第3話
翌朝。
教室に入ったミザールは、いつもより多くの視線が自分に集まっていることに気づいた。
ひそひそ。
ひそひそ。
聞こえてくる声に、なんとなく嫌な予感がする。
「ねえ、ミザール」
席につくなり、友人が身を乗り出してきた。
「昨日の話、本当なの?」
「昨日の話?」
「アルコルと付き合うことになったって話」
「あ……」
ミザールは頬を赤くした。
もう広まっているらしい。
「うん……本当」
小さく頷く。
すると、周囲から一斉に声が上がった。
「やっぱり!」
「ミザール、また彼氏できたんだ」
「転校初日でって、すごくない?」
悪意のある言葉ではない。
いつものことだった。
ミザールは昔から、恋に落ちるのが早い。
好きだと思えば、その人のことをもっと知りたくなる。
嬉しいことがあれば、一緒に喜びたくなる。
困っていれば、助けてあげたくなる。
好きになった人には、たくさんのものをあげたくなる。
──そして。
それが、いつも重すぎた。
最初はみんな喜んでくれる。
けれど、時間が経つと。
『ちょっと重いよ』
『そんなに構わなくてもいいから』
『もう少し、普通にしてほしい』
最後には。
『君の愛は、重すぎる』
そう言われて、終わる。
だから昨日も、同じだと思っていた。
また失恋して。
また自分の重さを嫌になって。
もう誰も好きにならないと決めた。
──なのに。
ミザールは、そっと隣を見る。
アルコルは席に座ったまま、窓の外を眺めていた。
昨日と同じ、静かな横顔。
感情が薄くて。
何を考えているのか分からなくて。
けれど、彼は自分を拒まなかった。
『その重さが必要だから』
昨日の言葉を思い出す。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
恋人になった。
そう言われても、まだ実感はない。
アルコルのことだって、ほとんど知らない。
だから、これを恋と呼んでいいのかも分からない。
ただ──。
もう少し、この人のそばにいてみたい。
そんな気持ちが、自分の中にあることだけは分かっていた。
「ミザール」
「え?」
名前を呼ばれて顔を上げる。
アルコルがこちらを見ていた。
「手、つないでいい?」
「……うん」
ミザールは少しだけ驚いた。
それから、そっと手を差し出す。
アルコルの手が重なる。
指先が触れた瞬間。
昨日と同じように、彼の身体がわずかに沈んだ。
「……大丈夫」
アルコルが言う。
「うん」
手をつないでいる。
それだけなのに、ミザールは少しだけ緊張していた。
恋人だからだろうか。
それとも──。
自分の重さを、この人だけは嫌がらないからだろうか。
答えは、まだ分からない。
でも。
この手をつないでいる時間は、嫌ではなかった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
二人は手をつないだまま、食堂へ向かっていた。
アルコルが浮かないようにするためだ。
少なくとも、最初はそのためだった。
「アルコル」
「何?」
「ずっと手をつないでるけど、大丈夫?」
「うん」
「手、疲れない?」
「疲れないよ」
「本当に?」
「本当に」
迷いのない返事だった。
ミザールは、少しだけ目を伏せる。
以前の恋人たちなら。
最初は喜んでくれても、いつの間にか距離を置かれるようになった。
近づきすぎるから。
気にかけすぎるから。
好きになりすぎるから。
だから、自分から少し離れなければいけない。
そう思うようになっていた。
けれど。
アルコルは、離れろとは言わない。
むしろ、自分から手を差し出してくる。
それが、なんだか不思議だった。
食堂に入り、空いているベンチを見つける。
「ここにしよう」
「うん」
ミザールが腰を下ろした。
その瞬間。
ぎしっ。
「……」
嫌な音がした。
ミザールが固まる。
次の瞬間。
ばきっ。
「…………」
ベンチの脚が、大きく曲がった。
「ご、ごめんなさい!」
ミザールは慌てて立ち上がった。
顔が熱くなる。
「また……」
小さく呟く。
また壊してしまった。
学校の備品だ。
直せる。
修復魔法を使えば元に戻せる。
それでも、胸の奥がざわついた。
まただ。
また、自分のせいで何かが壊れた。
「ごめん……」
もう一度謝ろうとした、そのとき。
「壊れるなら、また直せばいい」
アルコルが言った。
「……え?」
「直せるんでしょう?」
「うん……」
「じゃあ、大丈夫だと思う」
あまりにも自然な声だった。
責める様子もない。
困った顔もしない。
本当に、問題だと思っていない。
「でも……」
ミザールはベンチを見る。
「私、こういうの、よく壊すから」
「そうなんだね」
「……嫌じゃない?」
「何が?」
「私が重いこと」
聞いてから、ミザールは後悔した。
こんなことを聞く必要なんてない。
答えなんて分かっている。
どうせ──。
けれど。
「嫌じゃないよ」
アルコルは、すぐに答えた。
「……本当に?」
「うん」
「椅子とか、壊すよ?」
「知ってる」
「床だって割るし……」
「それも知ってる」
「……迷惑じゃない?」
今度は、少しだけ声が震えた。
アルコルはミザールを見つめる。
そして、静かに言った。
「僕は、君がそばにいると地面にいられるから」
「……」
「だから、君が重いことは、僕には困ることじゃないよ」
胸の奥が、きゅっと締まった。
困ることじゃない。
その言葉が、思っていた以上に嬉しかった。
今まで、自分の重さは。
誰かを困らせるものだった。
誰かを傷つけるものだった。
だから、好きになればなるほど、怖くなった。
もっと好きになったら。
もっと重くなったら。
また、嫌われる。
そう思っていた。
なのに。
目の前の彼は。
自分の重さを、ただ「そういうもの」として受け入れている。
「……そっか」
ミザールは、小さく笑った。
「じゃあ……よかった」
「うん」
アルコルも頷いた。
それ以上、特別な言葉はなかった。
けれどミザールにとっては、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
放課後。
二人は並んで校舎の外を歩いていた。
今日も手はつないだままだ。
アルコルにとっては、地面にいるため。
ミザールにとっては──。
もう、それだけではない気がしていた。
けれど、まだその理由を考えるのはやめた。
ふと。
アルコルが足を止める。
「……アルコル?」
ミザールが振り返る。
アルコルは空を見上げていた。
しばらく、何も言わない。
「どうしたの?」
「……青い」
「え?」
ミザールも空を見る。
いつもと変わらない空だった。
「空が?」
「うん」
アルコルは、じっと見上げている。
「昨日より、青い」
ミザールは首を傾げた。
「昨日も青かったよ?」
「そうなんだろうね」
「……?」
アルコルは、それ以上説明しなかった。
ただ、空を見ている。
昨日まで。
彼の世界には、色がなかった。
空も。
木々も。
校舎も。
全部、薄い色をした景色だった。
けれど今は。
ほんの少しだけ。
空が青い。
ミザールの手を握っている。
そのことを意識した瞬間、また少しだけ色が濃くなった気がした。
「……不思議」
アルコルが呟く。
「何が?」
「君といると」
そこで言葉を止める。
アルコル自身も、うまく説明できなかった。
ただ。
昨日より今日。
今日より、その前より。
世界が少しずつ違って見える。
そして、その変化が嫌ではなかった。
「……帰ろうか」
アルコルが言う。
「うん」
二人は再び歩き出した。
手をつないだまま。
ミザールは隣を歩くアルコルを見上げる。
恋人。
その言葉には、まだ少しだけ慣れない。
けれど。
昨日より、今日のほうが。
この人の隣にいることを、自然に感じられる。
そんな自分に気づいて。
ミザールは、ほんの少しだけ笑った。
──今は、これでいい。
まだ名前のつかない気持ちを抱えたまま。
二人は並んで、夕暮れの校舎を歩いていった。








