第2話:静かなる契約と、特殊治安部隊の憂鬱
「紅子様。ご婚約おめでとうございます」
紅子専属の侍女・莉子が、艶やかな振袖を整えながら紅子に微笑みかけた。
「ありがとう。莉子」
紅子は優しく微笑み返す。
特に思いを寄せる相手がいるわけではない。
それに、尊敬してやまない兄・蜜柑が決めたことだ。きっと間違いはないのだろう。
蜜柑からその話を聞かされた時、「承知いたしましたわ、兄様」と、紅子の口からは迷いなく素直な言葉が漏れた。
部屋の厳かな空気が微かに揺れる。入室してきた黒天が静かに頭を下げた。そこに不満の色はなく、夫となる男に対して紅子もスッと三つ指を立て、丁寧に頭を下げる。
「よろしくお願いいたします。黒天様」
その慎ましくも凛としたやり取りを、少し離れた席から見つめていた蜜柑は、満足そうに深く頷いた。
ふたりが退出したあと、紅子は側で控える莉子にそっと目を向けた。
「ねえ、莉子。でも、兄様は自身の奥様を娶らないのかしらね」
「さあ、どうなんでしょうか。旦那様は、なによりも紅子様を先に安心できる相手に嫁がせたかったのかもしれませんね」
莉子が柔らかく微笑む。
「そうなら、兄様らしいわね」
紅子もくすっと笑い、穏やかな空気が流れた。
◇
その頃、国の中枢を守る【特殊治安部隊】の総本部。
静まり返った執務室で、見回りの報告書に目を通していた総司令官・西田川柘榴は、部下から告げられた一報にぴたりと手を止めた。
「司令官。夜桜一族の紅子様が、あの月ヶ瀬黒天と婚約したとの報告が上がっております」
柘榴はその言葉を聞くと、面倒臭そうにふっと視線を上げた。
「紅子様も、そんな時期が来たか。……黒天、ねぇ」
報告書を雑に机の端へ置くと、ガタリと背もたれにもたれかかる。
「西田川さん、そんな呑気なこと言ってる場合じゃないですよ。月ヶ瀬黒天と言えば、夜桜蜜柑の右腕でしょう。あの雪花蓮雫がこのまま黙って見過ごすとは思えませんがね」
不敵な笑みを浮かべつつ、一番隊隊長・中里屋莫才が呆れたように口を挟んだ。
彼の胸元では、異世界から来た手のひらサイズの黒猫――背中に小さな翼を生やし、紫の瞳をきょろきょろと動かすルシアンが「にゃあ」と小さく鳴いていた。
「莫才よ、ただの結婚騒ぎに口出すほどうちらは暇じゃねぇぞ。変に問題が起きる前にうちが動いたら、それこそ黒椿様がうるさいんだよ」
柘榴は大きく息をつき、頭を掻いた。
柘榴の本音としては、蜜柑という男が得意げに幅をきかせるのは面白くない。だが、特殊治安部隊は黒椿一族の当主・黒椿与四郎からの厳格な指示がない限り、権力者たちのいざこざに勝手に介入できない規則があった。
(黒天のやつ……。あの一筋縄ではいかない蜜柑に心底忠誠を誓ってるのは知ってたけど、まさか自分の結婚相手まで差し出されちまうとはねぇ)
紅子自体は無用な争いを好まない可憐な令嬢で、柘榴としても悪く思ってはいない。だが、「そこまでして生涯夜桜家に身を捧げる気かよ」と、元・黒侍組の仲間としての呆れと、ほんの少しの心配心が入り混じっていた。
政略と純愛、そして一族の思惑が絡み合う歯車が、音を立てて回り始めている。




