第7話
「……嫌だ」
アルコルの口から、もう一度その言葉がこぼれた。
何が嫌なのか。
自分でも、まだ分からない。
ただ、胸の奥が苦しかった。
ミザールがいない。
それだけだった。
彼女が離れた途端、身体はまた軽くなった。
足が地面から離れる。
風に押され、身体が少しずつ上へ持ち上げられていく。
視界から、色が消えていく。
星夜祭の飾りも。
校舎も。
周囲の生徒たちも。
すべてが、あの頃と同じような色に戻っていく。
──元に戻った。
そう考えればいいはずだった。
ミザールがいなければ、自分はもう彼女に頼らなくていい。
彼女に触れてもらう必要もない。
地面につなぎ止めてもらう必要もない。
最初からそうだった。
感情が少しずつ消えていって。
身体の重さも少しずつ消えていった。
だから家族は、自分をこの学園へ送り出した。
同年代の人間と過ごせば、何かが戻るかもしれない。
笑えるようになるかもしれない。
怒れるようになるかもしれない。
悲しめるようになるかもしれない。
そうすれば、また普通に地面へ立てるようになるかもしれない。
──それでいいはずだった。
なのに。
「……嫌だ」
また、同じ言葉が出た。
ミザールがいない。
それが嫌だった。
どうして。
なぜ。
彼女がいなくなっただけなのに。
こんなにも、胸が苦しい。
「ミザール……」
名前を呼ぶ。
返事はない。
当たり前だ。
彼女はここにはいない。
どこへ行ったのかも分からない。
それなのに。
アルコルは周囲を見回した。
身体はさらに高く浮いている。
誰かが手を伸ばしている。
声が聞こえる。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
探さなければ。
そう思った。
ミザールを。
なぜなのかは、まだ分からない。
ただ。
このまま彼女がいなくなることだけは、嫌だった。
これまでのアルコルなら、誰かが離れていっても追いかけることはなかった。
何かを失っても、悲しくなかった。
必要がなくなれば、それで終わりだった。
なのに。
今は違う。
ミザールがいなくなる。
その想像だけで、胸の奥が締めつけられる。
彼女が笑っていたことを思い出す。
壊れた椅子を見て、困ったように謝っていた顔。
自分の手を握ったときの、少し安心したような表情。
星夜祭を楽しみにしていた声。
──一緒に踊ってみたい。
そう言っていた。
それなのに。
今は、どこにもいない。
「……嫌だ」
アルコルは拳を握った。
「君がいなくなるのは……嫌だ」
その瞬間だった。
胸の奥が、大きく脈打った。
「……っ」
知らない感覚だった。
熱い。
苦しい。
怖い。
なのに。
その感情から、目を逸らしたくなかった。
ミザールがいなくなる。
それが怖い。
もう二度と会えなくなることが怖い。
彼女が、自分の前から消えてしまうことが──
「嫌だ」
今度は、はっきりと言った。
「ミザールを……失いたくない」
その瞬間。
身体が、止まった。
風に押されていたはずの身体が。
空中で、ぴたりと静止する。
「……え?」
アルコルは、自分の身体を見下ろした。
おかしい。
さっきまで、身体は軽かった。
どこまでも空へ浮かんでいけるほどに。
なのに今は……
──重い。
「……っ」
ずしり、と。
身体の奥に、今まで知らなかった感覚が生まれる。
重い。
もっと。
さらに重くなる。
足元が空中にあるはずなのに、地面が自分を呼んでいる。
いや、違う。
自分が、地面へ引き寄せられている。
「う、わ……!」
身体が急降下した。
「きゃあっ!」
「危ない!」
「アルコル!」
悲鳴が上がる。
けれど、止まらない。
風が耳元を切る。
地面が急速に近づいてくる。
「──っ!」
ドォンッ!!
凄まじい音が、星夜祭の会場に響き渡った。
石畳が大きく震える。
衝撃で、近くにいた生徒たちがよろめいた。
飾られていた星の飾りまで、いくつか揺れる。
「な、何……!?」
「アルコルが……落ちた!?」
「大丈夫!?」
土煙の向こうで、アルコルは、ゆっくりと身体を起こした。
身体が重い。
驚くほどに。
けれど。
今は、それが嫌ではなかった。
むしろ。
──地面に立っている。
その事実が、妙に嬉しかった。
「……これが」
アルコルは自分の手を見る。
「……重いってことなのか」
初めてだった。
自分の身体を、こんなにも重いと感じたのは。
そして。
初めてだった。
こんなにも強い感情を、自分の中に感じたのは。
怖い。
寂しい。
苦しい。
そして。
会いたい。
ミザールに。
「……どこにいる」
アルコルは立ち上がった。
今度は、自分の足で。
そして走り出した。
◇ ◇ ◇
学園の端。
大きな温室。
ミザールは、青い花の咲く場所で膝を抱えていた。
涙が止まらなかった。
「……私がいないほうが」
小さく呟く。
「普通に、いられるよね」
もっと普通の女の子と。
もっと普通の恋をして。
もっと普通に笑える。
そうなるべきなのだ。
自分のような。
愛するほど重くなる人間ではなく。
もっと普通の人と。
「……そのほうが、いい」
そう言い聞かせる。
けれど。
胸の奥は、まったく納得してくれなかった。
本当は。
離れたくない。
一緒にいたい。
手をつないでいたい。
星夜祭で、一緒に踊りたかった。
彼の隣で笑っていたかった。
でも。
「私が好きになればなるほど……」
ミザールは自分の胸元を押さえた。
「きっと、もっと重くなる」
また誰かを傷つける。
また誰かに、重すぎると言われる。
そうなる前に、自分から離れたほうがいい。
そう思った。
そのとき。
「ミザール!」
温室の扉が開いた。
ミザールが顔を上げる。
「……アルコル?」
そこに。
息を切らしたアルコルが立っていた。
「どうして……」
ミザールの声が震える。
「来ちゃ、駄目」
アルコルは答えず。
彼女のところまで歩いてきた。
「どうして?」
「だって……」
ミザールは立ち上がろうとした。
けれど。
感情が大きくなりすぎて、身体まで重くなっている。
足元の床が、
ぎしっ。
と軋んだ。
「私……また、重くなってる」
ミザールは俯いた。
「だから、あなたは帰ったほうがいい」
「嫌だ」
即答だった。
ミザールが顔を上げる。
「……え?」
「帰らない」
アルコルは、まっすぐ彼女を見る。
「君を置いて帰るつもりはない」
「でも……」
「僕は、君を探していた」
「……どうして?」
アルコルは一瞬だけ言葉を止めた。
どうして。
その答えを探す。
最初は、命綱だった。
自分を地面につなぎ止めてくれる存在。
色を戻してくれる存在。
だから必要だった。
でも、彼女がいなくなったとき。
色が消えたことよりも。
身体が軽くなったことよりも。
ずっと強く感じたものがあった。
「……怖かった」
アルコルは言った。
「君がいなくなると思った」
ミザールの瞳が揺れる。
「私がいなくなったら、あなたは普通にいられるよ」
「それでも嫌だ」
「でも、私は重いよ」
「知ってる」
「もっと重くなるかもしれない」
「それでもいい」
「あなたを傷つけるかもしれない」
アルコルは少しだけ黙った。
それから。
ミザールの手を取った。
「壊れるなら」
ミザールが目を見開く。
「……また、直せばいい」
その言葉を聞いた瞬間。
ミザールの胸が、大きく震えた。
以前にも聞いた言葉だった。
椅子が壊れたとき。
ベンチが壊れたとき。
彼はいつも、そう言った。
壊れることを責めなかった。
でも、今なら分かる。
彼が大切にしているのは、壊れないことではない。
「僕は」
アルコルが言った。
「壊れた椅子より、君がいなくなるほうが嫌だ」
ミザールの目から、涙がこぼれた。
「……どうして?」
「分からなかった」
アルコルは正直に答えた。
「ずっと、分からなかった」
なぜ、彼女といると色が戻るのか。
なぜ、彼女の笑顔を見ると嬉しいのか。
なぜ、彼女が困っていると放っておけないのか。
なぜ、彼女が離れたとき、あんなにも怖かったのか。
「でも、今は分かる」
アルコルは、ミザールの手を握る。
「君が笑っていると、嬉しい」
ミザールの涙が止まらない。
「君が泣いていると、苦しい」
「……」
「君がいなくなると思ったら、怖い」
アルコルは、まっすぐ彼女を見つめた。
「だから──」
一度、息を吸う。
「僕は、君が好きだ」
ミザールの瞳が、大きく見開かれた。
「……好き……?」
「うん」
アルコルは頷いた。
もう迷わなかった。
「君が好きだ」
その言葉は。
今までのアルコルにはなかったものだった。
誰かを必要とすることとは違う。
誰かに頼ることとも違う。
その人が笑っていてほしい。
その人がそばにいてほしい。
その人を失いたくない。
その人の重ささえ、嫌ではない。
それが、自分の中に生まれた感情なのだと、アルコルは初めて理解した。
ミザールは、泣きながら笑った。
「……私、重いよ」
「うん」
「本当に重いんだから」
「知ってる」
「床だって壊すし」
「知ってる」
「椅子も壊す」
「それも知ってる」
「……これから、もっと重くなるかもしれない」
アルコルは、握った手を離さなかった。
「それでもいい」
「……どうして?」
「君だから」
その答えに、ミザールは、とうとう俯いて泣き出した。
嬉しい。
怖い。
信じたい。
まだ少し怖い。
それでも、もう一度だけ。
この人の隣にいたい。
「……私も」
ミザールは涙を拭った。
「私も、あなたといたい」
それだけを伝える。
まだ。
「愛してる」とは言えなかった。
自分の愛は重すぎる。
その怖さが、完全になくなったわけではないから。
それでも、離れたくない。
その気持ちだけは、もう隠さなかった。
アルコルは小さく笑った。
そして、ミザールの手を持ち上げる。
「じゃあ」
「……うん」
「今度こそ」
アルコルは言った。
「一緒に踊ろう」
温室の天井から差し込む光が、青い花を淡く照らしていた。
ミザールは、今度こそ、その手を離さなかった。








