第25話 鬼同士の会談
1話あたり何千字ぐらいが良いのやら……。迷っています。
これで6800字ぐらいなんですが……。
社長室のドアがノックされて、リチャードと一緒に羽柴正樹が部屋に入ってきた。俺は席を立ってマサキを出迎えた。
彼は厚手の茶色のコートと黒いビジネスバッグを左手にまとめて持つと、右手を差し出して握手を求めてくる。俺がそれに応えて握手をすると、マサキは力強く握り返してきた。
ともすれば、日本人の握手は力の入ってないふにゃふにゃの握手になりがちなのだが、彼に限って言えばそんな握手をされた事は、一度たりともなかった。
「直接会うのは何か月ぶりかな。二日前にいきなり電話でロンドンに来るように言われて驚いたよ。まったくうちの社長は人使いが荒いねぇ。飛行機のチケットを取るのが大変だった」
マサキは冗談めかしておどけると、リチャードにコートを預けた。
マサキは30歳でフェンリル・ファンドの日本支社長を務める人物で、表面上は温厚で穏やかな典型的な日本人だが、その本性はマフィアが真っ青になるほど冷酷無慈悲な冷血漢。本性を誰にも悟られないように幾重にも猫をかぶりまくっている取扱要注意人物だ。
マサキを日本人だと思っていると痛い目に会う。
それがフェンリル・ファンドでの共通認識だった。いや、一人例外がいたか。ダニエルは「あいつは日本人の皮を被った悪魔だ」とまで言っていたな……。
黒い髪に黒い瞳。銀色のフレームの眼鏡をかけ、一見するとどこかの弁護士か会計士にも見える気真面目そうな顔をしている。この外見に騙されて彼の内面を見ようとしない人がいかに多い事か。
「今、重要な投資案件を手掛けていてね。マサキの力が必要になりそうだから来てもらったんだ」
リチャードに資料を持ってくるように言ってから、マサキを社長室の隣にある打合せ用の部屋へ案内した。彼はビジネスバッグから薄型のノートパソコンを取り出して電源コードをコンセントに差し込んだ。
「リーフ社長、当てて見せようか。重要な投資案件というのは、日本政府が進めている東日本電力への融資の事じゃないか?」
「あたりだ」
やはり読まれていたか、と心のうちでマサキの正確な分析に対して称賛を送る。
マサキは情報を扱う才能に長けていた。無数に散らばっている情報の断片から全体像を把握する能力は、前触れなく無秩序に文字と音声と画像という情報のシャワーを浴びせられる形でしか訪れない俺の予知能力よりも、よほど優れていると言えた。
部屋のドアがノックされて資料を手にしたリチャードが入ってきた。俺とマサキに一部ずつ配られた。そして、リチャードが退出してから打合せを再開させた。
まず、マサキが不満げに口を開いた。
「交渉相手のトップは、あの菅原総理だぞ。そもそも側近や高級官僚に総理が話した内容が翌日の昼にはこちらまで筒抜けになっているような、情報管理がざるになっている輩を相手に交渉するなんてどうかしている。私なら即刻交渉を打ち切る」
そうだろうな。
ビジネスには信用が第一だ。交渉内容が外部に漏れるというのは、それだけでも相手の信用を失う行為となる。
合計厚さ2センチメートルはある資料をマサキは手に取って高速で読み始めた。そこにはこちらで調べた東日本電力の経営状況、日本政府から提示された東日本電力への融資条件、フェンリル・ファンド側から提示した東日本電力から送電網買収の提案、複数の条件下での投資効果のシミュレート結果等が記載されていた。
「それでも成功すれば十分な利益をもたらしてくれる案件だと思ったから交渉を続けているんだ」
総括原価方式で送電網の利用料金を設定し、送電事業の独占を維持できるならば、投下資金は十分回収できるはずだ。
「菅原首相はまだ交渉は始まったばかりなのに、側近たちに東日本電力の資金問題はフェンリル・ファンドが金を出してくれるから解決したのも同然だと言いふらしているらしい。いいのか?」
まだ契約書にサインしたわけでもないのに、決まったかのように言いふらすのは、よほどこの件で追い詰められているからなのだろうか。
相手が都合の良い夢を見るのは勝手だ。我々がそれに付き合ってやる必要は微塵もない。
俺は日本政府の思惑通りに融資をするつもりは無い事をマサキに告げた。
「資金を出すにしても、送電網の買収ができる場合だけだ。融資はリスクがありすぎる」
「だろうな。それにしても10兆円は出し過ぎじゃないか? 私なら6兆円に値切ってみせるが……」
「6兆円って……。マサキは鬼だな」
「何を今さら」
彼は読んでいる資料から目を上げて、悪戯が成功した子供の様に微笑んだ。
確かにマサキの言う通り10兆円は出し過ぎだろう。だが、何よりマリのパスポートが私には必要だ。彼女を不法滞在者にさせず、合法的にイギリス国内に留めるには在留許可を取るしかない。在留許可の申請にはパスポートは必須だった。
パスポートを発行してもらえるなら、マリを俺の手の内に留めておけるなら、10兆円と言っても安いものだ。しかも、条件さえ守られれば十分投資に適う案件だ。
そんな裏の思惑は目の前にいる彼に話せるはずもないが。
「目の前にぶら下げる餌は大きい方がいいだろ? あまり欲張り過ぎると、この話自体が無くなってしまうからな」
「なるほど」
幾つかに分かれていた資料を読み終え、マサキが一つにまとめてテーブルの上でトントンと揃えた。そして大きな封筒に入れてからビジネスバッグの中へ丁寧にしまった。
彼は気になる点があったのか俺に質問をしてきた。
「この話を持ってきたのは誰?」
「日本大使館の丹後大使だ」
ククッと喉の奥でマサキは不気味な笑い声をもらし、愉快そうに顔を歪めた。それはまさしく目の前の弱った獲物を残酷な方法で甚振ろうとする悪魔の笑みだった。
彼の暗黒面がじわりと表に出てくる。もっともそれが出てくるのは、この場に彼の本性を見抜いた俺しかいないからだが。
「確か丹後大使の出身銀行である水島銀行は、東日本電力に何かあれば屋台骨が傾くほど貸し込んでいたな。大使退任後は古巣の相談役か顧問にでもなるつもりなんだろう。なりふり構わずに営業かけてくるとは、必死だな」
「誰だって自分の死活問題になれば必死にもなるさ」
「それで、私は何をすればいい?」
ようやく本題に入れる。俺はマサキを正面に見据えてこれからの彼の役割を言い渡した。
「東日本電力の送電網買収交渉窓口になって契約締結までこぎ着けて欲しい。細部の詰めはマサキに任せるつもりだ」
彼は苦虫を噛み潰したような顔をして、俺にこの契約の実行がいかに不安のある物であるかを訴えた。
「今の日本政府は約束を守らない連中の集まりだ。増税しないとマニフェストで謳っておきながら消費税増税をしようとしている。契約書があっても『約束はしたが、実行するとは言ってない』と言い出しかねない。私は反対だ」
彼を落ち着かせるように、両手の掌を胸の前で彼に向けて前後に動かした。
「まあまあ。それは俺も承知している。日本の衆議院議員の任期切れは、確か三か月後だったよな?」
「ああ、それが何か?」
マサキは俺の意図が理解できていないのか、きょとんとして意気を削がれた様子だった。
「情報操作はマサキの得意分野だろ。契約後に常識と理性を兼ね備えた政党に政権についてもらえるように日本の世論を操作して欲しい。今回の工作の予算に制限は付けない。契約締結のタイミング、送電網新会社の設立の時期と人事、民政党の支持率を落とすために流す情報の種類とチャンネル、この件についてはマサキに任せるよ」
そう言った瞬間、マサキは狂ったように笑い出した。腹を抱え、顔を天井に向けて、息が苦しくなってぜぇぜぇと呼吸音が乱れるまで長く笑い続けていた。
ひとしきり笑った後、テーブルに突っ伏して彼は呼吸を整えていたが、やがて顔を上げた。そこには彼の本性を現した冷血漢の表情があった。
「社長、あんた最高だよ。目の前の餌に釣られたぼんくらに無茶な契約を結ばせて、まともな奴に契約を守らせようなんて、私よりもよほど鬼じゃないか」
「ありがとう。最高の褒め言葉だよ」
にっこりと余裕の笑みでマサキの言葉を受けとめる。
彼の瞳は新しい玩具を見つけた子供の様に楽しげに輝いていた。早速、ノートパソコンに指を走らせ、日本にいる部下へ次々とメールで指示を出していく。
「もう仕事にかかるのか? 早いな。明日からでもいいんじゃないのか?」
「いや、こんな楽しそうな仕事は後回しにはしたくないね。こういう遣り甲斐があって面白そうな仕事がたまに回ってくるから、人使いが荒くてもこのファンドは辞められないんだよな~」
生き生きとして陰謀術策を練っているマサキの背中と頭に悪魔の羽と角が見えたような気がした。
コンコンと部屋のドアがノックされ、リチャードがティーブレイクと称して紅茶を差し入れてくれた。
ドアがノックされた瞬間、マサキが悪魔の羽と角が見えそうな本性を消し去り、何重もの猫を被った変わり身の早さに俺は感心する他なかった。
マサキがメールを一通り打ち終わった後、俺はフェンリル・ファンドの支社長の中では唯一の妻帯者である彼に、仕事とは全く関係のない話題を振っていた。
「なあ、マサキ。日本人女性にとっては、婚約指輪を宝石店で作るのはタブーなのか?」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げて、マサキは口元にティーカップ運ぼうとしていた左手の動きを止めた。
昨日、マリを馴染みのロンドンの高級宝石店へ連れて行って婚約指輪を注文したのだが、デザインと使う宝石、指輪の素材を決める間、ずっと彼女が緊張に引き攣った顔をしていたのが気に掛かっていた。
「マリは『婚約指輪は普段から身につけられるものがいい』と言っていたから、俺との婚約を心から受け入れてくれたのかと思ったが、指輪の相談をしている間中強張った顔をしていたから、そうでもなさそうだと思えてしまってね。何が原因なんだろうとずっと考えていたんだ」
「マリさんというのは、噂になっている社長の婚約者? 日本人なのか?」
「そうだ」
すっかりぬるくなった紅茶をマサキは一口飲むと、ティーカップをソーサーへと戻した。
「そんなタブーは聞いたこともないし、日本人女性もほとんどの人は宝石も指輪も好きだと思うよ。社長のことだから、一般人が入れないような高級宝石店へ行ったんだろ?」
「ああ。良い物を贈りたいと思うのは婚約者として当然じゃないか」
俺の取った行動は間違っていないはずだ。
そんな思いが伝わったのか、マサキは珍しい物が見れたという感じで、ニヤニヤと日本人独特の曖昧な笑顔で俺を見ていた。
「社長の気持ちはよくわかるが、そんな格調高い宝石店で婚約指輪を作らせるとなったら、相当高い値段がつくって事は誰にでも想像できる」
「10万ポンド(約1200万円)は安い方じゃないのか?」
ファンドの中で飛び交う数字は億とか兆の単位なので、金銭感覚が麻痺してしまっているのかもしれないが、それでも支社長クラスの月給の半分レベルの金額が俺には高い物とは俺には思えない。
「それ本気で言っているのか? マリさんは一般人なんだろ? そんな高価な物を贈られると決まって、怖くなったんじゃないか?」
「さっきの金額は、デザイン料や宝石と指輪の加工代も含まれている。実際に出来上がる物の値段はもう少し下がるはずだ」
「そういうのを日本では五十歩百歩って言うんだよ。一般人から見れば高価である事には変わりはない。私としては社長の婚約者が金銭感覚のまともな人で安心したよ」
マサキが呆れたように俺を諭した。
マリと同じ日本人だから、男女の違いはあっても彼の意見は参考にすべきだと、俺の理性が計算をはじき出していた。
「じゃあ、どうすれば良いって言うんだ?」
「社長は自分の価値観をマリさんに押し付けないようにしてあげれば良い。好きな人からプレゼントを贈られて嬉しくない人なんていないさ。気軽に身につけれるアクセサリーでも贈ってあげるのも一つの方法かな。200から300ポンド辺りの値段の物を。そうだな……、例えばピアスとか」
マサキはノートパソコンの電源を落としながら、俺にアイデアを披露してくれた。
「ピアスね……。残念だが、マリにはピアスホールがないんだ」
「ネックレスでもブレスレットでも何でも良い。難しく考える必要はないと思うが……」
ノートパソコンをパタンと折りたたんだマサキの左手の薬指の根元に結婚指輪が光っていた。
彼が奥さんに出会ってから結婚するまでの話を聞けば、マリの心を捕えるのに何か参考になるだろうか。
そう思ったら、口からするっと言葉が滑り出てしまっていた。
「マサキが奥さんに出会ってから結婚するまでの話を聞かせてくれないか?」
「加奈子と出会ってから12年間、害虫を排除しつつ外堀を埋めまくり、私以外の選択肢が選べないように逃げ道を塞ぎ続けた苦労話を聞きたいのか?」
彼の言い様は、聞いても面白くないぞ、というニュアンスが含まれているような気がした。
「結婚にこぎ着けるまでに12年間もかかったのか……。あまり参考になりそうもないな」
がっかりして軽く息を吐き出した。
そんな俺を見て、サマキは興味津々といった表情でこちらへ身を乗り出してきた。
「噂ではマリさんは記憶喪失だという話だが、彼女と上手くいってないのか?」
明らかに面白がっているマサキの様子に、マリの心を捕えられていない内心の焦りを悟られたくなくて、そっぽを向いた。
「マリが記憶喪失というのは本当だ。彼女とは良好な関係を築けている……とは思う」
「ふむふむ。その先の濃密で愛欲に満ちた関係に進展させれなくて困っている、と言ったところか?」
茶化したように言われた言葉は焦りの中心を貫いていて、俺をぎくりとさせた。
マリを俺の傍に縛り付けておきたい。狂気にも近い独占欲が俺をいつも追い立てる。
一方でマリの幸せが俺の傍にいる事であって欲しいと願う自分も確かに存在して、彼女を追い詰めるなと理性に働きかけてくる。
婚約指輪の一件もそうだが、マリの心には戸惑いが根強く残っていて、こればかりは彼女が俺を完全に信じてくれるまで待つ他なかった。
まだ、記憶喪失になってから二週間も経ってないじゃないか。焦って今まで積み上げた信頼をぶち壊す気か――。そう自身に言い聞かせていた。
俺の心の内の葛藤などつゆ知らず、マサキは傍から見れば最も妥当な事を、俺にとっては悪夢のような事を吹き込んできた。
「婚約までしていたのだから、記憶を回復させれば社長を好きだった事も思い出すさ。彼女の療養のためにも日本に長期滞在したらどうかな? 社長はここ数年働きづめだったし、リフレッシュにも丁度いいんじゃないか? 特に桜が咲く頃の日本は良い。一押しでお勧めするよ」
マリの記憶が戻れば、彼女は俺の手から必ず離れようとするだろう。
そんな事を許せるはずもない。
日本へ連れて行けば記憶が刺激されて記憶が回復してしまうかもしれない。記憶が回復しなくても、マリの本当の姿――北島由紀――を知る人物と出会ってしまうかもしれない。
そんなのは嫌だ。
日本へ長期滞在してマリが日本から離れたくないと思ってしまったら、彼女の意志を無視してイギリスへと強制的に連れ去る事は非常に難しくなる。
そんなのは駄目だ。
マイナスの思索の連鎖が頭の中をぐるぐると巡り、一つの結論が俺の中で導き出された。
――絶対に彼女をイギリスから出してやるものか――
マサキの折角の提案に対する答えが素っ気ないものになったのは仕方ない事だった。
「この件を始め、大きい案件が片付いたら考えさせてもらうよ」
「そう。桜の咲く頃に来日するなら、是非連絡して欲しいな。桜の名所をいくつか知っているんだ。案内させてもらうよ」
マサキはノートパソコンをビジネスバッグに入れて、帰り支度を始めた。
おそらくホテルに戻るのだろう。マサキとは5か月ぶりの再開だ。夕食を共にして日頃の苦労を労うのが良いかもしれない。イギリスへの出張にも無茶をさせたようだしな。
「マサキ、これからの予定は?」
「特にない。強いて言えば、明日の会談に備えて情報収集をするぐらいかな」
「では、夕食を一緒にどうだい?」
俺がマサキを夕食に誘うと、彼は意味深長に微笑んで首を横に振った。
「愛しの婚約者殿はロンドンに一緒に来ているんだろう? あまり仕事仕事と言って放っておくと、愛想をつかされるぞ。既婚者からの忠告だ。それに『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』って言葉もあるからな。加奈子を残して死にたくないし、私はここで退散しておくよ」
マサキは冗談とも本気とも取れない調子でそう言うと席を立った。
「明日は日本大使館で9時から第2回目の交渉がある。8時20分に投宿先のホテルにリチャードを迎えにやるから、そのつもりで備えて欲しい」
「わかった。明日が楽しみだ」
俺が明日の予定を告げると、マサキはがっちりと握手を交わして部屋を出て行った。
2012.06.17 初出
2012.06.17 誤字・脱字修正
2012.09.15 改行追加




