第21話:冷徹な教えと、忍び寄る動揺の影
そっと道場の引き戸の隙間から中を覗き見る紅子。
前夜、白夜に対して「素敵」と思ってしまった自分の心に対する激しい動揺と罪悪感を抱えつつも、やはり東真たちのことが気になって、思わず足を運んでしまっていたのだ。
道場内では、相変わらず白夜の冷徹な怒声が響き渡り、隊士たちが必死の形相で走り回っている。
前日の夕食時、兄である蜜柑から黒天との進捗や仲を尋ねられ、紅子はいつものように微笑み返した。だが、その胸のうちは複雑だった。大好きな兄と、自分を心から大切にしてくれる婚約者の黒天――二人を裏切っているような、耐え難い罪悪感が彼女の心を締め付けていたのだ。
「――東真! 守るべきもののために、何を捨て何を優先すべきか瞬時に判断しろ! 自分の感情だけで指揮を執るな!」
白夜の鋭い叱咤が、東真を真正面から射抜く。
「はぁっ?! 誰かを切り捨てろって言うのかよ!」
東真は全身から滝のような汗を流しながら、怒りと悔しさに声を荒らげる。
「ならば、中途半端に全員を危険に晒すつもりか!」
白夜は冷酷な眼光を放ちながら、東真の目前へと木刀を鋭く振りかざした。
「……っ!」
正論を突きつけられた東真は、返す言葉を失い、その場に絶句する。
「理想論だけで言えば、全員が無傷で生き残ることだ。だが、我々のような護衛が最優先すべきなのは、命を懸けてお守りすべき主の存在だ! その優先順位を履き違えるな!」
白夜の圧倒的な迫力と重みのある怒声に、道場にいた全員がぴたりと動きを止め、押し黙った。
(……白夜様……。やっぱり、この方は……)
胸の奥がキュッと締め付けられるような痛みを伴いながら、紅子は再び、抗えない熱を帯びた眼差しで彼の背中を見つめてしまった。
そして、その瞬間に湧き上がったのは、甘いときめきではなく、底知れない「恐怖」だった。
(私、いったいどうしてしまったの……? どうして、こんなにも心が揺らぐの……?)
混乱に満ちた瞳で白夜の背中を見つめていたその時、ふと、鋭い気配に気づいた白夜がスッと視線を上げた。
――ピタリと、白夜の目が紅子と合った。
「っ……!」
心臓が跳ね上がるほどの衝撃を受け、紅子は慌てて顔をそむけ、視線を大きく逸らした。
(……?)
遠目から慌てて隠れた紅子の姿を見た白夜は、わずかに首をかしげたものの、すぐに思考を切り替え、冷徹に稽古へと意識を戻した。
その一連のやり取りを、少し離れた場所から静かに見つめていた男がいた。月ヶ瀬黒天である。
彼は紅子の異様な動揺と、視線の先にある人物に気づき、言い知れぬ違和感を覚えていた。だが、その違和感が何を意味するのか、この時の黒天にはまだ明確に言葉にすることはできなかった。
「紅子様。――椿月野ばら様がお見えでございますよ」
そこへ、音もなく近づいてきた烏山冬華が、静かなトーンで声をかけた。
本日は、夜桜邸で定期的に開催されている、将軍の妹君である椿月野ばらを迎えてのお茶会の日だったのだ。
「……っ! え、あ……はい!」
不意を突かれた紅子は、動揺を顔に出さないよう必死に繕いながら、慌ててその場から立ち去ろうと身を翻した。
「……紅子様?」
冬華は、どこか逃げるように慌ただしく去っていく紅子の背中を、不思議そうに細い目を細めて見送った。そして、首をかしげながら道場の中へと視線を戻す。
(……あらま。白夜は相変わらず容赦ないわね……。もしかして、紅子様はあの鬼のような指導を見て、大事な護衛隊の隊士たちが虐められていると勘違いして、慌てて飛び出していったのかしら?)
白夜の容赦ない特訓の様子と、紅子の尋常ではない青ざめ方を結びつけ、冬華は「お優しい紅子様らしい勘違いだわ」と、どこか楽しそうにクスッと小さく笑うのだった。
しかし、紅子自身の胸の内で渦巻く戸惑いと密かな恋心は、もう誰にも止められない領域へと踏み込み始めていた。




