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第26話 アーサーの嫉妬

 私はカーリントン・ホテルのスィートルームにある簡易キッチンでカップケーキの下拵(したごしら)えをしていた。

 カリンさんがこちらでの仕事が終わったから、明日の午後にロンドンを発ってナントの館に帰ると聞いて、お世話になっているお礼に、何か手作りのお菓子を作って贈ろうと思ったからだ。


 本当は、今日はカリンさんの仕事がお休みの日だったけど、「折角、ロンドンに来ているのにマリは全然遊べてないじゃないの」と、朝からロンドン市内を連れ回された。

 バッキンガム宮殿、大英博物館、イギリスの庶民が使うスーパーマーケットへも行って、存分にロンドンの雰囲気を味わう事ができた。

 昼食はハンバーガーなんていうジャンクフードで済ませてしまったし、クレープを食べ歩きしたり、ナントの館では絶対にできそうにもない事をしてしまった。


 こんな事をしてライラさんに知れたら怒られるんじゃないかなと心配していたら、カリンさんは「いいのよ。息抜きだってたまには必要でしょ? ここには、ライラ母さんはいないし、私も告げ口なんてしないから大丈夫よ」と、あっけらかんと笑って私の心配を払拭してくれた。

 医師と患者という関係だけでなく、友人としても私に関わってくれるカリンさんは、私にとって頼りになる人物となっていた。些細な相談事も親身になって聞いてくれた。そこにはナント伯爵家の使用人だから、私がアーサーの婚約者だからという計算や遠慮が全くなかったので、その意見は本当に参考になった。

 カリンさんみたいなお姉さんが欲しかったな……。

 そう思いながらベーキングパウダーをボウルに振り入れていると、居間の方からアーサーの帰宅を告げる声が聞こえた。


「ただいま」


 ボウルに入れた材料を撹拌(かくはん)していた手を止め、エプロンを解くとアーサーの声が聞こえた居間へ向かった。


「おかえりなさい」


 入ってきたアーサーを出迎えると、彼からコートを受け取ってハンガーにかけた。

 居間のローテーブルに置いてあった角2サイズの茶封筒を手に取るとアーサーへ手渡した。カリンさんからの預かり物だ。


「これ、カリンさんからアーサーに渡して欲しいって頼まれた物です。私の総合的な健康診断の詳細が入っていると言ってました。記憶喪失以外は何も問題はないと太鼓判を押してもらえたんですよ」


 朝食昼食抜きの検査漬けに耐えた甲斐もあるというものだ。もう暫くは病院へは行きたくない気分になるほど、検査をこれでもかというくらい受けたから。

 嬉しそうに報告すると、アーサーは私の頭を優しく撫でてから、その場で茶封筒の中の書類に目を通し始めた。読み終わると安心したように、ほっと溜息をついた。


「よかった。事件に巻き込まれて君の体にどこか負担が掛かっていないかと心配だったんだ。何もなくて安心した」


 今は自覚症状がなくても、頭を強く打っているから後で後遺症が出てくる場合もある。アーサーはその点も考慮して、カリンさんに今回の健康診断を手配させたのだろう。そうでなければ、あれほどの検査を受けさせられた説明がつかない。

 アーサーが整った顔を首筋に寄せてきて、髪に触れるか触れないかの所でくんと鼻を鳴らして私の匂いを嗅いだ。


「いい匂いがしているね。香水の匂いではないようだが……」


 眩しすぎるほどの美顔に急接近されて狼狽えている心のうちを悟られないように、務めて明るめの声色で私は答えた。


「バニラエッセンスの香じゃないかな? カリンさんにカップケーキを食べてもらおうと思って、作っているところだったから」

「ふーん」


 私の耳元で不機嫌そうな声が響いた。

 あれ? アーサーのご機嫌が突然悪くなったような気がする。私、何か地雷でも踏んだ!?


「も、もちろん、アーサーの分もあるから……」


 慌てて言い繕っても後の祭りだった。

 ゆっくりとアーサーの顔が耳元から上げられ私を上から寂しそうな表情で見下ろした。両肩には彼の大きな手が置かれ、私が簡易キッチンへ撤退したくてもそれを許さなかった。


「ロンドンに来てから、仕事でマリに構ってやれなくて本当にすまないと思っている。しかし、俺よりもカリンと仲良くなるなんて酷いんじゃないか? 俺はマリからデザートを作ってもらって贈ってもらった事はないんだぞ」


 え? もしかして、アーサーって拗ねているの? 拗ねているの?

 もっと聞き分けの良い大人の余裕を持っている人だと思っていたけど、私にとっての一番がアーサーじゃないと嫌なんだ……。

 他の男性に対してならともかく、アーサーの盟友で女性であるカリンさんにまで焼きもちを焼くなんて想像できなかった。

 それは独占欲の裏返し。それだけ彼が私を求めているという事実に照れくさい気持ちになる。

 アーサーが私に注ぐ感情はどれも多彩で温かいものだった。でも、それでさえも彼の忍耐で抑制されてきたものに過ぎないと、この時理解せざるを得なかった。


 視線を上げると、アーサーは顰面(しかめつら)を隠そうともせずに私の答えを待ち構えていた。

 このまま放置するのは危険であると第六感が私に警告を出している。危機回避策を数秒で捻り出してアーサーに提示する事にした。


「アーサーは甘い物は大丈夫なの? 男の人って甘味が苦手な人が多いから……」

「甘い物もいける口だ。もしかして、俺が甘い物が苦手だと思っていた?」


 アーサーの渋面がいくらか緩んだ。私がアーサーは甘い物が苦手だと思っていたから、今まで作ってくれなかったのかと思ってくれたようだった。

 ナントの館ではマックスさんを筆頭に、アーサー様の婚約者に料理をさせるなど、とんでもないという雰囲気があったからできなかった。ここで料理の腕前をアーサーに認めてもらえれば、ナントの館でも少しは調理に参加させてもらえるかもしれない。


「ミルクレープを夕食のデザートに作るから、それで許して?」


 上目遣いでアーサーのお願いすれば、途端に機嫌は直ってくれた。通常運転に戻った彼の様子に心の中で胸をなで下した。

 ミルクレープならカップケーキを焼いている間に十分用意できる。夕食まであと1時間半ほどだから、急がないと。


「すぐに取り掛からないと、夕食に間に合わなくなるから、キッチンに暫く篭ります」


 そう言って、簡易キッチンへ逃げ込もうとすると、背後から腕が伸びてきて私を取り囲んだ。腕の主はアーサーだ。


「『おかえり』のキスがまだだよ」


 アーサーは私の二の腕を柔らかく掴んで、私を再び彼の正面に向き直らせた。彼は楽しげに目を細め、ニヤリと面白そうに口角を上げて唇を歪めた。

 やっぱり忘れてなかったか。何とか誤魔化せたと思ったのに。

 恥ずかしさに顔を俯けて黙っていると、彼は追い打ちの言葉を掛けてくる。


「約束しただろ? 約束は守るためにあるんじゃないかな」


 ああ、本当に良く考えずに、とんでもない約束をしてしまったなと後悔しても遅すぎた。



 事の発端は、私がホテルから毛布を一枚余分に貸してもらって寝る時に寒くならないようになってからも、アーサーが主寝室のベッドに私を連れ込んで添い寝を止めようとしない事にあった。


「毛布もホテルから借りられた事ですし、寒さに震える事もありませんから、もう添い寝してもらう必要はないですよね?」


 今朝の朝食後、食後の紅茶を飲みながらアーサーに添い寝の必要がない事を説明していると、彼は意外な答えを返してきた。


「マリには必要なくなったかもしれないが、俺には必要なんだ」

「何故、必要なんですか?」


 分からないと言うように私が首を傾げると、斜め横を向いて視線を私から外した。


「主に俺の精神安定の為かな。俺はいつもマリの傍にいてやれない。特にロンドンに来てから仕事に追い回されて夕食もほとんど共にできない状態だ。それに、マリは俺の婚約者だけど結婚を今すぐ決断できるほど俺を深く想ってくれているわけではないだろう?」


 不安を吐露するアーサーに私は沈黙するしかなかった。

 アーサーの事は好きだと思う。でも、それは親友に向ける様な親愛の情であって、恋人たちの間で育まれる愛情までにはなっていない。記憶さえ戻れば私は素直にアーサーの胸に飛び込んでいけるのかもしれない。その時に心に抱いていた愛情があるなら、きっと。

 沈黙を保つ私にアーサーは続けた。


「だから、時々、マリは俺の物だという証を刻みつけたくなる。昨日の婚約指輪にしてもそうだ。これでも色々と自分を押さえているんだよ」

「それがどうして添い寝に繋がるの?」


 男性の心理には詳しくないけど、添い寝していて我慢していると言われれば、あまり良い意味ではないような気がする。我慢が決壊すれば私が望まない結果がもたらされる予感がした。何とかしなければ。

 打開策をあれこれ頭の中で組み立てていると、アーサーはいつの間にか視線を戻し、艶っぽい目で見つめていた。そろそろ免疫がついても良い頃なのに、彼に見つめられると無意味に心臓が騒ぎ出す。


「マリを腕に抱いて眠る時が、マリを手にしているのは俺だと一番実感できるから。少しはマリが俺に気持ちを向けてくれている事が分かれば、抱いて眠る事もせずに済むかもしれないが……」


 ああ、アーサーは不安なんだ。

 私の心をまだ彼には話した事がなかった。きちんと彼に向き合わないといけなかったんだ。


「アーサーが好きよ。でも、これが愛情なのかは分からない。親友に向ける友情に近いと思う」


 私が今持っているアーサーへの感情を正直に話せば、彼は今はそれでもいいと微笑んでくれた。

 彼は席を立って私の横に座り、愛おしそうに私の左の頬に触れた。そして右頬に唇を落とした。一瞬だけアーサーの舌が肌をかすめて、その感触に思わず肩を竦ませた。


「気づいているか? いつもこうするのは、俺の方からだけだという事を。少しでも俺に気持ちが向いているなら、態度でも示して欲しいものだな」


 アーサーの口調には、微かに私を咎めるような響きが含まれていた。


「日本人である私には、日常的にキスをする習慣はないんです」

「知っている。だが、ここはイギリスだ。イギリスでは家族の間では、これ位のキスは当たり前だ。『郷に入れば郷に従え』と日本では言うのではなかったか?」

「確かにそういう諺(ことわざ)もありますけど、習慣をいきなり変えろと言われても難しいです」


 羞恥心のあまり頬を朱く染めながらも、涙目でアーサーに反論すると、彼はそれもそうだなと少しは納得してくれた様だった。


「しかし、変えようと努力しないと、変わるものも変わらないからな。『おはよう』と『おかえり』の時ぐらいはマリからキスしてくれないか。そうしてくれれば、俺も不安にならなくて済むかもしれない」

「そうしたら、添い寝をしなくても済むの?」


 確認すると、アーサーは右手を神に宣誓するときの様に胸の横に掲げて請け負った。


「マリが望まない限りしないよ。だから、マリも約束して。どんな形であれ俺が好きなら、親愛のキスでもいい、マリからしてくれる事を」


 このまま開き直られて彼に添い寝を続行されるよりは、一日に二回――ナントの館へ帰れば外出も減るだろうから一日に一回になるかもしれない――彼の頬へキスする事を受け入れた方が良いだろう。

 そう考えて、私はアーサーの右手に手を重ね合わせて同じように宣誓した。


「約束します」



 よくよく考えてみれば、使用人の目がわんさかあるナントの館で、伯爵家当主であるアーサーが婚約者とはいえ未婚の女性と同衾するのは、カリンさんとライラさんが良い顔をしないだろうから、無理だろうと思えてきた。

 だって、あの二人にはアーサーは頭が上がらない様子だから。


「マリ?」


 躊躇している私にアーサーが催促をしてくる。何だか面白がっているように聞こえる。

 上手く言いくるめられて、約束しなくても良いような事を約束させられたような気がしてきたが、それでも約束は約束だ。


「少し屈んでもらえますか?」


 消え入るような声で呟くと、アーサーは膝を折って目線の高さを私に合わせてくれた。

 ぎこちなく左手を伸ばしてアーサーの右頬に触れ、右手を彼の肩に置いて支えにしてから、そっと左頬に唇を触れさせた。

 そして、彼の耳元で囁いた。


「おかえりなさい」



2012.06.24 初出

2012.06.25 誤字・後書き修正

2012.09.15 改行追加



 マリさんを地下室に監禁していた時に、さんざん彼女が作ったデザートを取り上げておいて、何を拗ねているんでしょうね、この男は。


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