第6話
星夜祭当日。
王立セレスティア貴族学園は、いつもとはまるで違う場所になっていた。
廊下には星の飾り。
窓辺には小さな魔法灯。
夜を待つように、校舎のあちこちが淡い光で彩られている。
生徒たちの声も、いつもより明るい。
今夜は星夜祭。
そして──。
ミザールとアルコルが、一緒に踊るはずの日だった。
◇ ◇ ◇
「……似合ってる」
待ち合わせ場所で、アルコルはミザールを見ていた。
いつもと違う服。
髪も綺麗に整えられている。
星夜祭のために少しだけ着飾った彼女は、普段よりずっと華やかに見えた。
「……本当?」
「うん」
「変じゃない?」
「全然」
アルコルは少しだけ間を置いた。
「綺麗だよ」
「……っ」
ミザールの頬が赤くなる。
「そ、そういうこと急に言うの、ずるい……」
「思ったことを言っただけだけど」
「それがずるいの」
ミザールは困ったように笑った。
本当なら嬉しい。
今すぐ彼の手を取りたい。
昨日まで、ずっとそう思っていた。
なのに。
差し出されるかもしれない手を想像しただけで、胸の奥が苦しくなった。
昨日、自分で決めたことを思い出す。
──少し離れたほうがいい。
アルコルを傷つける前に。
嫌われる前に。
だからこそ。
今日は、踊れない。
◇ ◇ ◇
「行こうか」
アルコルが手を差し出した。
ミザールの胸が、大きく跳ねる。
「……」
その手を見つめる。
昨日までなら、何も考えずに取っていた。
むしろ、嬉しくて自分から握っていたかもしれない。
でも。
もし、この手を取ったら、もっと好きになる。
もっと嬉しくなる。
もっと重くなる。
そしていつか……
彼を傷つける。
「……ごめん」
ミザールは一歩、後ろへ下がった。
「どうしたの?」
「私……」
喉が詰まる。
「今日は、踊れない」
アルコルが目を瞬く。
「どうして?」
「……ごめん」
「ミザール」
「ごめんなさい」
それ以上、顔を見ることができなかった。
ミザールはその場から走り出した。
◇ ◇ ◇
アルコルは、しばらく動かなかった。
伸ばした手だけが、宙に残っている。
「……」
何が起きたのか、分からない。
昨日までは、星夜祭を楽しみにしていた。
ミザールも楽しみにしていると言っていた。
それなのに、どうして。
「……ミザール?」
名前を呼ぶ。
当然、返事はない。
彼女の姿は、もう見えなかった。
追いかけようと、一歩踏み出す。
その瞬間だった。
ふわり。
足元が、軽くなった。
「……?」
アルコルは自分の靴を見る。
床についている。
けれど、ほんの少しだけ、身体が浮いた。
「アルコル?」
近くにいた生徒が声を上げる。
「……大丈夫」
そう答えた。
次の瞬間。
身体が、もう一度浮いた。
「え……?」
今度は明らかだった。
足が床から離れる。
「アルコル!」
「浮いてる……!」
周囲から声が上がる。
アルコルは手を伸ばした。
何かに掴まろうとする。
けれど、指先は何も捉えられない。
身体が、さらに上へ浮いていく。
「……」
世界から、色が消えた。
青かったはずの空が。
星の飾りが。
色とりどりの服が。
全部、薄くなる。
昨日まで戻ってきていた色が、遠ざかっていく。
「……ミザール」
名前が、口から漏れた。
でも、彼女は、ここにはいない。
◇ ◇ ◇
「どうして……」
ミザールは温室の中にいた。
学園の端にある、大きな温室。
星夜祭の喧騒から離れたこの場所には、青い花が静かに咲いている。
その中で、ミザールは膝を抱えていた。
「私……何やってるんだろう」
踊りたかった。
本当は。
アルコルと一緒にいたかった。
手を繋ぎたかった。
笑いたかった。
なのに。
「……怖いよ」
目から涙が落ちる。
好きになるのが怖い。
もっと好きになって。
もっと重くなって。
また大切な人を傷つけるのが怖い。
「アルコルなら大丈夫だって……」
分かっている。
彼は何度もそう言ってくれた。
重くてもいい。
壊れても直せばいい。
自分が悲しそうにしているほうが嫌だと。
それでも、信じたいのに。
怖い。
「……私がいないほうが」
彼は、きっともっと普通に笑える。
もっと普通に歩ける。
もっと普通に──。
「……普通にいられるよ」
そう呟いた瞬間、胸が痛くなった。
自分でも分かっている。
アルコルは、自分と一緒にいるときのほうが色を取り戻している。
それでも。
その色のために、自分が彼を傷つけることになったら。
そんな未来だけは、耐えられなかった。
◇ ◇ ◇
「捕まえて!」
アルコルの身体が、さらに高く浮いていく。
生徒たちが慌てて手を伸ばす。
けれど届かない。
身体が軽い。
まるで何もない空間に投げ出されたようだった。
アルコル自身にも、どうすればいいのか分からない。
今までは。
ミザールがいた。
彼女と手を繋いでいれば、身体は地面に戻ってきた。
彼女の重さが、自分を繋ぎ止めてくれていた。
でも、今はいない。
アルコルは遠ざかっていく床を見下ろした。
そして、その向こうにある空を見た。
遠い。
怖い。
以前なら、何も感じなかったはずだった。
感情がなくなって。
世界の色がなくなって。
身体まで軽くなって。
それでも、どこか他人事だった。
けれど今は、胸の奥がざわついている。
「……ミザール」
また名前を呼ぶ。
なぜ。
どうして、こんなに気になる。
ただの命綱だった。
自分を地面につなぎ止めてくれる存在。
色を戻してくれる存在。
だから、必要だった。
──それだけのはずだった。
なのに。
彼女がいない。
その事実だけが、怖かった。
◇ ◇ ◇
温室の中。
ミザールは涙を拭った。
「……もう、戻らないほうがいい」
そう思った。
アルコルのところへ戻ったら、また好きになる。
また重くなる。
また彼を傷つける。
だから。
ここにいればいい。
星夜祭が終わるまで。
その後も。
少しずつ離れていけばいい。
「……ごめんね」
青い花に向かって呟く。
「アルコル……」
その名前を口にしただけで、胸が痛くなる。
本当は会いたい。
本当は隣にいたい。
本当は──。
「……大好きなのに」
涙がまた落ちた。
◇ ◇ ◇
その頃。
アルコルは、まだ空中にいた。
学園の景色が遠ざかっていく。
どこを見ても、ミザールの姿はない。
彼女がどこへ行ったのかも分からない。
さっきまで隣にいたはずの彼女が、もういない。
そのことだけが頭から離れなかった。
「……どうして」
アルコルは呟く。
星夜祭を楽しみにしていた。
一緒に踊ることも、嫌ではなかった。
むしろ──。
あの時間を、そのまま続けていたかった。
それなのに。
今は、彼女がいない。
色もない。
地面も遠い。
身体はどこまでも軽くなっていく。
アルコルは胸元を押さえた。
そこにある感情を、まだ言葉にできない。
ただ、ひどく落ち着かない。
このまま、彼女と会えなくなったら……
そう考えた瞬間。
胸の奥で、何かが大きく揺れた。
「……」
アルコルは目を見開く。
それが何なのか、まだ分からない。
けれど、初めて、自分の心からはっきりと浮かんだ言葉があった。
「……嫌だ」
その瞬間。
アルコルの身体の奥で──何かが、変わり始めた。








