第87話 三つの水槽
中庭へ戻ると、水盤には今日も水が流れていた。
細い流れが縁へ落ち、丸い波紋が広がる。俺たちが帰って飯を食い、眠っている間も、ずっと同じように流れていたのだろう。
テッサが、槌を見つけた部屋の入口へ目を向けた。
「何か増えてないかな」
「置いてきたものなら、減ってるかもしれないけど」
「ノル、そういうところ現実的だよね」
そう言いながらも、彼女は部屋へ寄らず、水盤の脇へ荷物を下ろした。
鎌脚グモを倒した翌日は、道具の手入れと打ち合わせに使った。テッサの腕にも槌にも問題はなく、予定通り六人で風の迷宮へ戻ってきた。
今日の目的は、水の来る方を調べることだった。
正面の廊下は落石で塞がっている。
だが、中庭へ流れ込む水路は、それとは別の方向から壁を抜けてきていた。
マレナが図面を広げる。
「まず、壁の裏へ回れる道を探す。水の中へ入る必要はないからね」
調査員が、水盤へ続く溝を指した。
「途中まで壁沿いに見えています。この高さを目安に追ってみましょう」
俺たちは荷物を持ち直した。
昨日まで紙の上で辿っていた線が、今日は目の前にあった。
◇
水路は、中庭の端にある低いアーチの向こうへ続いていた。
アーチの上には、削れた模様がある。
曲がった線の先に、小さな丸が三つ。
箱の蓋にも刻まれていた印だった。
調査員は刷毛で表面を払い、持ってきた写しと見比べた。
「同じものと考えてよさそうですね」
「この先に何があるか、書いてあるんでしょうか」
俺が聞くと、彼は模様の下へ灯りを向けた。
細かな線もあったが、文字なのか傷なのか分からない。
「場所を示す印か、設備を管理していた者の印か。まだ、どちらとも言えません」
「槌の箱にもあったよね」
テッサが腰へ手を添えた。
「ええ。同じ場所で使われていた備品、という可能性もあります」
それを聞いて、テッサは槌から手を離した。
古い武器を手に入れたことは分かっていた。
その武器を置いていた人間が、この道も歩いたのかもしれない。
俺はアーチの内側へ目を向けた。
低い天井の下に、水路と、その脇の通路が並んでいた。
マレナが先へ入り、長槍の男が続く。男は槍を寝かせ、穂先を前へ向けて持ち直した。
俺の短槍でも、背負ったままでは上へ引っかかりそうだった。
手に持ち、前後の間隔を空ける。
テッサも盾を背中から左腕へ移した。
「持って歩く方が、まだ通れるね」
「後ろへ引っかかっても、見えないしな」
俺が答えると、彼女は盾の下端を足の外へ寄せた。
入れる場所が、そのまま戦える場所とは限らない。
ここで何か出たら、槍を大きく動かす余裕はなさそうだった。
それでも、前後の人とぶつからずに歩くことはできる。
今は一人ずつ、通れる道を進んだ。
◇
しばらく行くと、天井が高くなった。
水路は緩やかに曲がり、その先で石壁へ吸い込まれていた。
人の通路は、そこで終わっている。
「行き止まり?」
テッサが前を覗いた。
水の通る穴は、俺の頭より少し大きいくらいだった。向こうから流れてくる水が、穴の下半分を占めている。
覗いても、奥は見えない。
マレナは壁に手をつかず、左右の継ぎ目を調べていた。長槍の男は俺たちの来た道へ向き直り、後方を見ている。
調査員が図へ行き止まりの線を入れた。
「ここから先は、水だけですね」
俺は壁を見上げた。
水路を追えば、そのまま上流へ行けると思っていた。だが、水に必要な幅と、人に必要な幅は違う。
当たり前のところで、道が終わってしまった。
リオが灯りを持ち上げる。
「少し戻ってもいい?」
「何かあった?」
マレナが聞いた。
「途中、右の壁に窪みがあった。下に石が積もってたけど、上は抜けてたかもしれない」
俺には、壁の一部が崩れているようにしか見えなかった場所だ。
マレナが頷き、俺たちは順番を入れ替えて戻った。
◇
窪みは、人が一人立てるほどの幅だった。
下には石屑が溜まり、奥へ行くほど暗くなっている。
リオは集光灯を折り畳みの台へ載せ、光を細く絞った。
壁の上へ灯りが伸びる。
そこに、水平な縁が見えた。
もう少し上にも、同じ幅の縁がある。
「段だ」
俺が言うと、リオが頷いた。
「たぶん、上がる道」
マレナが近づき、手前の石を調べた。
崩れた壁だと思っていたものは、下の数段だけ石屑に埋もれた階段だった。
壁に沿って折れ曲がり、上へ続いている。
「よく見てたね」
リオは少し照れた顔をした。
「水路ばかり見てたら、見落としそうだったから」
俺も水路ばかり見ていた。
流れが見える分、そこだけ辿ればいいような気になっていた。
まずマレナが足場を確かめ、上がった先から灯りを下へ向けた。
「上に通路がある。ここを越えれば、立って歩ける」
荷物を一つずつ上へ渡す。
テッサは盾も先に預け、両手を空けてから階段へ足を置いた。
俺はその下で、リオから受け取った鞄を渡した。
「槌、ぶつけるなよ」
「ノルの槍も、さっき壁に当たりそうだった」
「見てたなら言ってくれ」
「当たる前に直したから」
彼女が上で笑った。
荷物を渡し終えると、俺も上がった。
踏む場所は狭かったが、段の奥へ足を置けば身体を持ち上げられた。勢いで次へ飛びつかず、一段ずつ重さを移す。
訓練で繰り返した足運びが、こういうところでも役に立った。
最後にリオが上がり、灯りの台を畳んだ。
全員が揃ったところで、俺たちは先を見た。
さっきの行き止まりの壁を、上から越えていた。
◇
通路の左側には、細長い隙間があった。
覗くと、下を水が流れている。
水路の上に、人が歩くための道を重ねていたらしい。ところどころに石の蓋があり、開いた場所から水音が上がってきた。
俺は一度、足を止めた。
靴底へ、ごく細かい震えが触れていた。
続いたと思うと、少し弱くなる。
下で水が石へ当たる音と、似た間隔だった。
「何か感じる?」
テッサに聞かれ、頷いた。
「下から。水の音と、一緒に強くなる気がする」
調査員が近くの隙間から灯りを向けた。
水路の途中に石が出っ張り、流れがそこへ当たっていた。向こうから来る水の量にも、わずかな波がある。
「床へ伝わっているのかもしれませんね」
俺は頷いた。
震えを感じても、すぐ魔物だとは思わなくなった。
ただ、何なのかを一つずつ確かめる必要があることは変わらない。
少し進んだところで、水路が二つに分かれた。
俺たちが来た方へ向かう細い流れと、壁の下へ消える太い流れ。
分かれ目には、石の溝へ差し込まれた板が残っていた。
板の高さを変えれば、水の分け方も変わりそうだった。
「堰板ですね」
調査員が膝をついた。
「下の小さい流れが、中庭へ向かっているのでしょう」
俺は食堂の裏で、水桶を傾けすぎて床を濡らしたことを思い出した。
多すぎれば溢れる。少なすぎれば、欲しいところまで届かない。
ここでは、それを石と板で調整していたらしい。
テッサが、壁へ消える方の水を見た。
「あっちは、どこへ行くんだろう」
誰も答えられなかった。
中庭に水を送るためだけなら、これほどの流れは要らない。
まだ、別の場所がある。
俺たちは水の来る方へ、さらに歩いた。
◇
上りになった通路は、途中から濡れていた。
左の水路から細い水が溢れ、低い側へ流れている。靴底で踏むと、石の表面が滑らかだった。
マレナは壁寄りの乾いた場所を選び、後ろへ位置を伝えた。
調査員が通るときは、リオが荷物の張り出した側を見た。テッサは盾を身体の近くに寄せ、振り向くたびに誰かへぶつけないようにした。
俺は後方へ位置を移し、最後尾の長槍の男へ足元の状態を伝えた。
広い場所で同じ並びを保つだけでは、六人で歩けない。
荷物を通す間だけ場所を譲り、次の踊り場で元へ戻る。
声をかけるたび、隊列が少しずつ形を変えた。
登り切ると、風が頬へ触れた。
水の匂いが強い。
それまで頭の上にあった天井が、急に遠くなった。
マレナが止まる。
その肩越しに、俺は広い水面を見た。
「……大きいな」
声が漏れた。
中庭の水盤とは比べものにならなかった。
石で囲われた四角い水槽が、広間の中に三つ並んでいる。
それぞれの高さが違い、上の水槽から細い水が落ちていた。水面には灯りが揺れ、天井を支える柱が途切れながら映っている。
壁際の岩には、あの大空洞で見たものと似た青い光が点々と残っていた。
俺たちの持つ灯りが届かないところでも、水の縁だけが淡く見える。
水槽の間には石の通路が渡されていた。
その向こうに、大きな扉があった。
◇
入口の足場は広かった。
俺たちはそこで止まり、灯りを置いた。
長槍の男が来た道を受け持ち、マレナは手前の通路を調べる。調査員は紙を広げ、見えている水槽から描き始めた。
リオが遠見筒を出した。
俺はその間、手前の水槽を見た。
水がない。
底には砂と白い筋が残り、壁の途中まで、以前の水位らしい跡がついていた。ほかの二つには水があるのに、ここだけ空だった。
「壊れてるのかな」
テッサが言った。
「止めてるだけかもしれない」
分かるのは、水が入っていないことだけだ。
水槽の底へ下りる階段も見えたが、今は上から眺めるだけにした。
調査員が顔を上げる。
「水を溜めて、各所へ分ける場所のようですね。中庭の流れも、ここから来ているのでしょう」
「全部、まだ使えるんですか」
「流れている部分はあります。ただ、元の状態とは限りません」
彼は空の水槽を指した。
その隣には、上げ下げするためのものらしい太い棒が壁へ沿って伸びている。先は高い位置の輪へ繋がっていた。
俺には、どれを動かせば何が起きるのか分からなかった。
ただ、中庭の細い水が、ずっと奥のこんな場所と繋がっていたことに驚いていた。
「ノル。扉」
リオが遠見筒を渡してくる。
「真ん中を見て」
筒を向け、輪を回した。
暗い金属の扉だった。
左右に分かれた板の中央に、大きな模様がある。
曲がった線。
その先に、三つの丸。
箱の蓋にあった印と、同じ形だった。
「また、あの印だ」
俺が言うと、調査員がこちらへ来た。
遠見筒を渡し、代わりに肉眼で扉を見る。
近くの柱と比べると、人が二人、肩車をしても上へ届かないだろう。扉の前には数段の階段があり、左右の壁には細長い窪みが並んでいた。
荷物をしまう小部屋の入口には見えない。
わざわざ、あんなに大きく作ってある。
その向こうに何を置くつもりだったのだろう。
「三つの丸って、この水槽?」
テッサが聞いた。
調査員は遠見筒を下ろした。
「似ていますね。ただ、箱にも使われていた印です。水槽そのものを描いたのか、同じ印を各所につけたのかは、まだ調べたいところです」
テッサは頷き、それから腰の槌を見た。
「こっちの持ち主も、あそこへ入ったのかな」
俺も扉へ目を戻した。
槌をしまった箱。
中庭の入口。
そして、水槽の向こうの扉。
離れた場所にあったものが、少しずつ繋がり始めていた。
◇
マレナが戻ってきた。
「左の壁沿いなら、扉の前まで通れそう。まず、途中の足場から見ていこう」
調査員が紙を畳み、リオが遠見筒を収めた。
俺は灯りを持ち上げる前に、もう一度広間を見渡した。
昨日、宿の卓上に置いた小石を思い出す。
中庭から伸びた、短い線の先。
あの空白には、こんな場所があった。
俺たちが歩いてきた通路の下を、水が流れていく。
中庭へ。
その先の、まだ知らない場所へ。
「帰り、間違えない?」
テッサが言った。
リオが入口の脇へ結んだ目印を示す。
「ここから入った。下りる途中の分かれ目も、印をつけたよ」
「じゃあ、行けるね」
彼女は盾を左腕へ寄せた。
右の腰には、あの箱から見つけた槌がある。
俺は短槍を持ち直し、二人と一緒にマレナの後ろへ続いた。
近づくにつれ、扉の模様が遠見筒なしでも見えてくる。
金属の表面に刻まれた線は、思ったより深かった。
中央の合わせ目は、閉じている。
その下から、ごく細い風が流れてきた。
俺は足を止め、顔を上げた。
水の匂いに混じって、乾いた空気が頬へ触れる。
向こうにも、空間がある。
テッサとリオも、同じ隙間を見ていた。
「この先だね」
リオが小さく言った。
俺は頷いた。
扉の向こうに何があるのか。
今度は、遠見筒でも見えなかった。




