗馬の練習が始まった。馬場まで馬と一緒に歩いて出る。
レグルスさんが手綱を引いて馬を止まらせる。私を手招きして馬のお腹の傍に立たせた。
「鐙に左足を乗せて、両手で鞍を掴んで体を引っ張り上げて鞍を跨いで座ってみて」
カリンさんの指示通りにやってみると何とか鞍に跨れた。カリンさんが鐙の位置を調整してくれた。ここでカリンさんは診療所に戻らないといけなくなったので、私に励ましの言葉を残して去って行った。
正面に目を向けると思いのほか馬の背は高かった。落馬したら痛いだけでは済まないような気がして、思わず鞍にしがみつく。もしかして私は高所恐怖症だった? 考えが悪い方向へ転がって行くのを頭を振って止めた。
レグルスさんはそんな私の様子を見て笑いを堪えていた。手綱の端を右手で握りつつ、左手で手綱を私に渡した。
「今日はただ手綱を握っているだけでいい。慣れてきたら操作方法を教えるから。今日は馬に慣れてもらうのが第一目標だ」
「よろしくお願いします」
私が頭を下げると、すぐにレグルスさんから指導が入った。
「頭は下げない。背筋を伸ばしておいてくれ。脚は少しお尻を上げる様に力を入れていないと、お尻が痛くなるかもしれない。軽く一周馬を歩かせてみるから」
レグルスさんは手綱を引いて馬を歩かせ始めた。馬が歩くにつれて馬の背も前後上下に動いていく。鞍にお尻を乗せたままだと、確かにお尻が痛くなりそうだった。
言われた通りにお尻が鞍から少し浮かすように脚に力を入れる。その姿勢を維持していると、普段使わない筋肉を使うのか、馬場を一周する頃には内股が筋肉痛を伴ってぷるぷると震え始めていた。
黙々と馬を引いて歩いていたレグルスさんが唐突に口を開いた。
「なあ、嬢ちゃん。アーサー様とは仲良くやっているようだけど、結婚はいつするんだ?」
「アーサーは私が決断するのを待ってくれているんです。いつかは……結婚するんだと思います」
「いつかねぇ……。嬢ちゃんも結婚してもいいとは思っているのか? 何が引っ掛かっているんだ?」
頭をかきながら、わからないと言った風にレグルスさんはしきりに首を捻っていた。
「私が記憶喪失だからです。それに私とアーサーでは好きだという気持ちの強さが違う気がして……。きっとアーサーの方が私の何倍も強いんだと感じています。私は受け取る以上のものをアーサーに返す自信がありません」
ため息をついて私は答えた。レグルスさんは急に真面目な口調で私を諭すように言った。
「愛情というのは等価交換が成立しないものなんだ。中には無償で与える愛と言うものある。嬢ちゃんが同じものを返せないからと言って引け目を感じる事は無い。与える側は受け取ってもらえるだけで、それだけで幸せになれるものなんだ」
普段のレグルスさんからは想像できない言葉が耳に入ってきて驚いた。まじまじと彼を見ると、照れたように耳の下を掻いていた。顔は前を向いているので、私からは表情は見えなかった。
私はアーサーと一緒にいて良い存在なんだろうか。彼の足を引っ張ってばかりで、何の役にも立っていない。
馬の背で悶々と考えてみても、結論が出る事はなかった。
2012.09.17 初出
2012.09.17 ルビ追加
2012.09.18 誤字修正




