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明後日の花嫁  作者: 日ノ瀬 亜樹
番外編
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エリスリトールと師

 虫の声がやけに大きく聞こえる夜だった。

 エリスリトールは、喉の渇きを感じ、白いヘンリーネックの寝巻のまま部屋を出た。汗が米神のあたりから下にどんどんと流れていく。それを掌で拭き取るが、汗はますます出てくるばかりだ。喉の渇きを激しく感じ始めていたが、足元のサンダルは兄弟子からのおさがりであったため、サイズも幾分かあっておらず、気を付けて歩かなければいけない代物だった。それでもこの茹だる様な暑さにはかなわないと歩を速めると、サンダルは見事に前に飛んで行く。喉の渇きに、飛んで行ったサンダル、大きな虫の声、大量に流れる汗。平常心を常に心がけている彼にしては珍しく、苛立ちからつい舌打ちをしてしまった。その音は思いの他大きく、誰かに聞かれていやしないかと辺りをキョロキョロと見廻した。

ふと少し離れた石碑の近くに老人が立っていることに気が付いた。

老人はエリスリトールに気付いていないのか、気付いているのかわからなかったが、どこか物悲しげな様子だった。その後ろ姿にエリスリトールはその人物が誰であるかがわかると、飛ばしたサンダルを履いてその人物に近づいた。


「この齢まで運命を待った。しかし、私もまた先人たちのように老い、去っていく者の1人のようだ。」

 

 齢89の師は穏やかな声でまだ10のエリスリトールに語りかけた。

満月が一層輝いていた月夜がそうさせるのか、師の遠くを見詰める寂しげな顔が幼い心には深く残酷なことのように思えた。


「師は…師は私が知る中で一番偉大な導き手です…。」


 その顔をそれ以上見ることが出来ず、エリスリトールは月に照らされて淡く光っている足元にある石碑に目を落とした。淡い青色のセレスタイトで出来たそれは、古から続く教会に属する者たちの墓だった。その石碑には文字などは刻まれておらず、ピラミッド型に形作られ50㎝程地面から突き出ていた。

多くの教会関係者は死後、その身を荼毘に付す。なぜならば教会関係者に戸籍は存在しないからだ。すなわち、死後に引き取る家族が存在しないのだ。教会に入ったと同時に俗世とは離れた存在としてそれまでの戸籍を消去し、名前を新しく付けられ、その後は一生をその名で過ごす。稀に俗世に戻るものもいるが、消去した戸籍を元に戻すことは難しいため、改めて自分の家族の養子に入り、新しく戸籍を得るのが一般的なやり方だ。この他にも違法な戸籍入手の方法は多々あるが、そのような行為を行おうと考える者に入信資格を与えるほど教会審査会は愚かではなかった。

 

「導き手とはなんなのだろうなぁ、エリス。」


 黙り込んでいた師の意外な言葉に思わずその顔を見上げると、師も自分の腰ほどしかないエリスリトールを穏やかな目で見詰めていた。知識においても、術においても優れた導き手である師がまさか自分のような末弟子に問いかける言葉とは思えなかったが、気まずい雰囲気を払拭するように口を開いた。


「導き手とは、教会が定める第12項の規約に基づく教会の代表ともいえる存在。12項を違えた高位教会関係者、又は王族に対して審判によって刑罰を科すことを許されている。現在、導き手は各地の教会を合わせると3名が存在し…。」


「教皇の存在を待ち続けている…。」


 エリスリトールが師の表情に僅かに感じる物悲しさに思わず言えなかった言葉を続ける様に師は穏やかに言った。普段の師には感じられない弱弱しい声だった。


 



 エリスリトールにとって師はいつでも一番だった。

 川が豊かに流れ、山は季節に応じてたくさんの実りをくれ、人々は穏やかに暮らす小さな村がエリスリトールの故郷だった。しかし、自然と生きていくことは恩恵を授かると共に自然の厳しさも感じて生きなければいけなかった。エリスリトールがその厳しさを知ったのは若干5歳の頃だった。その頃から雨は減り、山の実りは少なくなり、動物たちは餌を求め他山へ旅立ち、川の魚は死に絶えた。それでも村人たちはいざという時のために備蓄しておいた食料で何とか命を繋いでいた。けれども厳しさは半年、1年、2年と続き、エリスリトールの村だけでなく王国自体が存続の危機に陥っていた。食料はなくなり、国からの支援もない。木の根や雑草、食べられるものなら何でも食べたがそれでも死人は増えていく。

 6歳になっていたエリスリトールはいかにも栄養失調という腹を抱えて、老人のように背を曲げて必死に食料を探した。家族は7人。父母、姉が1人に弟が2人、妹が1人。

いや、正確には7人だったという過去形が相応しいだろう。姉は3日前に父がどこぞの豪商に売ってしまった。その男は蛙のような顔に、身体はこのようなご時世に肥満体。ごちゃごちゃと派手な服に宝石を付けた姿は、絵に描いたような悪徳商人そのものだった。口減らしがはじまったのだ。下には跡継ぎの男子が2人いるし、妹はまだ乳飲み子だ。次に売られるか、又は捨てられるかは自分だろうとエリスリトールはわかっていた。

 少しばかりの木の根を持ち帰ると、家には蛙のような男が気持ち悪い笑みを浮かべてエリスリトールを待ち構えていた。わかってはいたが、目の前で父に金と食料の入った袋を渡される姿をみるとさすがに悲しさを感じる。母は、6畳ほどしかない狭い家の片隅で下の3人の子どもを自分の胸に抱きながらエリスリトールに目も向けずただじっとしていた。時折嗚咽が聞こえることから泣いていたのだろう。それがエリスリトールにとっての救いだった。強引に手を引かれ、エリスリトールは豪商が乗ってきた馬車に乗せられた。すがるような気持ちで自分の家を見たが、玄関先に立っていた父はエリスリトールの視線に気が付くと、ぴしゃりと戸を閉めた。それが、エリスリトールが覚えている最後の家族の姿だ。馬車は森を走り、気持ち悪い笑顔を浮かべた蛙男は聞きもしないのに勝手に話し始めた。

子どもを売らないかと父に持ちかけると嫌がったが、全員で飢え死ぬよりも生き残る道を選んだほうが賢明だと説得したこと。エリスリトールの近所の子どもたちも自分ではないが人買いに買われていること。買われた子どもは大抵が二束三文にもならないような金で働かせてすぐに死ぬこと。姉がすでに死んだこと。

 蛙男があまりにも楽しそうに姉がなぜ死んだかを語るので、エリスリトールは思わず立ち上がり蛙男に殴りかかろうとした。しかし、その時馬がいないて馬車が激しく揺れて止まった。蛙男は何事かと慌てて外に飛び出ると、白いコートに胸には円の中に複雑に金糸で描かれている紋章、僅かに見える足元には黒いスラックスと紐革靴、10名ほどの男達が馬車を取り囲んでいた。そこからは呆気なかった。蛙男は取り囲む男達に命乞いをすると、囲んでいた男の一人が男を縛り上げ捕まえてしまった。開けられたままの扉から覗いていると、蛙男を捕まえた男がエリスリトールに近づいてきた。


「君の家はどこかな?」


あまりにも優しい声と笑顔で、殺伐としていた村ではここ数年は聞いたことも見たこともなかった。


「家はない。今売られた。帰れば口減らしで殺されるか、また別のところに売られるのが妥当だよ。」


エリスリトールの見た目とは違うしっかりとして言葉にしばし言葉を失った。白いコートの男は、顎に手を当てて考え込むとエリスリトールの頭を撫でて言った。


「では、私の弟子にならないか?」


「なったらどうなるの?」


「ご飯は食べられて、安心して寝るところもある。優しいお父さんと、たくさんのお兄さんがいて、勉強もたくさんしなければいけないが、もし嫌になったら辞めることもできるよ。」


「じゃあ、なる。だって、このままじゃ生きていけないよ。まだ6歳だし、誰も雇ってくれないよ。」


 男はその言葉を聞くと目を大きく見開いて笑みを深め、エリスリトールを抱き上げた。他の白コートの男達は地面に大きく円の中に何かを描いていたが、子どもを抱き上げて戻ってきた男に気付くと、代わりに抱き上げようとしたが男はそれを断った。白コートの男たちが蛙男と馬車を円の中に移動させ、白いコートの集団もその中に入る。子どもを抱き上げたままの男もその中に入るが、小さくエリスリトールに目を瞑っていなさいと声を掛けてきた。今から何が行われるのか興味はあったが、逆らって何かが起こっても困ると固く目を瞑った。辺りが激しく明るくなったのは目を閉じていても感じられた。そこから体が上にぐいぐいと引っ張られるような感じがしたと思うと、目を開けてもよいと許可の言葉が聞こえたので、ゆっくりと目を開ける。


「ようこそ、教会へ。」


 それが師との出会いだった。



ありがとうございました。

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