第90話 そこからなら、射てる
「今日は、僕に場所を選ばせてほしい」
林へ入る手前で、リオが言った。
左手には、迷宮から持ち帰った弓がある。黒に近い茶色の木肌に、反り返った両端。新しく張られた弦は、朝の光を受けて細く見えた。
「戦う場所?」
「僕が射つ場所。二人の後ろだけじゃなくて、横も使いたい」
リオは林の中へ目を向けた。
木々の間には低い枝が伸び、その下を古い石垣が横切っている。正面から見える範囲は狭いが、数歩ずれれば、違うところまで見通せそうだった。
俺は短槍を持ち直した。
「離れる前に、どっちへ行くか教えてくれ」
「うん。見えなくなるところまでは行かない」
「私も、どっちを向けばいいか教えて」
テッサが盾を肩から外した。
「弓が小さくなった分、リオまで見つけにくくなったら困るから」
「僕の大きさは変わってないよ」
「木の向こうにいると、だいたい同じ」
リオは笑い、それから新しい弓へ一度だけ目を落とした。
迷宮から戻って、数日が経っていた。
弓は良級と鑑定された。目立った傷みはなく、弦と握りを整えれば使えるという。同行者への精算を済ませ、費用を払ったリオの財布は薄くなったが、箱の中にあった弓は、今は彼の手に収まっている。
その後の二日間、俺たちも試射に付き合った。
短くても、矢の勢いは頼りなかったりしない。ただ、使い慣れた弓とは引き終わりの重さも狙いも違い、最初から思い通りにはならなかった。
それでも、木の柱の間で構えたとき、リオの顔が変わった。
今日は、その続きを林の中で試す。
依頼は、薪置き場の近くに巣を張った鎌脚グモの討伐だった。
◇
薪置き場へ向かう道は、途中から細くなった。
片側には低い石垣が続き、反対側には切った枝が積まれている。作業を止めたままらしく、道の脇には空の籠が伏せてあった。
リオは歩く速さを落とした。
「足元。石垣から、そっちの枝まで」
光の角度を変えて見ると、細い糸が道を横切っていた。
膝より低い。
何も知らずに歩いていれば、靴か脛へ引っかけていただろう。
俺たちは糸の手前で止まり、周囲を見た。
薪の山の奥に、根の浮いた切り株がある。その陰に、樹皮に似た色の背中が見えた。
犬ほどの胴体。地面を支える脚の前に、鎌のような二本が折り畳まれている。
一匹。
少なくとも、今見えるのは。
「あそこだね」
テッサが盾の持ち手を握った。
俺は正面の道と、左右の木立を見比べた。
薪の山まで追い込むと、脚の動きが見えなくなる。こちらへ出させれば戦いやすいが、道の真ん中には糸があった。
「手前を空けて、ここで待つか」
俺が言うと、リオはすぐには頷かなかった。
石垣の左側を見ている。
「あっちなら、横が見える」
示されたのは、二本の木の間だった。
低い枝が重なっているが、石垣の外側には人が通れるだけの隙間がある。そこからなら、切り株の脇を覗けそうだった。
「通れるか?」
「足元を見てくる。まだ近づけないで」
リオは弓を身体へ寄せ、石垣沿いに数歩進んだ。枝の間を覗き、地面へ目を落とし、また戻る。
「糸は見えない。下がる場所もある」
「そこで射つ?」
「最初はここから。動いたら、左へ変わりたい」
俺はリオの選んだ場所を見た。
そこへ入ったとき、俺たちがどこにいれば射線を塞がないか。
考えてから、テッサへ向き直る。
「俺が道の真ん中。テッサは右を頼む」
「分かった。左には追わない」
リオが頷いた。
俺は短剣を使って手前の糸を切り、枝で絡め取った。戻る道を空けてから、短槍へ持ち替える。
リオが矢をつがえた。
新しい弓の両端が、ゆっくりしなった。
◇
最初の矢は、切り株から出ていた歩行脚へ刺さった。
乾いた音とともに、鎌脚グモが跳ねるように身を起こした。
脚が土を掻き、折り畳まれていた鎌が開く。
リオはすでに、次の矢を取っていた。
「出てくる!」
俺は槍先を下げた。
鎌脚グモは一直線には来なかった。薪の山を擦るように横へ走り、そこから道へ飛び出してくる。
右だ。
テッサの盾が前へ出た。
鎌が振られる。彼女は盾の縁へ引っかけさせず、面を傾けて外へ滑らせた。
硬い音がして、俺の目の前を鎌の先が通る。
その戻りへ、槍を突いた。
刃が脚の外側を掠める。
深くは入らなかったが、相手は前へ出るのをやめた。身体を低くし、二本の鎌をこちらへ向ける。
俺は槍を引き戻した。
正面に立つと、思った以上に狙えるところが少ない。
脚の間に刃を通そうとすれば鎌が動き、頭へ向ければ硬い部分へ当たりそうになる。
「左へ移る!」
リオの声がした。
「分かった!」
俺はそちらを振り返らず、槍先を相手の顔の前へ残した。
鎌脚グモが左へ向こうとする。
短く突く。
届く前に脚が引かれ、刃は空を切った。それでも、頭はこちらへ戻った。
今はそれでいい。
俺の役目は、倒すことより、リオが動く間に相手をこちらへ向けておくことだった。
テッサが半歩だけ前へ出た。
盾を嫌ったのか、鎌脚グモが右へ逃げようとする。その先へ盾の面を向け、道から外れないように押し返す。
距離が近くなった。
俺は慌てて踏み込まず、槍の握りを少し詰めた。
長く構えたままだと、テッサの盾に柄をぶつける。
そのとき、鎌の一本が盾の上から伸びた。
「上!」
「見えてる!」
テッサは膝を曲げ、盾を持ち上げた。
鎌が滑る。
下がった脚の付け根へ、右手の槌が短く入った。
鎌脚グモが身を捻り、切り株の方へ後退する。
テッサは追わず、槌を盾の脇へ戻した。
その向こうで、木の枝がわずかに揺れた。
リオが見えた。
◇
石垣の外側で、リオは片膝を曲げていた。
頭の少し上には低い枝がある。横には木の幹。いつもの弓なら、もっと身体を外へ出すか、構える角度を変えていた場所だった。
短い弓が、その隙間に収まっていた。
鎌脚グモは切り株へ戻ろうとしていた。正面から見れば、根の出っ張りが身体を隠してしまう。
だが、リオは横にいる。
「そこから、見えるか?」
「見える。二人とも、そのまま!」
俺は踏み出しかけた足を止めた。
テッサも盾の位置を保つ。
リオが弦を引いた。
急いでいなかった。
片足を置き直し、肩を落とす。練習場で何度も確かめていた姿が、枝の間にあった。
矢が飛んだ。
歩行脚の間を抜け、胴の横へ入る。
鎌脚グモの身体が大きく傾いた。
正面からは見えなかった柔らかな部分へ、矢羽が揺れている。
「入った!」
思わず声が出た。
鎌脚グモは切り株へ戻るのをやめ、リオへ向きを変えた。
脚を引きずりながら、石垣の方へ走る。
俺も動きかけたが、切り株の根が間にある。飛び越えれば追いつけるかもしれない。けれど、着地する場所までは見えなかった。
「リオ、そっちへ行く!」
「分かってる!」
リオはもう下がっていた。
さっき自分で確かめた道を、二歩。
弓を引いたまま走るのではなく、一度下ろして足を運ぶ。石垣を挟んだ向こうで、鎌脚グモが前脚を持ち上げた。
低い壁だ。
相手が越えられない高さではない。
ただ、越えるには、一度身体を起こさなければならなかった。
リオが止まる。
弓が上がった。
前脚が石を掴んだ瞬間、矢が放たれた。
持ち上がった身体の下へ、真っすぐ入った。
鎌脚グモが石垣へぶつかり、脚を滑らせて落ちる。
リオは次の矢へ手を伸ばしたまま、距離を保っていた。
俺とテッサは根を回り込み、石垣のこちら側へ出た。
鎌はまだ動いていたが、身体は起き上がらない。俺は槍を向けて近づき、最後の動きが止まるまで確かめた。
リオが弓を下ろした。
枝の隙間から差した光が、新しい弓の縁を照らしていた。
◇
「そこ、よく入れたな」
俺が言うと、リオは自分の頭の上を見た。
「前の弓なら、枝を避けるために、もう一歩出てたと思う」
「出たら?」
「切り株に隠れて、身体の横が見えなくなる」
俺も同じ場所から覗いてみた。
立ったままでは、枝が邪魔だった。少し屈むと、薪の山と切り株の間が見える。
ほんの一歩。
それだけで、見える場所が変わる。
「そっちからは、あんなところが見えてたのか」
「うん」
リオは短弓を少し持ち上げた。
「これだと、ここで射てる」
その言い方が嬉しそうで、俺も笑ってしまった。
店で良級だと聞いたときより、その弓がいい物に見えた。
テッサが右腕を振り、槌を腰へ戻した。
「今日は、リオの方へ逃げたね」
「逃げたというより、僕を倒しに来たんだと思うけど」
「いつもは私のところに来るから、ちょっと変な感じだった」
「怖かったよ。ちゃんと」
リオはそう言って、石垣の前へ目を向けた。
「だから、後ろを見てから入った」
俺は、切り株を飛び越えかけたときのことを思い出した。
リオが動く場所を選ぶなら、俺もそこまで考えておかないといけない。
「次は、俺がそっちへ行く道も見ておく」
「お願い。石垣を越えられてたら、もう少し下がるつもりだったから」
「私も行く。盾は、あの枝に引っかかりそうだけど」
テッサが上を見る。
確かに、あそこへ大盾ごと入るのは難しそうだった。
「じゃあ、合流するのは手前の道だな」
俺が指すと、二人とも頷いた。
今までは、俺たちの後ろにリオがいることが多かった。
今日は、槍で相手の向きを保つ俺と、右側を塞ぐテッサ、その横から射つリオだった。
同じ三人でも、立つ場所が変わると、見える隙間まで変わった。
◇
周囲に別の個体がいないか確かめ、道に残った糸を取り除いた。
薪の山の間には、まだ糸が残っている。作業する人が手を入れそうなところを見ていくと、片づけだけでも時間がかかった。
リオは矢を回収し、一本ずつ調べていた。
「折れた?」
「一本、矢柄に傷がある。これは店で見てもらう」
「新しい弓でも、矢は傷むか」
「ノルの槍だって、良級だからって手入れを省けないでしょ」
「省いてないぞ」
「知ってる」
リオは笑い、傷んだ矢を別にまとめた。
弓の握りや継ぎ目も確かめている。練習で覚えた手入れを済ませると、ようやく肩の力を抜いた。
「腕、疲れたか?」
「少し。でも、今日は狙い直すために、ずっと引いて待たなくてよかった」
俺は倒れた魔物のいた場所を見た。
リオは相手が見えるまで待つ代わりに、自分から見える位置へ動いた。
そのために俺たちも、相手を止める場所を選んだ。
弓一本が替わっただけなのに、三人とも昨日とは違うことをしていた。
依頼主へ完了を伝えると、薪置き場を見に来た男が、道を何度も確かめた。
「これで運び出せる。助かったよ」
早速、空の籠を起こしている。
俺たちは残った糸の場所を説明してから、林を出ることにした。
帰り道、リオが少し先を歩いた。
枝を避けるために弓を身体へ寄せ、そのまま石垣の角を曲がる。俺たちがついてきているか確かめ、道の先を指した。
「こっち。来た道へ戻れる」
「今日は先頭なんだな」
「嫌?」
「いや。槍を枝にぶつけなくて済む道を頼む」
「盾も」
「二人とも、注文が多いよ」
リオはそう言いながら、笑っていた。
木々の間から町の屋根が見えてきた。帰ったら報告をして、弓と矢を見てもらう。それから、迷宮の見取り図の写しを受け取る予定だった。
「次の探索なんだけど」
リオが振り返った。
「地図を見ながら、三人で進み方を考えたい」
「もちろん」
俺が答えると、テッサも頷いた。
「今度は、どこから射つ?」
「それを探したいんだ」
リオは左手の弓を見た。
箱の中で見つけたときには、使えるかどうかも分からなかった武器だ。
今は、その弓を持って行きたい場所がある。
俺は槍を肩へ預け直し、先を歩くリオに追いついた。
見取り図を広げるのが、昨日より楽しみになっていた。




