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第88話 地図の先にある景色

 大扉の前まで来ると、三つの水槽を流れる音が背中へ回った。


 下から見上げたときより、扉は大きい。表面を覆う金属には黒い染みが広がり、中央の紋章だけが浅い浮き彫りになっていた。


 曲がった線と、その先にある三つの丸。


 片手槌の入っていた箱にも、中庭の入口にもあった印だ。


「押すんですか?」


 俺が聞くと、マレナは取っ手の下へ灯りを寄せた。


「その前に、留まっている場所を探す」


 鍵穴らしいものは見当たらなかった。代わりに、左右の扉を跨ぐ短い金属棒がある。棒の片端は輪に差し込まれ、もう片端には指を掛ける穴が開いていた。


 調査員が刷毛で埃を払い、細い工具を差し入れる。


「横へ抜く留め金ですね。錆で固まっていますが、錠ではなさそうです」


「私の槌、使う?」


 テッサが右腰へ手をやった。


「直接は叩かないで。これを当てます」


 渡された木片を金属棒の端へ添え、テッサが槌を短く動かした。


 一度目では動かない。二度目で、輪の縁から細かな粉が落ちた。


 振り上げず、同じところへもう一度。


 棒が少しずれた。


「そこまでで大丈夫です」


 テッサはすぐに手を止めた。調査員が棒を引き抜き、布へ置く。


「魔物より、こっちの方が素直だったね」


「そいつは逃げないからな」


「逃げる扉だったら帰るよ」


 俺も、追いかけてまで開けたいとは思わない。


 マレナと長槍の男が片側へ手を掛けた。俺は合図を待って、少し下の位置を押す。


 靴底が床を擦った。扉は動かず、腕だけが疲れ始めた頃、足元で石を削るような音がした。


 細い隙間から、乾いた空気が流れてくる。


 もう一度押すと、人が横向きになれば通れるほど開いた。


 マレナが中へ灯りを向けた。


 何も飛び出してはこなかった。


 見えたのは、石の作業台と、壁に並んだ道具だった。


 ◇


 扉の奥は、細長い部屋になっていた。


 中央には幅の広い通路があり、両側に作業台が並んでいる。壁際の棚は一部が崩れていたが、太い金属の輪や、歯の欠けた部品が残っていた。


 床には、扉から奥へ向かって二本の浅い溝が続いている。


「荷車を入れてたのかな」


 リオが屈んで、溝の端を見た。


「この幅なら、小さな台車かもしれないな」


 長槍の男が答えた。


 大きな扉を見て、俺は何か特別なものを想像していた。中にあったのは、重い物を運び込み、直すための部屋らしい。


 それでも、つまらなくはなかった。


 さっきまで流れていた水を、ここで作った部品が動かしていたのかもしれない。


 調査員は壁の道具を見比べ、作業台へ顔を近づけた。


「こちらは交換部品の置き場でしょうね。あの輪は、水槽の脇にあった軸と形が似ています」


 テッサは棚へ目を向けていた。


「全部、武器に見える」


「どれが?」


「あの長いやつとか」


「挟む道具じゃないかな」


 リオに言われ、俺も見る。


 確かに、先が二つに分かれていた。これを武器として持ち歩いたら、ドランに妙な顔をされそうだ。


 部屋を調べる間、マレナと長槍の男が奥の通路を確かめた。俺たちは入口に近い作業台から、見えるものを順に報告する。


 集光灯を折り畳みの台へ載せると、両手を空けたまま細部を照らせた。光を絞れば棚の奥まで届き、広げれば三人で同じものを見られる。


 買ったときより、ずっと使い方が増えていた。


「ノル。そっちから照らして」


 リオが、低い棚を指した。


 棚の上には薄い木箱が重なっていた。手前の一つは角が崩れ、底板が外れている。その下から、緑がかった金属の縁が覗いていた。


「箱の留め具?」


「それにしては長い。奥まで続いてる」


 調査員を呼び、崩れた木を一枚ずつ退けた。


 出てきたのは、平たい金属の板だった。


 縁に小さな留め金があり、反対側には蝶番が並んでいる。二枚を重ねて閉じた形らしい。


 調査員が表面を拭うと、中央にあの紋章が現れた。


「また三つの丸だ」


 テッサが言った。


 俺は片手槌の箱を思い出した。


 今度は、どんな道具が入っているのだろう。


 けれど、留め金を外して開いても、中に何かが収まっているわけではなかった。


 板の内側には、細い線が幾重にも刻まれていた。


 四角い囲い。曲がった線。小さな丸と、横に並んだ短い刻み。


 俺は顔を近づけた。


「……地図?」


 調査員は返事をせず、灯りの向きを変えた。


 斜めから光が当たると、彫られた線がはっきり浮かんだ。


「施設の見取り図だと思います。持ち運んで使えるよう、畳める形にしたのでしょう」


 金属の板が、急に宝物に見えた。


 ◇


 マレナたちを呼び、空いていた作業台へ板を広げた。


 図の端には細かな文字もあったが、俺には読めないものが多い。読めそうな部分も、表面が擦れて途切れていた。


 ただ、形には覚えがあった。


「ここじゃない?」


 テッサが、三つ並んだ四角を指す。


「水槽?」


「ほら、一つずつずれてる」


 長方形は、階段のように位置をずらして並んでいた。その脇には小さな歯車のような印がある。


 俺は扉の外を振り返った。


 三つの水槽。その脇の軸と、大きな輪。


「じゃあ、この隣が今いる部屋か」


 幅の広い入口を持つ四角が、水槽のすぐ横に描かれている。


 調査員が、自分の記録と見比べた。


「入口と通路の向きは合いますね」


 俺たちが今立っている場所が、一つ決まった。


 そこから線を辿る。


 水槽から伸びた線は途中で二つに分かれていた。一方は細く曲がり、小さな丸へ繋がっている。


「中庭の水槽だ」


 声に出してから、俺は指を止めた。


「たぶん。水が分かれた場所も、この辺りなら合う」


 リオが隣から覗き込む。


「その丸のそばに、部屋が二つある」


「槌の箱があったところ?」


「うん。奥の通路は、図だとまだ続いてるね」


 実際には、落ちた岩が道を塞いでいた。


 図の上では、線はそこで終わっていない。緩く曲がり、さらに大きな区画へ繋がっていた。


 紙に描かれた道と、歩ける道は違う。


 採石場で穴を測ったときにも、それは思い知った。


 それでも今度は、消えた道の先が見えた。


「この建物まで続いてたのか」


 俺が指した区画には、横長の部屋が幾つも並んでいた。その周囲を、別の線が回り込んでいる。


 リオはそちらを見ていた。


「待って。こっちからも行けるんじゃない?」


 指が、今いる部屋へ戻る。


 部屋の奥から伸びる細い通路は、図の端を回りながら、同じ区画へ向かっていた。


「中庭へ戻らなくても、ここから?」


「図ではね」


 マレナが作業台へ片手をついた。


「奥に廊下はあった。曲がり角から風も入ってくる。そこまでは確かめられる」


 俺は顔を上げた。


 さっきまで、部品と作業台しかない部屋だと思っていた。


 ここには、次の行き先が置いてあった。


 ◇


 奥の廊下は、作業室より少し狭かった。


 左側は岩壁。右側には、腰の高さまで石を積んだ窓が並んでいる。最初の二つは土と石で塞がれていたが、その先から淡い光が入っていた。


 水の音も、少しずつ大きくなる。


 マレナが前へ出て、窓の足元を確かめた。


「縁には乗るな。ここから見て」


 隣へ進むと、冷たい風が顔を撫でた。


 外に、広い空間があった。


 天井は遠く、青白く光る岩肌が闇の中へ続いている。右手では水が高い場所から落ち、その飛沫が薄い霧になっていた。


 あの橋を見下ろしたときと同じ空洞だ。


 ただし、立っている場所が違う。


「あそこ、歩ける道だ」


 リオが言った。


 窓から左下へ続く岩壁に、細い回廊が張り付いていた。石柱が一定の間隔で並び、その上を低い屋根が覆っている。


 回廊は岩の出っ張りで一度隠れ、向こう側にある大きな建物へ繋がっていた。


 建物にも屋根が残っていた。


 中庭の小部屋より、ずっと大きい。正面には幾つもの柱が立ち、中央の入口だけが深い影になっている。


「図にあったの、あれかな」


 俺が聞くと、調査員は持ってきた控えを広げた。


「位置は合います。間にある曲がり方も」


 テッサが窓の手前で背伸びをした。


「もう少し高かったら、よく見えるのに」


「盾に乗るなよ」


「まだ何もしてない」


 俺も、少し考えていた。


 リオは遠見筒を取り出し、窓から一歩下がった位置で構えた。筒の長さを調整し、しばらく向こうを見つめる。


「回廊の床、途中までは残ってる。柱の向こうは見えないけど」


「入口は?」


「開いてるように見える。でも暗くて、中までは分からない」


 リオは筒を目から離し、俺へ差し出した。


 覗くと、遠かった柱が近づいた。


 縁の欠けた屋根。床へ積もった砂。入口の上に残る、細長い石板。


 文字か模様が彫られているらしいが、今の距離では読み取れない。


 筒の右端にある傷を避けるよう、少しだけ向きを変えた。


 入口のすぐ内側に、何かが並んでいる。


 棚なのか、柱なのか。それとも大きな箱なのか。


 はっきりしないからこそ、近くで見たくなった。


「何かある?」


 テッサに聞かれ、遠見筒を渡す。


「ある。何かは、まだ分からない」


「それ、見た人の答えになってる?」


「見れば分かる」


 彼女は覗き込み、しばらく黙った。


「……何かあるね」


「だろ」


 リオが横で笑った。


 ◇


 廊下に面した作業台へ戻り、もう一度、金属の図を広げた。


 窓の外に見えた回廊は、ここから下る道らしい。図には短い刻みが続き、その先で線が横へ曲がっている。


「階段だな」


 俺が言うと、調査員は頷いた。


「高さの違いを表しているのでしょう。少なくとも、窓から飛び降りる必要はありません」


「よかった。ノルなら止めると思ってた」


「俺以外も止めるぞ」


 テッサは図の上へ指を置いた。


 中庭の丸から、三つの水槽へ。作業室を通り、階段を下り、回廊の先へ。


 今なら、その線の途中にある景色を思い浮かべられた。


 低い天井の通路。水の流れる穴。土に埋もれた石段。そして、三つ並んだ水槽。


 この図を作った人も、同じ場所を歩いたのだろうか。


「これも、持って帰って調べるんですよね」


 俺が聞くと、マレナは頷いた。


「発見品として記録する。扱いは戻ってから決めるけど、図の写しは残せるよ」


「売ったら高いのかな」


 テッサが言った。


「気になるか?」


「気になる。でも、これがあったら、まだ見つかってない箱へ行けるかもしれないでしょ」


 彼女は、図の先にある大きな区画を見ていた。


「だったら、一回売るより得かも」


「毎回、箱があるとは限らないよ」


 リオが言う。


「それを確かめに行くんじゃない?」


 俺は少し笑った。


 あの青い剣を初めて見たときは、剣そのものが欲しかった。


 片手槌の箱を開けたときには、中にどんな武器が入っているのか気になった。


 今、目の前にあるのは、振っても突いても戦えない金属の板だ。


 それなのに、何度も覗き込みたくなる。


 この先には何があるのか。


 あの回廊からは、どんな景色が見えるのか。


 図の上に指を置くたび、行きたい場所が増えていった。


 マレナが水袋を下ろした。


「ここで休憩にする。そのあと、階段と回廊の手前まで見よう。先へ進めるかは、そこで決める」


 テッサがすぐ顔を上げた。


「今日、あそこまで行けるかもしれない?」


「道が残っていればね」


 俺は窓の外を見た。


 岩壁に沿った回廊の先に、屋根の残る建物がある。


 さっきまで、存在すら知らなかった場所だった。


 パンを取り出すと、リオが作業台の端を軽く叩いた。


「図の上には落とさないでよ」


「分かってる」


「ノル、まだ見てる」


 テッサに言われて、ようやく顔を上げた。


 けれど、二人ともパンを食べながら、同じ窓の向こうを見ていた。

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