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第31話 頭隠して尻隠さず

 しまった、やり過ぎた。

 そう悟ったのは、俺がつけたキスマークを隠すようにブラウスの前身頃をかき合せ、震える左手で握りしめているのに気づいた時だった。

 お仕置きなんて口実だった。

 俺以外の男の痕跡を上書きするためにマリの右肩に唇を落とした際に、彼女がふるっと身を震わせた。

 地下室に監禁していた頃、生気を啜りあげる時にマリの体が本能的な恐怖に強張るのは何度も感じていた。


 だが、今、唇を彼女の滑らかな象牙色の肌に落とす行為は、俺が独占欲を満たすためだけのものだ。 それに対して返ってくる反応は、戸惑いと驚きを含んだ初心なものだったので、俺は内心狂喜していた。

 マリの肌にキスマークを残した男は俺が初めてなのかもしれない。

 願望にも似た都合のいい認識は、俺を暴走させるのに十分な後押しとなった。非難するマリの眼差しが俺の理性を回復させようとするが、膨れ上がった独占欲が理性を凌駕した。

 結果、所有の証をマリに刻み込むのに夢中になり、我に返った時には、マリは床に座り込んで羞恥に頬を染め、俯いて怒りに震えていた。俺を見ようともしない。


「立てるか?」


 気まずい雰囲気に耐えかねて俺が手を差し伸べると、マリは右手で俺の手を払いのけてゲスト用のベッドルームへ駆け込んでしまった。

 慌てて後を追うが、目の前でドアを閉められた上に鍵まで掛けられてしまった。


「マリ、悪かった。やり過ぎた事は謝る。だから、ここを開けてくれないか」


 何度か彼女が篭ったベッドルームのドアをノックしてドアを開けるように促すが、中からは返事はなかった。

 これは、本格的に怒らせてしまったか……。

 ドアに額を当てて目を閉じる。反省だけなら猿でもできるが、どうしてマリだけには欲望が抑えられないのだろうか。これでは、俺は猿以下だ。

 今まで少しずつ俺に馴染ませてきたというのに、折角の努力が水の泡だ。


 しかし、マリがあれだけ鮮烈な感情を隠しもせずに俺に直接ぶつけてくれたのも初めての事だった。マリを監禁していた頃は、酔った時以外は感情を爆発させる事はなかったのだから。

 そう言った意味では、感情を曝け出せるほどマリは俺を信頼しつつあるという兆候なのかもしれない。

 ベッドルームから出で来る気配がないので、ドアの前で座り込んで背中をドアに預けた。

 マリに許してもらえるまで、ドアを開けてもらえるまでここで待っているしかない。彼女に嫌われてしまったらと思うと怖くなる。

 俺の理性はいつまで耐えられるだろうか。マリが嫌がっていたのに俺は止められなかった。こんなに誰かに執着を持つなんて、マリに出会うまでは考えられなかった。

 マリ、君は相当厄介な男に魅入られいているのを知っているか? 逃がさないから覚悟しておいてくれ。



* * * * * * * * * *



 ゲスト用の寝室に篭ってから暫くの間は、アーサーはドアをノックして鍵を開けるように言っていたけど、私は怒りが収まってなかったので無視した。

 一通り怒りを吐き出す頃には、アーサーも諦めたのかドアの外も静かになっていた。ベッドからのそりと起き上がってシャワー室へと向かう。

 服を脱いで備え付けられている鏡でアーサーから付けられたキスマークの位置をチェックした。

 右肩と両手首、鎖骨の下にあるものは服で隠すことができそうだ。でも、首にあるものはスカーフでも巻かない限り隠せそうもない。困ったことに一番濃くついてしまっている。

 これではナントの館に戻るまでに消えそうにない……。

 カリンさんやライラさんに見つかったら何て言われるか。今から憂鬱だ。


 今日初めてアーサーが怖いと思った。抵抗する手段を奪われて、彼のなすままにされてしまった。

 いつも私の事を気遣ってくれる優しい人だったから、あんな風に独占欲に駆られて、アーサーが嫌がっている私にキスマークを付けようとするなんて思いもしなかった。

 婚約者だからいいと思ったのだろうか。それとも、本当に私に罰を与えたかったのだろうか。


 分からない。

 服をきちんと着てからシャワー室を出る。スカーフ代わりにマフラーを首に巻いてドアに向かった。

 私がアーサーとの約束を破ったのは確かだし、心配かけたのも本当の事だ。私が想像しているよりもアーサーの心配は深かったのもしれないし、約束を破られた事で深く傷ついたのかもしれない。

 欧米人は契約をとても大切にするらしいから、約束も日本人の私が考えるよりもアーサーにとっては神聖なものなのかもしれない。

 時間が経ては経つほど仲直りが難しくなってくる。謝ろう。そして、アーサーにも謝ってもらおう。それでこの件は終わりにしよう。


 ドアを開けようとしたけど、押してもドアが開かない。このドアは外開きなので、ドアの外に何か置いてない限り開くはずなのに。

 もしかして、アーサーが私の大人げない対応に怒って私をこの部屋に閉じ込めたとか? 差し伸べられた手を振り払ったのは良くなかったのかな……。

 くよくよ考えても仕方ない。とにかくここを出て、アーサーと話し合わなければ何も始まらない。


 ドアを押さえている重量物に負けないように、ドアに全身の体重をかけるようにしてドアを押す。ドアノブを回すと、予想に反してあっさりとドアが開いた。

 体の重心を前にかけていた私は、勢いよく開いたドアに支えを失い、前へ倒れ込みそうになった。

 突然、横から腕が伸びてきて私を抱き止める。おかげで床と額がぶつかる事は避けられた。


「全く……、マリは何がしたいんだ?」


 呆れたようなアーサーの声が頭上で響いた。

 人が突然ドアから飛び出してきて、ずっこけそうになっていれば当然そう思いますよね――。

 私の体を横抱きにしていたアーサーは、私を抱え直すと床に立たせてくれた。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 見上げてアーサーを見ると、私が怖いと感じた肉食獣の面影は消えていた。これなら落ち着いて話せそうだ。


「誘拐未遂事件で心配かけて、ごめんなさい。それと、さっきはアーサーが親切心で差し出したくれた手を手酷く振り払ってしまって、ごめんなさい。……痛かったでしょう?」


 私は振り払ったアーサーの右手をそっと両手で包んだ。彼は右手を私の手の中から抜き取ると、マフラーに手をかけて取り去り、首に残るキスマークを見て申し訳なさそうに言った。


「俺の方こそ、すまない。頭に血が上っていたようだ。理性の歯止めがかからなかった。かなり濃い跡が残ってしまっている……」

「もう済んだことはお互い水に流しましょう。私も悪かったし、アーサーもやり過ぎた。お相子(あいこ)です」


 怒ってない事を示すために、アーサーに微笑みを向けた。


「許してくれるなら」


 彼も良い手打ちの方法だと思ったのか、私と同じように微笑んでくれた。




 誘拐未遂事件にあった為、アーサーの判断で予定を数時間早めて翌日のお昼前にロンドンを発ち、ナントの館へ戻る事になった。

 ナントの館で出迎えてくれたのは、ライラさんとマックスさんだった。


「おかえりなさいませ、アーサー様、マリ様。お二人が御不在の間に、アーサー様のお父上、リーフ侯爵からクリスマスの招待状が届いております」


 マックスさんがアーサーからコートを受け取ってハンガーにかけていく。


「毎年のことだ。今年も出席すると返事をしておいてくれ」

「それが、今年はマリ様も一緒に招待されております。マリ様も出席されるということで、よろしいですか?」


 意外な所で私の名前が出て思わず振り返った。クリスマスって、キリスト教圏では家族と過ごす日になっているのではなかっただろうか。

 私なんかが侯爵家のクリスマスに招待されても良いんだろうか。一応、婚約者だからいいのかな?


「マリ、一緒に行こう。招待されているなら遠慮することはない。親父に紹介しておきたいし、一緒に出席できなければ、二日間もマリに会えなくなるからね」


 アーサーにそう言われて私は頷いた。彼が一緒なら作法に慣れていない私でも何とかなるだろう。


「そうなると思って、ブティック『ライズ』の方をお呼びしています。何度も何度もロンドンに向かわれる前にマリ様の採寸をされて下さいとお願いいたしましたのに。今からですとドレスを仕立てるのに、急がせてもギリギリの日数しかありません」

「女性の服は作るのにそんなに時間がかかるのか?」

「これだからマリ様のご準備は殿方に任せられないのです。さあ、参りましょう、マリ様」


 ライラさんはアーサーに苛立ったようにそう言うと、私の手をとって私の部屋へと連れて行った。

 そこには、メジャーを首にかけ、動きやすいが上品さも失われていないパンツスーツに身を包んだ女性が待っていた。


「ブティック『ライズ』のチーフデザイナー、アンジェラ・トーマスと申します。フォーマルドレスを仕立てられるという事ですので、早速採寸に入らせてもらいます。服を脱いでいただけますか?」


 コートとマフラーの事かと思って、それらを脱いでライラさんに預けた。

 昨日アーサーが残した首のキスマークは、ベースクリームとファンデーションを塗って目立たないようにしておいたから、気づかれにくいはずだ。応急処置しておいて良かった。

『備えあれば憂いなし』

 昔の人は良い事を言ったものだ。


「これでいいですか?」


 アンジェラさんに確認をとろうとすると、彼女は爽やかに微笑みながら、ばっさりとダメだしをしてくれた。


「ブラジャーとショーツ以外は全部脱いで下さい」

「えっ!?」


 たらりと冷や汗が背中を流れる。そこまで脱いだらキスマークも誘拐犯に掴まれた指の跡も見えてしまう。

 アーサーとは同衾はしたけど、体の関係は持っていない。でも、これを見られたら、そういう関係になっていると勘違いされるかもしれない。いたたまれない。


「マリ様、どうかされましたか?」


ライラさんは私の動きが止まったのを見て(いぶか)しんだ。

 確かドレス仕立てるのもギリギリの日数しかないと言っていた。後日、改めて採寸する事はできないよね……。

 ええい、こうなれば自棄(やけ)よ。女は度胸!

 覚悟を決めてアンジェラさんに言われた通りに下着姿になる。手首の指の跡もキスマークも見えているだろうに、彼女はプロらしく顔色一つ変えずに黙々と採寸作業をこなしていった。

 足の指先から頭の天辺まで隈なく採寸された。右と左で腕や脚の長さが違う人もいますからと両腕も両脚も採寸され、足型も取られた。

 ライラさんは黙ってその様子を見守っていた。

 採寸が終って私が寝室で服を着ている間、ライラさんとアンジェラさんは居間で何か打合せをしていたようだ。私が居間へ入っていくと彼女達は話を中断させた。


「マリ様、今回はドレスの製作時間が限られていますので、私が過去にデザインしたものでドレスを作らせて頂きます。二日後に仮縫いしますので、お時間を空けて頂けますか?」

「はい」


 私が返事をすると、アンジェラさんは別れの挨拶もそこそこに、慌ただしく部屋を後にした。

 本当に時間がないんだ……。

 私の為にアンジェラさんに無理をさせている事を心苦しく思った。




「ロンドンでマリ様の誘拐未遂事件があったとお聞きしました。カリンからは怪我は大したことはないと聞いていたのですが、大丈夫だったのですか?」


 アンジェラさんの足音が完全に聞こえなくなると、ライラさんが鬱血痕や手首と肩に残る赤い指の跡を見たからか、私に聞きにくそうに質問してきた。


「昨日、私の不注意で誘拐されそうになったけれど、カリンさんやレグルスさんが助けてくれたから大丈夫です」


 心配させないように言ったつもりだったけど、ライラさんは目を潤ませていた。


「御無事で何よりです。先程の赤い鬱血痕は、誰につけられたものなのですか?」

「これは、私が約束破ってしまったから、アーサーがお仕置きだって言ってつけられたものだけど……」


 ライラさんは衝撃を受けたようで、顔を強張らせて首を横に振っていた。


「まさかアーサー様がそんな事をなさるなんて。私はそんな風にお育てした覚えはございませんのに!」

「アーサーもやり過ぎたって謝ってくれたから、もういいんです」

「いいえ、良い事ではありません。か弱い婦女子に力で無体を強いるなんて、あってはならない事です。アーサー様に問い質して参ります」


 今にも居間から飛び出しそうなライラさんを押しとどめようとした。


「待って、ライラさん。無体って言ってもキスマークを付けられただけだから。それ以上は何もなかったんです。本当です」


 私のせいでライラさんがアーサーと対立するのは避けなくてはならない。アーサーがライラさんに頭が上がらないとはいえ、決定的に対立してしまえば、使用人であるライラさんが解雇されてしまうかもしれないのだから。

 ライラさんを宥めるのに時間が掛かってしまったが、最終的にはアーサーが暴走した時には必ずライラさんに相談すると約束して、ライラさんを納得させたのだった。


2012.07.30 初出

2012.09.15 改行追加



  ――おまけ裏話――  マリが服を着ている間のライラとアンジェラの会話


 ア=アンジェラ  ラ=ライラ


ア「マリ様の背中にキスマークが散らばっていますが、あれは伯爵がつけておられるのですか?」


ラ「おそらくは……」

  (マリ様が睡眠薬を服用されて就寝された後、アーサー様はマリ様の寝顔を見に来られているようですから)


ア「背中に跡をつけるのを止めて頂く事はできないですか?」


ラ「……」


ア「無理なようですね。仕方ありません。マリ様のドレスは背中が開いていないものにせざるを得ませんね」


ラ「できれば、スカーフ等で首を隠せるようなデザインにして頂けませんか?」


ア「マリ様は上手く隠せたと思われているでしょうが、首の一部分にだけファンデーションが乗っていれば、ここにも(キスマークが)ありますよと言っているようなものですね」


ラ「気づかれてましたか」



 結局、プロの方たちには隠せてなかったよ、ってことです。


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