第89話 回廊の先の宝物
地図では短い線だった階段が、目の前ではずいぶん長く見えた。
作業室の奥から下りた石段は、途中で折れ曲がり、岩壁に沿った回廊へ続いている。右側には腰ほどの石の欄干があり、その向こうから水の落ちる音が響いていた。
俺は一段ずつ、足を置く場所を選んだ。
石段で練習したときは、同じ幅の段を何度も上り下りした。ここでは角が欠けていたり、砂が溜まっていたりする。高さまで、少しずつ違っていた。
「後ろ、少し待って」
テッサが声をかけた。
盾の下端が、曲がり角の石へ触れそうになっている。彼女は盾を引き寄せ、足を先に置き直してから身体を回した。
俺も槍を立てすぎないよう、穂先の向きを変える。
前なら、武器をぶつけないことだけで精いっぱいだったと思う。今日はその前に、次の足場を見られた。
階段を下り切ると、風が横から抜けた。
回廊には屋根があり、岩壁と柱の間を人が二人ほど並んで歩ける。外側の欄干は一部が欠けていたが、壁沿いの床は残っていた。
先頭のマレナが振り返った。
「外側へ寄らないで。向こうの柱まで進む」
俺たちは間を空けて続いた。
図の載った金属板は、調査員が布に包んで背負っている。手元の控えを見ながら歩くその背中の向こうに、屋根の残る建物が少しずつ近づいてきた。
もう、窓越しの景色ではなかった。
あの入口まで、自分の足で行ける。
そう思ったところで、前を歩くリオが片手を上げた。
「止まって。階段の上」
回廊の先には、建物へ上がる短い石段があった。
その上で、灰青色の身体が動いた。
風吐きトカゲだった。
柱の根元へ腹をつけていたらしい。こちらへ頭を向けると、喉の皮がゆっくり膨らみ始めた。
◇
「柱へ!」
マレナの声に、全員が動いた。
俺は一番近い柱へ寄りながら、床の小石へ目を落とした。
回転を――。
考えかけて、やめる。
喉はもう膨らんでいる。石を選び、軸を整えている時間はなかった。
俺は小石をそのまま弾いた。
石弾はトカゲの鼻先を掠め、頬に当たった。頭がわずかに横を向く。
直後、空気が唸った。
回廊へ砂と小石が吹きつける。俺は柱の陰へ身を縮め、壁側の足を踏ん張った。
風が通り過ぎても、すぐには顔を出さなかった。
「ノル、入った?」
隣の柱から、テッサの声がした。
「入った。怪我はない」
リオも返事をする。
マレナは調査員を後方へ下げ、長槍の男に背後の見張りを任せていた。自分は俺たちの一つ後ろの柱で、剣を抜いている。
「今見えるのは一匹。どうする?」
俺は石段までの距離を見た。
上で戦えば足元が狭い。けれど、階段の下には荷物を置くためなのか、少し広い場所があった。壁側に柱が一本あり、外側の欄干もそこは残っている。
「あの平らなところへ下ろしたいです。段の上には追いません」
「分かった。崩れた側へ回らせたら、私が止める」
テッサとリオが俺を見る。
「今度は、回す?」
リオが聞いた。
「場所が作れたら。先に下りてきてほしい」
「じゃあ、こっちを見るようにする」
リオは矢をつがえ、柱から弓を出せる位置を確かめた。
テッサは盾の縁へ目を落としてから、石段の正面へ半歩出た。
トカゲが頭を持ち上げる。
盾を見つけたのか、動きに反応したのか。灰青色の前脚が、最初の段へかかった。
「来るよ」
「三歩、戻れる」
俺が後ろを見て答える。
テッサは一気に走らなかった。盾を向けたまま一歩下がり、俺の声を待って、もう一歩。
相手の身体が段を滑るように下りてきた。
最後の段へ前脚がついたところで、リオの矢が飛んだ。
狙いは首だったらしい。トカゲが身を捻り、矢は肩口を浅く裂いて石段へ当たった。
外れた、と口にしかけた。
けれど、その動きでトカゲの頭がリオへ向いた。
テッサが壁側へ下がり、俺の前が空く。
今なら、石を置ける。
◇
俺は柱の陰で膝を落とし、袋から丸みのある小石を取り出した。
砂を手で払い、平らな床へ置く。槍はすぐ拾えるよう、穂先を前へ向けて足元に寝かせた。
回す。
石の縁が、小さく揺れた。
強くしようとすると、軸が傾く。俺は一度力を緩め、石の中心から飛ばす先へ、細い線を思い描いた。
遠見筒を覗いたときの、真ん中。
そこをずらさない。
「まだ?」
テッサの声がした。
「もう少し」
顔を上げると、トカゲが喉を膨らませかけていた。テッサは盾で受ける構えをせず、柱へ戻れる位置に足を置いている。
リオが次の矢を放った。
今度は前脚の近くへ刺さった。トカゲが脚を引き、身体を斜めにする。こちらから肩の前が見えた。
俺は石へ目を戻した。
回転の揺れが、小さくなっている。
「撃つ!」
床から石が飛んだ。
狙った脚の付け根より、少し上だった。
鈍い音がして、肩の鱗が割れた。灰青色の身体が傾き、膨らみかけた喉が縮む。
前脚は動いていた。
倒れてもいない。
けれど、踏み出そうとした足が一度滑った。
「入った!」
テッサが言った。
俺は返事をせず、槍を拾った。
頭の奥が少し重い。もう一度、同じ石弾を用意する余裕はない。それより、今できた隙間を使いたかった。
テッサが盾を前へ出す。
トカゲがそちらを向き、口を開いた。
俺は盾の右側へ出た。
「右から!」
「空いてる!」
最初の突きは、顎の横へ弾かれた。
穂先が鱗を滑り、腕へ硬い感触が返ってくる。
以前なら、そこで大きく引き戻していた。今は後ろの手を少し引き、前の手で穂先の向きを下へ変える。
返し突き。
トカゲが盾へ頭を伸ばす、その下へ。
二度目の刃が入った。
相手が暴れ、柄が横へ振られる。俺は両足を突っ張らず、壁側へ足を置き直した。石段の稽古で繰り返した、小さな踏み替えだった。
外側へ流されなかった。
刃を抜き、すぐに間合いを取る。
トカゲは前脚を掻いたが、頭を持ち上げられなかった。俺は槍を向けたまま待ち、動きが弱まってから、もう一度急所を突いた。
しばらくして、尾も動かなくなった。
水の落ちる音が戻ってきた。
俺はようやく、長く息を吐いた。
「もう回さないの?」
テッサが聞いた。
「今日は、しばらく回したくない」
「じゃあ、帰りに荷物が回ってきたら?」
「それも少し待ってほしい」
リオが笑いかけ、それから弓を下ろした。
マレナは死骸と、俺たちの立っていた場所を順に見た。
「最初の石弾、回転はつけなかったね」
「間に合わなかったので」
「うん。あそこで準備を続けていたら、柱へ戻れなかった」
強く撃てるようになっても、毎回そうすればいいわけではない。
俺は床に残った石の擦れ跡を見た。
回す前に、テッサが場所を空けた。リオが相手の向きを変えた。
あの三呼吸ほどの時間は、俺一人では作れなかった。
「次は、もう少し早く用意する」
「早くするだけじゃなくて、途中でも教えて」
テッサが盾を少し下げた。
「待っていいのか、下がった方がいいのか分かるから」
「分かった」
リオも頷いた。
「僕も、ずっと同じ場所には撃てないしね」
俺たちは戦った場所をもう一度見てから、石段へ向き直った。
今度は、上へ進むために。
◇
建物の入口には、片側の扉だけが残っていた。
壁へ倒れかかった扉を避けて中へ入ると、外より乾いた匂いがした。マレナと長槍の男が先に左右を確かめ、俺たちは入口の近くで待った。
灯りが奥へ動く。
壁に、長いものが幾つも並んでいた。
最初は柱かと思ったが、違った。
柄の折れた槍。錆びた刃。丸い金具を連ねた、何かの防具。
「武器庫?」
テッサが小さく言った。
「少なくとも、武器を置いていた部屋ではありそうだね」
マレナが答える。
立てかけられていた物の多くは、もう使えそうになかった。木の柄は途中で崩れ、刃だけが床へ落ちているものもある。
俺は短槍を握り直した。
ドランなら、直せるものと直せないものを、すぐに分けるのだろう。
今の俺に分かるのは、自分の槍をこの壁へぶつけない方がいい、ということくらいだった。
集光灯を台へ載せ、光を広げる。
部屋の奥には石の棚があり、その上に細長い箱が置かれていた。
腰ほどの高さで、床から離れている。落ちた石が直接当たらなかったらしく、蓋は形を保っていた。
リオが足を止めた。
「そっち、照らしてもらえる?」
俺は灯りの向きを変えた。
箱の長さは、俺の槍より短い。剣なら入りそうだったが、その割には幅があった。
表面の金具に、弓のように曲がった印が残っている。
リオはそれを見ていた。
さっきまで壁の武器を数えていたときとは、顔が違った。
「弓?」
テッサが聞く。
「そう見える。でも、中身まで同じとは限らないよ」
答えは慎重だった。
目は、箱から離れなかった。
調査員が置かれていた場所と印を記録し、マレナが蓋の縁を確かめた。留め金を外すと、蓋は少しだけ持ち上がり、乾いた音を立てて開いた。
中には布が敷かれていた。
その上に、一本の弓があった。
◇
黒に近い茶色の弓だった。
リオが使っているものより短く、両端が外側へ反っている。側面には色の違う薄い層が重なり、握りの部分だけ、細い革で巻かれていた。
弦は張られていない。
宝石も、目立つ飾りもなかった。
けれど、壁に残った武器とは違っていた。表面に艶が残り、曲線が途中で崩れていない。
「……持ってみてもいいですか」
リオが聞いた。
声が、少し小さかった。
マレナは頷いた。
「曲げずに、そのまま支えて。見た目が残っていても、中が傷んでいることはあるから」
リオは弓を置き、両手を空けた。
布の上へ指を差し入れ、見つけた弓をゆっくり持ち上げる。俺たちにも見えるよう少し傾けたが、引くような動きはしなかった。
「軽い?」
テッサが聞く。
「思ったほど重くない。でも、引く重さは分からない」
「使えそうか?」
「まだ分からないよ。弦もないし、合わせ目も見てもらわないと」
リオはそう答えながら、握りの位置へ目を落とした。
今まで使ってきた弓と、何が違うのだろう。
短い分、狭い場所でも扱いやすいのか。それとも、その分だけ難しいところがあるのか。
俺には分からなかった。
ただ、リオが知りたがっていることだけは分かった。
テッサが俺の横で、右腰の槌へ軽く触れた。
「欲しい?」
リオが顔を上げた。
「まだ、使えるかも分からないし」
「それは聞いた。欲しいかどうか」
少しの間、返事がなかった。
リオはもう一度、弓を見た。
「……使ってみたい」
それを聞いて、俺は少し笑った。
《鉄輪》で短槍を持ったとき、自分もそんなことを考えた。
今の腕で扱えるかは分からない。それでも、次に握るときには、もう少しうまく使いたいと思った。
「なら、まず持って帰ろう」
俺が言うと、リオは頷いた。
マレナが調査員へ目を向けた。
「これも発見品に加えて。値段と状態が分かってから分配を決める。引き取りたいなら、そのときに相談しよう」
「はい」
今度の返事は、はっきりしていた。
テッサが自分の荷物から、予備の布を出した。
「その古い布ごと包んだ方がいいかな」
「底が破れそうだから、新しい方へ移そう」
リオは弓を持ち上げたまま、俺たちが布を広げるのを待った。
握りと両端がぶつからないよう、折った布を間へ挟む。調査員に収め方を確かめてもらい、箱へ戻してから蓋を閉じた。
箱は細長く、そのままでは少し持ちにくそうだった。
「運ぶの、交代するぞ」
俺が言うと、リオはすぐに首を振った。
「最初は僕が持つ」
「最初だけ?」
テッサが聞く。
「疲れたら頼むよ」
ちゃんと、そう答えた。
俺は箱の端へ縄を通しながら、閉じた蓋を見た。
ここへ来る前、あの建物の中に何があるのか、三人とも分からなかった。
今は知っている。
錆びた武器が並ぶ部屋の奥に、リオが使ってみたいと思う弓があった。
帰ったら、弓を見てもらえる店を探そう。
俺とテッサが縄を締め終えると、リオは持ち手を確かめ、箱をそっと持ち上げた。
まだ自分の物と決まったわけではない。
それでも、その顔を見ていると、次に三人で練習場へ行く日が楽しみになった。




