第2話
「──本日から、このクラスに転校生が来る」
教室の前に立った教師がそう告げた瞬間、あちこちから声が上がった。
「転校生?」
「この時期に?」
「どんな人なんだろう」
昨日の放課後に告げられていた話とはいえ、実際に今日やって来るとなれば気になるらしい。
けれど。
ミザールにとっては、どうでもよかった。
机に頬杖をつき、窓の外を見る。
朝の光が校舎を照らしている。
いつもなら気持ちのいい景色のはずなのに、今日は何も感じなかった。
昨日のことが、まだ胸の奥に残っている。
『君の愛は、重すぎる』
思い出すだけで、胸がきゅっと縮む。
そして、同時に足元の石畳が沈んだ感触まで蘇ってくる。
まただ。
また、好きな人を傷つけた。
だから。
もう誰も好きにならない。
昨日、そう決めた。
今はそれだけでいい。
「入ってきなさい」
教師の声に、ミザールは視線を教室へ戻した。
扉が開く。
「アルコルです。よろしくお願いします」
一人の少年が入ってきた。
ざわめきが、一瞬だけ小さくなる。
整った顔立ち。
すらりとした体つき。
身につけているものにも品があり、一目で普通の家の出ではないことが分かる。
「辺境伯家の……」
誰かが小声で呟いた。
なるほど。
だからこの時期に転校してきたのか。
そんな声が続く。
けれど、当の本人は周囲の反応を気にする様子がなかった。
緊張しているわけでもない。
誇らしげでもない。
ただ、淡々としている。
その表情に、ほとんど感情が浮かんでいない。
ミザールは、なんとなく彼を目で追った。
そして──ふと、眉を寄せる。
「…………?」
何かがおかしい。
アルコルだけ。
色が薄く見える。
窓から差し込む朝の光も。
教室の机も。
制服も。
すべてはいつも通りなのに。
彼の周囲だけが、薄い灰色の膜に覆われているようだった。
気のせいだろうか。
ミザールは窓の外を見る。
青い空。
白い雲。
朝日に照らされた木々。
鮮やかな色が目に入る。
そして、もう一度アルコルを見る。
やっぱりだ。
彼だけ、少し違う。
「……変なの」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
ミザールは一人で廊下を歩いていた。
教室にいても、昨日のことを思い出してしまう。
だから、人の少ない場所へ逃げるように歩いていた。
誰とも話したくない。
今は、誰かの優しささえ怖かった。
優しくされたら。
また期待してしまうかもしれないから。
「…………」
そんなことを考えていたときだった。
「あ」
前方から、一人の少年が歩いてくる。
今朝の転校生──アルコルだった。
彼も一人だった。
ミザールは少しだけ横へ避ける。
目が合う。
けれど、アルコルは何も言わなかった。
そのまますれ違おうとした。
その瞬間。
ふわり、と風が吹いた。
「……?」
アルコルの髪が揺れる。
そして。
彼の足元が──浮いた。
「…………え?」
ミザールは足を止めた。
見間違いではない。
靴底が床から離れている。
ほんの数センチ。
アルコルの身体が、宙に浮いていた。
「…………」
アルコル自身も、自分の足元を見る。
けれど。
驚かない。
慌てもしない。
まるで、こうなることを知っていたかのように、静かに自分の身体を見下ろしている。
「ちょっと……!」
ミザールの声に、アルコルが顔を上げる。
その間にも身体は少しずつ浮いていく。
数センチ。
十センチ。
さらに。
「アルコル!」
気づけば、ミザールは駆け出していた。
何を考えたわけでもない。
ただ。
このままでは危ない。
その思いだけだった。
伸ばした手が、彼の手首を掴む。
──ずんっ。
「……っ!」
今度はミザールの身体が床へ沈んだ。
靴底の下から、嫌な軋みが伝わってくる。
けれど。
アルコルの身体は止まった。
ふわふわと宙に浮いていたはずの身体が、まるで見えない糸で地面につながれたように静止する。
「…………」
「…………」
二人の間に、妙な沈黙が落ちた。
やがて。
「……浮かない」
アルコルが呟いた。
「え?」
「君につかまれていると、浮かない」
ミザールは、自分の手を見る。
彼の手首を、しっかりと掴んでいる。
確かに。
アルコルはもう浮いていない。
「どういうこと……?」
「分からない」
あまりにも迷いのない答えだった。
「僕は最近、身体が軽くなっている」
「軽く……?」
「最初は気のせいだと思っていた」
アルコルは自分の身体を見下ろす。
「でも、最近は普通に歩くことさえ難しい」
ミザールは言葉を失った。
身体が浮く。
そんな異常なことが起きているのに。
彼は怯えていない。
怒ってもいない。
困っているようにさえ見えない。
ただ。
事実を話している。
「それで……この学園に来たの?」
「うん」
アルコルが頷く。
「家族は、同年代の人間と過ごせば何か変わるかもしれないと思ったらしい」
「何かって?」
「感情」
その一言だけが、不思議なくらい重く聞こえた。
「感情……?」
「僕は最近、何を見てもあまり何も感じない」
アルコルは窓の外へ視線を向ける。
そこには、青い空が広がっている。
普通なら。
綺麗だと思うだろう。
気持ちがいいと思うだろう。
けれど、アルコルは何の感想も口にしない。
「楽しいとも思わない」
静かな声が続く。
「悲しいとも、怒りたいとも思わない」
「…………」
「だから、世界が少しずつ色を失っているように見える」
ミザールは、アルコルの横顔を見つめた。
朝、彼だけ色が薄く見えたのは。
気のせいではなかったのだ。
けれど。
それなら、どうして。
そんな状態なのに、この人はこんなにも静かでいられるのだろう。
怖くないのだろうか。
寂しくないのだろうか。
──いや。
寂しいという感情そのものが、もう薄れているのかもしれない。
そう考えた瞬間。
ミザールは少しだけ胸が痛んだ。
自分とは、正反対だと思った。
自分は感じすぎる。
好きになれば、好きになっただけ。
嬉しければ、嬉しいほど。
感情が身体にまで溢れてしまう。
だから重くなる。
誰かを困らせる。
そして、最後には捨てられる。
なのに、この人は。
何も感じないから、身体から重さまで失っている。
まるで。
二人の身体が、正反対の場所にいるみたいだった。
「……でも」
ミザールは、まだ彼の手首を掴んでいる自分の手を見た。
「今は浮いてないよ」
「うん」
「私がいるから?」
「たぶん」
アルコルがミザールを見る。
その瞳は静かだった。
けれど、先ほどまでとはほんの少しだけ違っていた。
何かを見つけたような。
確かめるような。
そんな視線。
「君に触れていると」
アルコルが言った。
「少しだけ、色が戻る」
「え……?」
ミザールは目を瞬いた。
「何の色が?」
「全部」
アルコルは窓の外を見る。
「さっきまで灰色に近かった空が、少し青く見える」
ミザールもつられて空を見た。
青い。
いつも通りの空だ。
なのに。
なぜか、少しだけ違って見えた。
「…………」
自分の重さが。
この人にとっては、必要なものなのだ。
昨日まで。
それは誰かを傷つけるものだった。
好きになるほど重くなって。
大切にしたいと思うほど、相手を苦しめる。
だから、もう誰も好きにならないと決めた。
なのに。
「だから」
アルコルが言った。
ミザールの思考を遮るように。
「もう少し、このままでいてほしい」
胸が、どくんと鳴った。
ミザールは慌てて視線を逸らした。
「…………分かった」
声が少しだけ上ずった。
変な期待をしてはいけない。
この人は困っているだけだ。
自分が必要だから、そう言っているだけ。
分かっている。
分かっているのに。
手首を掴んだままの手が、妙に熱く感じられた。
◇ ◇ ◇
放課後。
二人は、人の少ない校舎の一角にいた。
ミザールは、まだアルコルの手を離していない。
離したら。
また浮いてしまうかもしれない。
それが心配だった。
それだけのはずだった。
なのに。
アルコルの手首から伝わる感触を意識するたび、胸が落ち着かなくなる。
昨日、もう恋なんてしないと決めたばかりなのに。
こんなふうに誰かのことを気にするなんて。
「ミザール」
「なに?」
呼ばれて顔を上げる。
アルコルが、まっすぐこちらを見ていた。
「お願いがある」
「お願い?」
「僕と付き合ってほしい」
「…………え?」
一瞬。
言葉の意味が理解できなかった。
「つ、付き合うって……?」
「恋人になってほしい」
「…………」
頭が真っ白になる。
昨日。
振られたばかりだ。
そして今日。
転校してきたばかりの男の子から。
恋人になってほしいと言われた。
「どうして……?」
ミザールは、ようやくそれだけを尋ねた。
アルコルは少しも迷わず答える。
「君と一緒にいると、僕は地面にいられる」
「…………」
「それに」
彼の青い瞳が、ミザールを映す。
「君に触れていると、世界に色が戻る」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
「だから、君が必要なんだと思う」
必要。
その言葉に、ミザールの心が揺れた。
昨日まで。
自分の「重さ」は、必要とされるどころか、捨てられる理由だった。
好きになればなるほど。
相手を大切に思えば思うほど。
自分は重くなって。
最後には「もう無理だ」と言われる。
なのに。
この人は。
その重さを必要だと言っている。
「……私、重いよ?」
確かめるように、ミザールは言った。
「知ってる」
「椅子とか、壊すよ?」
「そうみたいだね」
「床だって、割れるし……」
「さっきも割れた」
「…………」
ミザールは俯いた。
やっぱり恥ずかしい。
普通の女の子なら。
好きな人と一緒に歩いて、手をつないで。
そんな普通の恋ができる。
でも自分は違う。
嬉しくなるだけで身体が重くなる。
好きになれば、もっと重くなる。
だから。
「それでもいいの?」
声が、少し震えた。
もしここで。
やっぱり無理だと言われたら。
きっと、また傷つく。
でも。
アルコルは迷わなかった。
「うん」
短い返事。
それから、静かに続ける。
「僕にとっては、その重さが必要だから」
ミザールは顔を上げた。
アルコルは、まっすぐ彼女を見ている。
そこに、嘘はない。
少なくとも。
彼は本気でそう思っている。
「…………私で、いいの?」
「君がいい」
胸が、大きく鳴った。
嬉しい。
その感情が、身体の奥から膨らんでいくのを感じる。
怖い。
このまま好きになったら、また重くなるかもしれない。
また相手を困らせるかもしれない。
昨日までなら。
きっと、その恐怖に負けていた。
でも。
今、目の前にいる少年は。
自分の重さを嫌わない。
むしろ。
それを必要だと言ってくれる。
だったら。
ほんの少しだけ。
信じてみてもいいのかもしれない。
「……分かった」
ミザールは小さく頷いた。
「私でよければ」
アルコルの表情は、ほとんど変わらなかった。
けれど。
「ありがとう」
その声は、昨日聞いたどんな言葉よりも優しく聞こえた。
ミザールは、そっと笑った。
「こちらこそ」
こうして。
恋をしないと決めた翌日に。
ミザールには、新しい恋人ができた。
けれど。
このときのアルコルは、まだミザールを愛していたわけではない。
彼にとって彼女は。
空へ消えてしまいそうな自分を、この地上につなぎ止めてくれる存在。
世界から失われかけていた色を、わずかに取り戻してくれる存在。
そして。
決して手を離してはいけない──
大切な「命綱」だった。








