第4話
アルコルにとって、世界はずっと同じ色だった。
空も、校舎も、木々も、人の顔も。
白と黒の間に沈んだような、薄い色合い。
何かを見ても、以前なら感じていたはずの「綺麗だ」とか「面白そうだ」といった感情が浮かんでこない。
だから、色がなくなったことにも、最初はそれほど驚かなかった。
感情がなくなっていく。
その結果として、世界から色が消えていく。
ただ、それだけのことだと思っていた。
けれど――最近は違う。
「……青い」
窓の外を眺めながら、アルコルは小さく呟いた。
空が、青い。
以前なら気づきもしなかったような色が、はっきりと目に入る。
木々の葉も、淡い緑に見えている。
教室の中に差し込む陽射しさえ、昨日までより少しだけ明るい。
理由は分からない。
ただ、ミザールと一緒にいると、そうなる。
今も隣の席では、彼女が一生懸命に授業のノートを取っていた。
「……どうしたの?」
視線に気づいたのか、ミザールが顔を上げる。
「いや」
「?」
「今日も、青いなと思って」
「空?」
「うん」
アルコルが窓の外を指差す。
ミザールもつられて空を見る。
「……普通に青いけど?」
「そうだね」
「何それ」
くすっと笑う。
その笑顔も、以前より鮮やかに見えた。
「アルコルって、たまに変なこと言うよね」
「そうかな」
「そうだよ」
また笑う。
アルコルは、その笑顔をしばらく見ていた。
嫌ではない。
むしろ――こうしている時間は、落ち着く。
それが何なのかは、まだ分からなかった。
「……ミザール」
「なに?」
「少し、手を貸して」
「うん」
差し出された手を握る。
その瞬間。
窓の外の青が、また少しだけ濃くなった気がした。
◇ ◇ ◇
昼休み。
二人はいつものように手を繋いで廊下を歩いていた。
アルコルが浮かないため。
それが、二人の間ではすっかり当たり前になっている。
「ねえ、アルコル」
「なに?」
「最近、前より浮かなくなったよね」
「そう?」
「うん。最初はもっとふわふわしてた」
「……そうだったね」
アルコルは自分の足元を見る。
ちゃんと床についている。
ミザールと一緒にいると、身体が地面に馴染んでいるような感覚がある。
それだけではない。
世界も少しずつ変わっている。
「君といると、少しずつ戻ってくるみたい」
「何が?」
「色とか」
ミザールが目を丸くした。
「色?」
「うん」
「……私、そんなことできないよ?」
「僕も分からない」
アルコルは正直に答えた。
「ただ、君といるとそうなる」
「……そっか」
ミザールは少しだけ照れたように笑った。
その直後だった。
――みしっ。
「……あ」
廊下の端に置かれていた椅子が、ミザールの手に触れた拍子に軋んだ。
次の瞬間。
ばきっ。
「……」
「……」
二人そろって、壊れた椅子を見る。
「ご、ごめん……!」
ミザールが慌てて手を離す。
「また……」
「うん」
「私、やっぱり重いんだ……」
声が少し沈んだ。
ミザールにとっては、いつものことだった。
好きになる。
近づく。
嬉しくなる。
そして、何かを壊す。
その繰り返し。
けれど。
「壊れるなら、また直せばいいよ」
「……え?」
「椅子なら、直せるから」
アルコルは壊れた椅子を見る。
それから、ミザールを見る。
「それより」
「……?」
「君がそんな顔をしているほうが、僕は嫌だ」
ミザールは言葉を失った。
「……椅子じゃなくて?」
「うん」
「私の顔?」
「そう」
あまりにも迷いなく言われて、ミザールは困ったように瞬きをする。
「……変なの」
「そうかな」
「普通は椅子の心配をするところじゃない?」
「君が壊したなら、椅子はまた直せるから」
アルコルはそう言ってから、ほんの少し考える。
「でも、君が悲しそうにしているのは、嫌だ」
胸の奥が、ふっと温かくなった。
ミザールはそっと笑う。
「……ありがとう」
「うん」
アルコルは、それだけ答えた。
◇ ◇ ◇
放課後。
中庭のベンチに並んで座りながら、ミザールは空を見上げていた。
最近、アルコルといる時間が増えた。
手を繋ぐことも。
隣にいることも。
彼が少し浮いたとき、慌てて腕を掴むことも。
いつの間にか、当たり前になりつつある。
最初は「命綱」と呼ばれたことが不思議だった。
自分の重さを必要としてくれる人がいる。
それだけで、少し救われた。
でも今は、それだけではない気がする。
アルコルと話すのは楽しい。
一緒にいると、変に緊張しない。
壊してしまったときも、怒られない。
そして何より――。
「アルコル」
「ん?」
「私といて、楽しい?」
聞いてから、少しだけ後悔した。
どうしてこんなことを聞いたのだろう。
けれどアルコルは、少し考えてから答えた。
「……うん」
「本当に?」
「うん」
短い答え。
けれど、その声に嘘はなかった。
ミザールは嬉しくなって、思わず笑う。
――みしっ。
「……」
「……」
二人の間にあるベンチが、また小さく軋んだ。
「……ごめん」
「大丈夫」
アルコルは笑わない。
呆れもしない。
ただ、いつものようにミザールの手を取る。
「帰ろう」
「うん」
二人で立ち上がる。
ミザールは、握られた手を見つめた。
以前なら、好きになったらどうなるかばかり考えていた。
また重くなる。
また壊す。
また嫌われる。
でも今は。
まだ、そこまで考えなくてもいい気がした。
今はただ。
この時間が、楽しい。
それだけでよかった。
◇ ◇ ◇
「そういえば、もうすぐ星夜祭だよ」
帰り道。
廊下に貼られた告知を見て、ミザールが足を止めた。
王立セレスティア貴族学園の星夜祭。
毎年行われる、夜の学園祭。
そして最後には、生徒たちが音楽に合わせて踊る。
「星夜祭……」
ミザールの目が輝いた。
「楽しそう」
「そうだね」
「……踊るんだよね?」
「うん」
アルコルも掲示を眺める。
「じゃあ、一緒に踊ろう」
「……え?」
「嫌?」
「嫌じゃない!」
思わず大きな声が出てしまい、ミザールは慌てて口元を押さえた。
アルコルが少しだけ目を細める。
「じゃあ、決まりだね」
「……うん」
ミザールは頷いた。
けれど、その胸の奥には小さな不安もあった。
踊る。
普通の恋人たちなら、きっと何でもないこと。
でも自分の場合は――。
足元が壊れたら。
床が沈んだら。
アルコルを傷つけたら。
そう考えると、ほんの少しだけ怖い。
それでも。
「……楽しみ」
小さく呟いた。
「うん」
隣から返事が聞こえる。
アルコルと手を繋ぐ。
その瞬間、夕暮れの空が目に入った。
薄い橙色。
その向こうには、まだ少しだけ青が残っている。
アルコルは空を見上げた。
最近、この色を見ることが増えた。
そして、その色が見える時間を――。
もう少し、続けていたいと思った。
それが何を意味するのか。
まだ、アルコル自身にも分からなかった。








