第32話 癒しの力
医学的な知識は専門ではないので不確かな部分が多くあります。
専門の方から見れば、突っ込みどころが多い内容となっているかもしれません……。
カリンさんが働く診療所はナントの館の東にある別館に併設されていた。診療所と言っても簡単な手術ならできてしまう応急処置室があり、ベッド数は少ないが一時的に入院できるだけの設備が揃っていた。
過剰とも思える診療所の設備は、幼い頃から病弱だったアーサーの母親ソフィアさんの為に、アーサーの祖父にあたるローランド・ナント伯爵が整えたのが始まりらしい。
その後、使用人とその家族にも診療所が解放され、大いに健康管理に役立てられているという。緊急時にはアリストン総合病院系列の病院へヘリコプターで患者を搬送できるようになっているとカリンさんから聞いてとても驚いた。
専属のパイロットを雇っているなんて大変だなと思っていたら、牧場と農場と森林管理で働く人なら半分ぐらいが持っている資格なんだそうだ。それぞれ管理している場所が広すぎて、種をまいたり、農薬を散布したり、用地を管理するのにヘリコプターを使う必要があるのだそうだ。
ヘリコプターを使用しないといけない牧場や農場があるナントの所領はどれだけ広いのだろう。ウサギ小屋と言われるほど狭い住宅に当たり前に住んでいる日本人の私には想像できなかった。
それにヘリコプターの操縦資格を取れれば、お給料が大幅に上がるだけではなく、別館に近い使用人の宿舎――部屋が広くて設備も良い――に優先的には入れる為、操縦資格を取ろうとする人が使用人の中では多いらしい。
午前のマックス執事の授業が終わった後、私はカリンさんに目の異常を診てもらうために診療所を訪れていた。
ライラさんに相談するとアーサーに報告が行くばかりではなく、カリンさんに部屋まで往診に来てもらう事になりそうなので、散歩してくると言って部屋を抜け出してきたのだった。
待合室に入ると診察の順番を待っている人が7人ほどいた。その中で庭師のトムさんが診察の順番を待合室の長椅子に座って待っていた。
「トムさん、お久しぶりです」
「マリ様、ロンドンは如何でしたか?」
彼はベンチから立ち上がろうとしたが、私は座っていて下さいと身振りでお願いした。トムさんのすぐ横に私は座った。
「ロンドンは楽しかったですよ。一日だけですけど、カリンさんが色んな所へ連れて行ってくれましたから」
にこやかに答えると、彼は遠慮がちに言った。
「その……、アーサー様はどうされていたので?」
「日本大使館と大きな商談をしていたらしくて、仕事でなかなか時間が取れなかったみたいです。あ、でも、指輪を作りに宝石店へ連れて行ってくれました」
トムさんは私の左手の薬指に視線を落として言いにくそうに聞いてきた。そこに指輪ははまっていない。
「左手の薬指に指輪がないようですが、婚約指輪をお作りになったのではないので?」
「作った事は作ったのですが……、オーダーメイドなので、完成まで最低でも一ヶ月はかかるそうです」
彼はほっとした様子で納得したように頷いた。
「そうですか。それはようございました」
「トムさんはどうしてこちらで診察の順番を待っているのですか?」
私が尋ねると、彼は左手を差し出した。左手を動かそうとしていたが、思うようには動いていないようだった。
「左手が朝起きてから一時間ぐらい強張って動きにくくなりまして、二週間前にカリン先生に診て頂いたんでさぁ。そうしたらリウマチだと言われましてね。その診察でさぁ。年には勝てませんなぁ」
右手で左手を労わるようにさすり、寂しそうに力なく笑った。彼の左手に黒い靄が見えた。
まただ――。
最近どういう訳か時々黒い霞が見える。アリストン総合病院でもそうだったが、人の体の一部に黒い霞がかかっているように見えるのだ。
誰の体でも見えるという事ではなく、特定の人の体にしか霞は出現しない。目を手でこすっても消えてはくれないが、私が手で払うと消えるかごく薄くなってくれる。
他の人に黒い霞が見えないか聞いてみたけれど、私と同じものが見える人は誰一人としていなかった。
私はトムさんの左手を両手で包み、右手で黒い霞を拭うように手の甲を擦ってあげた。
「痛くはありませんか? これで少しでも楽になると良いんですが……」
「マリ様にこの老体を心配して頂けるとは嬉しい限りですなぁ。リウマチになってしまいましたから、そろそろ引退かと思っていたんですが、もう少し頑張ってみようかという気持ちになりますな」
目を細めてにこにこと笑っているトムさんを勇気づける様に励ました。
「引退だなんて、そんな事言わないで下さい。トムさんが丹精込めて育てている温室のお花、私は好きです。愛情を受けて力一杯に咲き誇っている姿が眩しくて……」
黒い霞が消えたので、私は手を止めて彼の左手を解放した。トムさんは左掌を握ったり開いたりを数回繰り返して具合を確かめていた。
「ああ、擦ってもらったおかげで手が動くようになった気がします」
「よかった」
診察室の中から看護師が出てきてトムさんの名前を呼んだ。看護師は彼にレントゲンを撮るように言い、レントゲンのオーダー伝票を手渡した。
レントゲン室に行くために、よっこらしょ、と長椅子から立ち上がって、トムさんは私に冗談めかして言った。
「マリ様、このじじいが耄碌せぬ内にアーサー様との御子を見せて下され。御子に花々と草木の美しさを滔滔と説いて煙たがられるのが夢でしてな」
その言葉に私がぼんっと頬を赤く染めたのを見て、トムさんはふぉふぉと含み笑いをたたえながらレントゲン室へと歩いて行った。
* * * * * * * * * *
レントゲン室から上がってきた写真と二週間前に取ったレントゲン写真を二台のパソコンディスプレイに並べて比較していた。今見ているレントゲン写真は、使用人の中では古株である庭師のトム爺さんのものだ。
二週間前のレントゲン写真では左手の指の関節部分にびんらんが見られた。更に手の強張り、関節の腫れがあった事から、私はリウマチとの診断を下した。
この病気は自己免疫機能が暴走し、滑膜や軟骨が破壊される事で引き起こされる。関節を構成する組織が炎症を起こし破壊された結果、関節が変形し動かすと痛みを生じるようになる。症状が進行すれば骨同士がくっついてしまい関節を曲げれなくなる。
治療は病状の進行を抑える為に抗リウマチ薬を投薬する方法が一般的だ。二週間前に診断を下した際にトム爺さんには薬を処方したが、それは抗リウマチ薬しては普通の薬だ。
二週間前と現在のレントンゲン写真を見比べて私は衝撃を受けた。滑膜や軟骨の破壊が止まっているどころか再生されていたのだから。ほぼ健康な状態の関節のレントゲンが、先程上がってきたレントゲン写真には映っていた。あり得ない。
看護師が持っている携帯端末を呼び出して、レントゲン写真が確かにトム爺さんの物か確認すると、間違いありませんとの回答が返ってきた。
一体どうなっているのよ?
頭の中一杯に疑問符を浮かべていたら、看護師が診察室のカーテンの間仕切りから顔を出して、アリストン総合病院から電話が入っている事を告げた。
「カリン先生、アリストン総合病院のヘンリー医師からお電話が入っています。診察中と言って、後でこちらから電話を掛けますと、お返事しておきましょうか?」
「いや、まだトム爺さんが診察室に入ってないから繋いでちょうだい」
転送された電話を取ると受話器の向こうから少々興奮して上擦っているテノールの声が聞こえてきた。
『カリン、大変だ。天変地異が起こった。学会に発表すれば、ノーベル賞が取れるかもしれない』
「はあ? 何寝ぼけた事を言っているの? ヘンリー、あなたの大変屋の性格は治した方が良いわよ」
私が冷たくあしらうと、ヘンリーは尚も食い下がってきた。彼が興奮して話す事柄には、碌な物がないのは同じ職場にいた時に嫌と言うほど経験してきたので、思わず耳を半分ほど塞ぎたくなった。
『俺がカリンに治療方針を相談した脳腫瘍の症例があっただろ? ガンマナイフで治療していたんだが、先日取ったPET-CTで脳腫瘍が綺麗に消えていたんだ。そして、その部分に健康な脳細胞が復活していた。脳細胞は死滅しても増殖して補えるんだよ。素晴らしい発見だと思わないかい?』
まさか。ガンマナイフで腫瘍ごと脳細胞を死滅させたら、その部分の脳細胞は回復する事は無いはずだ。あり得ない。
「そういう症例が複数見つかったら、また連絡してくれるかしら? 診察の患者を待たせているから、電話を切るわよ」
医学界の常識に反する事を一方的に耳に流し込まれるのは耐え難かった。私が本気で電話を切ろうとすると、ヘンリーは待ったをかけた。
『ああ待って。もう一つ別の用件でカリンにお願いしたい事があったんだ。その患者がPET-CT検査の待合室で出会った少女に会いたいと言っているんだ。彼が言っているのは君の患者だろう? 会っても良いかどうか聞いて欲しいんだ』
「お断りよ」
私は即答で拒否した。我々医師に課せられた個人情報保護義務を彼はどう考えているのだろうか?
それに、何で医師の私がお見合いの仲人の真似事をしなければならないのか。理解できない。
マリにはアーサーという婚約者がいる。下手に好意を持つ異性を近づける事はできない。
「あなたがしようとしている事は、完全にアリストン総合病院の内規違反に当たるのを知らないの? 今の話は聞かなかったことにするから、もう二度とこの話はしないでちょうだい」
彼の軽率すぎる行動に頭が痛くなりそうなのを押さえこんで、今度こそ私は電話を切ったのだった。
トム爺さんを診察した後、診察室に入ってきたのはマリだった。
「あら、わざわざ診療所に来てくれなくても、言ってくれれば部屋まで往診したのに」
「いえ、こちらへ来た方がいろいろな人とお話しができるので、私には合っているんです」
私が椅子を勧めると、マリは素直に座った。
「で、今日はどんなところが気になっているの?」
初歩的な問診をしてみると、彼女からは意外な答えが返ってきた。
「時々黒い靄のようなものが見えるんです」
「黒い靄?」
オウム返しに聞くとマリは黒い靄が見えた時を思い出そうとしているのか顎に手を添えながら説明した。
「どこでも見えるわけではなくて、特定の人の体に見えるみたいなんです。私以外には見えないようなので、何かの目の病気かなと思ったのですが……」
カルテにマリが訴えている病状を書き記してから、部屋の灯りを落とし、眼底鏡でマリの両目の眼底の状況を見てみた。網膜もそこに走る毛細血管にも異常は見られなかった。
部屋を元通りの明るさにすると、私は更に質問を重ねた。
「いつから見える様になったの?」
「ロンドンのアリストン総合病院でPET-CTの検査を受ける際に待合室で待っていた時に、偶然居合わせた患者さんの頭に黒い靄を見てからです」
「最近、黒い靄が見えた事は?」
「診療所の待合室で待っている時、トムさんの左手に見えました。黒い靄は私が触れると、薄くなったり、消えたりするんです。……変ですよね?」
医学の常識では考えられない回復と組織の再生。それに関わっている共通点はマリだけだ。
これが白の巫女の癒しの力なのだろうか。現代の医学が抱える限界を軽々と越えてしまう力は、難病を抱える患者にとっては垂涎ものだろう。
マリに癒しの力がある事を気づかせてはいけない。
私はとっさにそう判断した。外部に知れてしまえば、きっと病院から治療困難と見放された人々が、ここへ押しかけて来るだろう。
癒しの力の行使がマリにどういう影響を与えるのか分かっていない状態で、彼女に力を酷使させるような事があってはならない。何かがあってからでは遅すぎる。彼女はアーサーを救える唯一の存在なのだから。
「眼の水晶体も綺麗な物だし、眼底の毛細血管も網膜も損傷していないわ。目の機能自体には異常は見られないから、目の病気ではないわね」
私がそう診断を下すと、マリは安心したようにほっと胸をなで下ろした。
「病気ではないんですね。良かった。でも、黒い靄はどうして見えるんでしょう?」
「それは私には分からないわ。でも、日常生活に支障がないなら気にしなくても良いんじゃない?」
「そうですね……。心配かけたくないので、ライラさんとアーサーには、私が診療所で診察を受けた事を黙っていてくれますか?」
「黙っておくから、大丈夫よ」
マリにはそう請け負ったが、アーサーにはマリが白の巫女の能力の一つである癒しの力を無意識の内に使っている事を報告しないといけないだろうと、冷静に心の中で結論を出していた。
2012.08.06 初出
2012.09.15 改行追加
ガンマナイフ
癌に対する放射線治療の一種。周囲から微弱な放射線を当てて、焦点にあたるところでは強力な線量となり癌細胞を破壊するという治療方法。手術では手が出せない脳の深淵部の癌への治療に用いられるらしいです。




