第27話 奪われる翼
フェンリル・ファンドの日本支社長であるマサキを伴って、俺は在英日本大使館を定刻通りに訪れた。
若い職員に案内されて会議室に向かう途中、背中に鋭い敵意が含まれた視線を感じた。その方向を振り返ってみると、五日前にマリに関しての事情聴取を俺に行った小林書記官と、マフィアのボスと言われれば納得してしまいそうになる風貌を持つ中年の男性が目に入ってきた。
幼少の頃から数多くの敵意を受け続け、それに慣れてしまっている俺は彼らの眼差しを無視した。大事な交渉相手に大使館内で下手な騒ぎは起こせないだろうと判断したからだ。
案内された会議室に入ると、日本側は前回の交渉の時と同じ顔触れが揃っていた。
日本側出席者の紹介が済むと、俺はマサキを彼らに紹介した。俺以外は全員が日本人であるのに、使われる言語は英語という奇妙な状態が発生していた。
「彼は羽柴正樹です。弊社の日本支社長を務めています。今後の交渉を考えて日本から呼び寄せました」
マサキは隙のない作り笑顔を振り撒きながら、心にも思ってないだろう社交辞令を並べ立てた。
「このような国運を左右するような重要な交渉に参加できる機会を得て嬉しく思います。双方に利益がある有意義な交渉にしたいですね」
互いに着席すると、石坂書記官が茶封筒を俺に差し出した。その顔には疲労が滲んでいたが、心の内を読ませたくないのか、いつにも増して無表情を装っていた。
「こちらは、先日リーフ伯爵が問題にされていた書類です。お確かめ下さい」
茶封筒の中を覗いてみると、そこにはマリ名義の日本のパスポートがあった。これでマリの在留許可申請ができる。そうすれば、合法的に彼女をイギリス国内に長期に渡って留まらせる事ができるようになる。
俺はパスポートの確認を終え、茶封筒をビジネスバッグの中に入れた。満足げに頷いて交渉の継続の意思を日本側に示した。
「これで、交渉の障害は取り除かれた訳ですね。フェンリル・ファンドとしての提案はそちらで検討はして頂けましたか?」
「はい。日本としては、こちらが提示した東日本電力への融資案よりも、貴社からの提案のあった東日本電力の送電網買収案を、これからの交渉のテーブルに乗せたいと思っています」
藤田官房副長官が落ち着かないのか、会議室の大テーブルの上に置いた両手の指をたびたび組み替えながら言った。
提示した買収金額の大きさに目が眩んで、日本側がこの話に縋り付いてきた事に、俺は日本側に気取られないようにほくそ笑んだ。決定権を持つ政府高官たちが付帯条件の意味を理解していないのが幸いした。
「それは、こちらも希望するところです。これから契約の細部を詰めるにあたっては、マサキを交渉窓口としますので、彼と話し合って決めて頂きたい。私は数日の内にロンドンを離れますし、ナントの地はロンドンからは少々遠い。マサキは東京にに常駐していますので、日本とイギリスで交渉のやり取りをするよりは、彼と交渉してもらった方が契約締結までの時間が短縮できるでしょう」
日本側から異議は出なかった。
基本的な契約の内容を確認した後、日本政府、東日本電力とフェンリル・ファンドの間で秘密保持契約が結ばれた。
もっとも情報管理がなっていない相手にどれだけ有効かは甚だ疑問だが……。
マサキが日本側と次回の交渉の約束を取り付けると、今回の交渉はお開きとなった。
「社長、私はこのまま東京に帰る。加奈子に会いたいし、日本支社の部下に頼んだ調査結果が東京に帰った頃に上がってくるだろうからね」
予め帰りの便のチケットを押さえてあったのか、マサキは日本大使館から出てリチャードが待っていた車に乗り込むなりそう言った。
俺はリチャードに空港へ向かうよう指示して、そのままマサキをヒースロー空港まで送る事にした。
「今度のニューイヤーパーティーには、マリさんも出席するんだろ? 今回は会う機会がなかったけど、次は是非紹介して欲しいな」
「次があれば、な……」
マサキは何の気なしに言ったのだろうが、俺は今のマリを彼に合わせたくなかった。まだ俺がマリをしっかりと捕えられていないからだ。
彼は既婚者だ。伴侶の加奈子さん以外には目もくれないほど彼女を溺愛している。しかも俺の部下だ。マリを恋愛の対象として見る事はまずないと言える。
しかし、マリが日本語を聞いて話しているうちに、日本への望郷の念が抑えがたいほど強くなってしまったら、俺はどうすればいい?
俺の手元にある日本のパスポートは諸刃の刃だ。
マリをイギリス国内に縛り付けるための道具でもあるが、同時に彼女が日本へ戻るための翼でもある。
――これをマリに渡すわけにはいかない。
ビジネスバッグの表面をなぞって、中に入っているパスポートに意識を向けた。
彼女の枷となる物は一つでも多く与え、俺の腕の中から飛び立とうとする翼は悉く奪い去ってやろう。マリが俺を愛してくれるようになるまで、目の届く場所で囲い続けてやる。
ほの暗い決意をマサキは敏感に感じ取ったのか、背を一瞬だけ震わせて俺に話しかけた。
「何だか悪寒がしたぞ。社長、今、何か物騒な事を考えてなかったか?」
「いいや、気のせいだろ。風邪じゃないのか? ロンドンは東京より寒いからな。気を付けた方がいい」
俺がとぼけて答えると、マサキはそれ以上は追及しなかった。
マサキをヒースロー空港に降ろすと、車を運転しているリチャードにフェンリル・ファンドの顧問弁護士をしているソンプトン弁護士の事務所へ車を向けるよう指示を出した。
ロンドン市街に古くからの建物が多く、再開発が進んでいない地区がある。その地区の中でも一際古い赤レンガの建物の一角にソンプトン弁護士事務所はあった。
ソンプトン弁護士はフェンリル・ファンド設立の時から何かと相談に乗ってくれ、彼の手堅い手腕もあって、今では法律面ではこれ以上ないほどのパートナーとなっていた。
応接室で待っていると、ソンプトン弁護士が分厚いビジネス手帳を片手に持って入ってきた。
こげ茶の髪には所々白髪が混じっているが、髪と同じ色の瞳には、鋭すぎる知性で相手を射抜きかねないほどの強い光が宿っていた。それでいてソンプトン弁護士が纏う雰囲気は穏やかで、相談者を安心させるものだった。
イギリス人としては、あまり背の高い方には入らないだろう。ひょろっとしていて、あまり荒事には向いていない体格だか、職業柄護身術は必須らしく、空手で鍛えた体は動きに無駄がなかった。
「お久しぶりです。ソンプトン弁護士」
「こちらこそ、仕事が立て続けに入ってしまい、ご無沙汰しています」
お互いに挨拶を交わしした後、彼に席をすすめられて俺はソファーに座った。
「今日はどうされたのですか? アポイントもなく、こちらの事務所に来訪されるとは珍しい事もあるものですな」
ソンプトン弁護士は和やかに微笑みながら、俺の用件を促した。ビジネスバッグからマリのパスポートとクリストファー教授が書いたマリの診断書を取り出すと彼に差し出した。
「俺の婚約者、マリ・ナカガワの在留許可を病気の治療を理由にして取って欲しい」
「まずは書類を拝見させてもらいます」
パスポートと診断書を見て、彼は微かに険しい表情をした。
「マリの在留許可を取るのは難しそうなのか?」
「いいえ、それほど難しい事ではありません。申請に必要な書類は揃えられそうですし、申請すれば今までの経験から言って、在留許可は出ると思われます」
俺の懸念を彼はそう言って追い払ってくれたが、すかさず切れ味の良すぎる知性で、明かすつもりがなかった背景に切り込んできた。
「このパスポートには出入国のスタンプがない。イギリスにいてパスポートが未使用状態だという事は再発行した物だと分かります。しかも、記憶喪失の診断書付きとは……、何かありましたね? リーフ伯爵、在留許可申請をする前に話して頂けますね?」
彼はこうと決めたらテコでも動かない人だ。事情を話さないと在留許可の手続きをしてもらえないだろう。
俺は早々に白旗を上げて、マリが事件に巻き込まれたという事実ではない虚偽のストーリーをソンプトン弁護士に話すことになった。
マリが何者かに誘拐されて暴行を受け、それが原因で記憶喪失になった事、彼女の救出にかなり非合法な手段を使ったため警察には一切知らせなかった事、それらを説明するにつれて彼の顔はますます曇っていった。
「リーフ伯爵の叔父にライアン・リーフさんがいらっしゃいましたね?」
「ああ、確証は掴めてないが、たびたび俺の命を狙ってくる厄介な親戚だ」
親父がリーフ侯爵家を継承した時に、侯爵家から離れてロンドンで事業を興し、それなりに成功していたはずだ。
爵位を継ぐのと継げないのとでは大きな差がある。所領は爵位と共に引き継がれ、爵位がなければ貴族とは見做されない。名誉も財産も、爵位の継承と共に受け継がれていく物なのだ。
事業で成功をおさめ、爵位はなくとも上流階級に入っている叔父が何故爵位に執着するのか、俺には分からなかった。
「ライアンさんは、スペインの不動産バブルに便乗して不動産投機に走り、欧州金融危機のあおりを受けて多額の損失を出しているようです。それが原因かは分かりませんが、反社会的組織との接触を最近持っているようです」
眉を顰めて嫌悪感を隠しもせずに、彼は叔父の近況を吐き捨てた。
ソンプトン弁護士は長年にわたる弁護士活動で、幅広い人脈をロンドン中に張り巡らしていた。そこから拾い上げられる情報は、下手な新聞よりも正確かつ迅速だった。
「反社会的組織……?」
「マフィアですよ」
侯爵の地位に固執する叔父とマフィアの組み合わせは、良からぬ事態を招く予感がした。
「いつまで彼を放置しておくつもりなのですか? あなたに婚約者がいると知られてしまえば、狙われるのはマリさんになるかもしれませんぞ。彼女が巻き込まれた事件というのも、無関係ではないのではありませんか?」
今までにソンプトン弁護士からは、警察に事情を話して叔父を監視してもらうように、何度も忠告を受けていた。
過去に俺が襲撃された事件の黒幕が叔父ではないかという心証は真っ黒なのだが、物的証拠がなく、俺を襲った犯人から叔父へ繋がる線は徹底して辿れないようになっていたため、警察に助力を仰ぐ事はしなかった。
決定的な証拠がない限り叔父を告訴などできない。それに爵位の継承ルールを知っていれば、叔父は俺だけを狙ってくるはずだった。
マリに危害が及ぶならともかく、俺だけが狙いなら今までも対処できたのだから、何とかなるだろう。
「嫡出子にしか爵位の継承権は与えられない。俺と結婚するまでは、マリが狙われる事はないはずだ」
やれやれと彼は両肩を持ち上げて、お手上げのポーズを取った。
「それは希望的観測にすぎません。あまりにもあなたのガードが固すぎて、より弱い者へと標的を変更する可能性は十分にあります。マリさんを守りたいのであれば、今後ライアンさんからマリさんが狙われる可能性がある事を知らせておくべきでしょう。情報があるのとないのとでは、警戒すべき人物への対応の仕方も変わってきます」
確かに彼の言う通りなのだか、マリにそんな事を知らせれば、俺の傍にいる事は危険だと思われかねないし、マリを不安にさせたくない。やっとナントの館での生活にも、俺の傍にいる事にも慣れてきたというのに……。
叔父の活動拠点はロンドンで俺はナントだ。ロンドンにいても顔を合わせるのは稀だ。遠く離れてしまえば尚更だ。それに、ナントの館にはガーディアンがいる。叔父が好き好んでナントの地に近づくとも思えない。
叔父とマリが遭遇する危険が低いのに彼女に情報を与える必要を、この時、俺は感じなかった。
「叔父の動向については、俺の方でも警戒する。あと二日ほどで俺とマリはロンドンを離れてナントに戻る。そうすれば叔父もマリには手を出せなくなる。だから、マリには叔父の件は知らせないつもりだ。あなたには情報収集を引き続き続けて欲しい」
ソンプトン弁護士は諦めたように頷くと、在留許可申請から許可が下りるまでの流れを説明し始めたのだった。
2012.07.02 初出
2012.09.15 改行追加




