第86話 その一撃を、三人で
新しい槌を持ったテッサは、道を歩きながら何度も右手の位置を変えていた。
腰へ吊るした柄に触れ、手を離す。それから盾の持ち手を確かめる。
「抜きやすい?」
リオが聞くと、彼女は頷いた。
「歩いてるときはね」
「走ってるときは?」
「昨日、試した。盾に引っかけた」
「大丈夫か、それ」
俺が言うと、テッサは腰の留め具を指した。
「だから、位置を変えたんでしょ」
稽古を始めてから、二日ほど同じ動きを繰り返した。
盾を構える。短く打つ。戻す。
当てることに気を取られて盾が下がる回数は減ったが、動く相手へ本物の槌を使うのは今日が初めてだった。
向かっているのは、ベルナの南にある果樹園だ。
外れの作業小屋に鎌脚グモが入り込み、収穫用の籠を取りに行けなくなったらしい。
これまでにも戦った相手だった。
前脚の鎌で盾の縁を引っかける。低い場所に糸を張る。見た目以上に素早く向きを変える。
知っていることは増えた。
だからといって、好きな相手になったわけではない。
「槌を使うために、無理に近づくなよ」
俺が言うと、テッサはこちらを見た。
「ノルも、石を回したいからって待たせないでよ」
「今日は、まず槍でいく」
「じゃあ、私も届いたら打つ」
そのくらいの約束にしておいた。
武器の試し打ちに来たわけではない。
籠を取りに入れるようにするのが、今日の仕事だった。
◇
作業小屋は、果樹の列から少し離れたところにあった。
壁の一部が板で継ぎ足され、戸口の前には空の木箱が重ねてある。小屋へ向かう道を、依頼主の男が棒で示した。
「あそこから先には行ってない。昨日の昼に、一匹だけ見た」
リオが少し離れた場所で立ち止まる。
「糸がある」
木箱と戸口の間に、細い線が渡っていた。
朝露が残った部分だけ、光って見える。さらに低いところにも一本あり、枯れ葉が不自然な高さで引っかかっていた。
以前なら、上の糸ばかり見て足を進めていたかもしれない。
リオは地面へ目を落としたまま、周囲を半周した。
「正面から出てこさせたい。こっちなら、糸のないところまで下がれる」
小屋の前には、荷物を広げるための踏み固められた場所があった。
そこから俺たちのいる道まで、邪魔になるものは少ない。片側には果樹が並んでいるが、もう片側は低い石積みまで開いていた。
俺たちは依頼主を離れた場所へ戻し、退く道を確かめた。
小屋の中を覗くと、籠の向こうに茶色い脚が見えた。
じっとしている。
だが、眠っていると決める理由はなかった。
「いる。戸口の右奥」
リオが囁いた。
テッサは盾を左腕へ通し、右手に槌を持った。俺は少し後ろ、その右側へ立つ。
リオはさらに後ろの左側から、弓を構えた。
「出すよ」
矢が飛び、戸口の内側の板へ刺さった。
乾いた音と同時に、籠が倒れた。
鎌脚グモが身を起こす。
曲がった二本の前脚が持ち上がり、その後ろの脚が床を掻いた。
「出てくる」
俺たちは決めていた場所まで下がった。
戸口から飛び出した鎌脚グモが、一度止まる。低い身体を左右に振り、こちらへ向き直った。
テッサの盾が、その正面を向いた。
◇
最初の鎌が盾へ触れる直前、テッサは端を少し引いた。
縁を差し出したままにしない。
前に引っかけられたときのことを、覚えている動きだった。
硬い先端が盾の面を擦る。
テッサが左足を置き直し、右手を出した。
槌が低く走る。
だが、鎌脚グモはもう脚を引いていた。
槌の頭が脚の先を掠め、土へ向かって流れた。
「下がる!」
テッサが声を上げた。
俺は前へ出て、迫るもう一本の鎌へ穂先を向けた。
鎌脚グモが踏み込みを止め、横へずれる。その間にテッサの槌が戻り、盾が正面を塞いだ。
「大丈夫?」
「平気。思ったより遠かった」
練習の的は逃げなかった。
目の前の相手は、盾へ触れたあとも動く。
それだけで、打てる時間がずいぶん短くなった。
鎌脚グモが右へ回ろうとした。
俺は追って突かず、穂先をその進路へ置いた。相手がさらに外へ動けば、俺も小さく足をずらす。
テッサは盾を向け直したが、槌を振らなかった。
さっき届かなかった距離を、今度は追わなかった。
弦が鳴る。
リオの矢が、鎌の後ろにある歩脚の一本へ刺さった。
鎌脚グモが身体を傾け、今度はテッサへ真っすぐ寄ってくる。
「近い!」
俺が言うより早く、彼女の左足が動いた。
盾を引きすぎず、鎌の先を面で外へ送る。
右手は高く上がらなかった。
腰の近くから短く振られた槌が、曲がった前脚の関節へ当たった。
鈍い音がした。
鎌が地面へ落ちる。
折れたのか、力が抜けただけなのかは分からない。それでも、さっきまで盾の縁を探っていた一本が、すぐには持ち上がらなくなった。
テッサはもう、槌を引き戻していた。
「当たった!」
声は弾んでいたが、盾は下がらなかった。
鎌脚グモの残った前脚が動く。
俺はその内側へ穂先を出した。
相手が頭を引き、刃が浅く擦れる。無理に追わずに槍を戻すと、鎌脚グモは俺の方へ身体を向けた。
テッサの前から、頭の位置がずれる。
俺はもう一度突けるように構えた。
そのとき、彼女の声がした。
「右から打つ!」
俺は穂先を引き、槌の通る場所を空けた。
テッサが半歩踏み込む。
上へ振りかぶらず、身体の向きを変える動きで槌を送った。
頭の側面へ、金属の面が当たる。
鎌脚グモが地面へ伏せた。
まだ脚が動いていた。テッサはすぐに距離を取り、盾を構え直す。
俺は立ち上がろうとする側へ槍を向けた。リオも次の矢をつがえている。
鎌脚グモは残った鎌を持ち上げかけたが、身体を支えきれなかった。
テッサが位置を変え、盾で前脚の動きを遮った。
短い一打が、もう一度入った。
脚の動きが弱くなる。
俺たちは構えを解かずに待ち、やがて動かなくなったのを確かめた。
テッサが長く息を吐いた。
「……戻せた」
最初に言ったのは、それだった。
◇
俺は周囲を見回した。
小屋の戸口。
木箱の陰。
果樹の根元。
別のものが動く気配はなかった。
リオと一緒に小屋の中を確かめてから、ようやくテッサへ向き直る。
彼女は槌を下げ、右手の指を少し開いていた。
「痺れる?」
俺が聞く。
「少し。でも、持ち直すほどじゃない」
頭の付け根にある銀の線を見てから、彼女は打撃面へ目を移した。
汚れがついていた。
武器屋で受け取ったときのように、きれいではない。
「最初、外した」
「脚の先には当たってた」
「狙ったところじゃなかったから、外したのと同じ」
テッサはそう言ったが、悔しそうなだけではなかった。
「でも、次は待てた」
俺は頷いた。
届かない距離を追わず、盾を戻した。
その間にリオが脚を狙い、近づいてきた相手を打った。
槌が強かったから、全部うまくいったわけではない。
最初に失敗したあと、同じことを繰り返さなかった。
「最後、槍を引いてくれたね」
「右から打つって言っただろ」
「うん」
彼女が笑った。
以前、俺たちは盾と短剣をぶつけないよう、何度も声をかけて練習した。
今日は俺が、テッサの武器のために場所を空けた。
それが少し嬉しかった。
リオが近づいてくる。
「槌、ちゃんと戻ってたよ」
「見てた?」
「見てた。だから、次の矢は待てた」
「撃てたなら、撃ってよ」
「テッサの腕が通るところだったから。起きたら、その横から撃つつもりだった」
テッサは自分の右側を見た。
俺も、リオが立っていた場所を振り返った。
それぞれが見ていたものを話すと、さっきの戦いが、戦っていたときより少し分かる。
テッサは槌を持ち直した。
「じゃあ、三人で倒したね」
「ああ」
俺は頷いた。
最後の一撃を誰が入れたのかは、ちゃんと覚えておこうと思った。
◇
小屋へ戻ると、倒れた籠の一つが戸口を塞いでいた。
俺が持ち上げ、テッサが下に絡んだ糸を切る。リオは残った糸の位置を確かめ、依頼主へ見えるよう示した。
巣の処理と報告に必要な作業を終えてから、男を呼んだ。
男は入口で足元を確かめ、籠を一つずつ外へ出し始めた。
「助かった。こいつがないと、実を取っても運べんからな」
俺たちも手伝った。
魔物と戦ったあとは、また荷運びだった。
ただ、今日はテッサが槌を地面へ置くたび、こちらへ刃のない頭を向けているのが気になった。
「そんなに見る?」
彼女に聞かれ、顔を上げる。
「使うところ、初めて見たから」
「私も初めて使った」
「そうだな」
男が笑い、籠を受け取った。
「初仕事なら、よく働いたな。その槌も」
テッサは少し照れた顔をして、柄を拾い上げた。
「はい」
返事は、いつもより小さかった。
帰り際、男は傷のある果物を三つ持たせてくれた。
売り物にはしにくいが、食べるには問題ないという。
門を出て少し歩いたところで、テッサが一つ齧った。
「どう?」
リオが聞く。
「おいしい」
俺も齧った。
少し酸っぱかったが、歩いたあとの口にはちょうどよかった。
テッサはもう一口食べてから、腰の槌を見た。
「これで稼いだ」
「報酬は、まだ受け取ってないぞ」
「こっちは、もう受け取った」
手に持った果物を上げる。
俺も同じものを持っていたので、反論できなかった。
◇
ギルドでは依頼の完了を報告し、持ち帰った素材と魔石をまとめて売った。
槌を買うために減った金が、一度で戻るわけではない。
それでもテッサは、受け取った硬貨を数えたあと、しばらく掌に載せていた。
「どうした?」
「次の手入れ代は、ここから出す」
そう言って、何枚かを別にした。
俺も短剣を初めて研ぎに出したころよりは、同じことができるようになっていた。
武器で稼いだ金の一部は、また武器へ戻る。
それで次も使えるなら、悪い使い道ではない。
受付を離れようとすると、職員に呼び止められた。
マレナから、次の調査について伝言が届いていた。
出発は明後日。
前回と同じ六人で中庭へ戻り、水路沿いに進める道を探す。明日は装備を整え、午後に詳しい打ち合わせをするという。
俺たちは紙を見比べた。
「行けそう?」
リオがテッサへ聞く。
彼女は右腕をゆっくり曲げ、盾を持つ左手も握り直した。
「明日の腕次第。でも、行きたい」
「俺も」
返事をしてから、俺は紙に描かれた中庭を見た。
水の来る方へ、短い線が伸びている。
その先は、まだ何も書かれていなかった。
◇
宿へ戻ると、まず道具の手入れをした。
短槍を拭き、穂先と柄を確かめる。リオは矢を並べ、使えるものと直すものを分けていた。
テッサは槌の頭を丁寧に拭いた。
銀の線の近くでは布を折り直し、汚れが残っていないか灯りへ向ける。
済ませてから、乾いた布の上へ置いた。
新しい傷はあった。
それでも、柄に緩みはないらしい。
「明日、店でも見てもらう」
「そのあと練習?」
「少しだけ。最初の一回、まだ気になる」
テッサは指で小さく槌の動きをなぞった。
「手を出すのが早かったんだよね。近づくと思って振ったら、向こうが引いた」
「こっちの槍でもある」
「弓も。動く前に決めて放すと、違う方へ行くことがある」
リオが矢を鞘へ戻しながら言った。
武器が違っても、困るところには似たものがあるらしい。
手入れが終わった卓上へ、次の調査の見取り図を広げた。
中庭の丸い水盤。
橋へ戻る道。
崩れて通れない正面の通路。
俺たちは小石を置き、前回歩いた場所を辿った。
「ここは、一人ずつだったね」
リオが柱の間を指す。
「盾を横にしたところか」
「うん。前にノルが出るなら、テッサが少し引かないと通れない」
テッサが自分の位置を示す石を動かした。
「今度、すぐ近くまで来られたら、私が打つ。そのあとノルが出るなら、右を空ける」
「相手が離れたら?」
「追わないで、ノルに任せる」
「じゃあ、俺はその後ろから見られる場所にする」
リオの石も動いた。
今日の戦いで分かったことが、まだ見ていない道へ持っていける。
俺は卓上の槌を見た。
迷宮から持ち帰ったときには、何ができる武器なのか分からなかった。
今は、一つ知っている。
テッサが盾を構えたまま、近づいた相手を打てる。
それだけで、俺たちの並び方が変わった。
「ねえ」
テッサが図の空白を指した。
「この先にも、部屋あるかな」
「水路だけかもしれないぞ」
「水路の横に部屋があってもいいでしょ」
リオが笑う。
「また箱を探してる?」
「探してる」
今度は隠さなかった。
「次は、二人が欲しくなるものも入ってたらいいね」
俺は短槍を置いた壁際を見た。
欲しいものは、まだいろいろある。
ただ、今日テッサが槌を当て、こちらへ笑った顔も、思っていた以上に嬉しかった。
「そのためにも、先へ行けるようにしないとな」
俺が言うと、二人が頷いた。
水盤の先へ、小石を一つ置く。
まだ道があるかも分からない場所だった。
明後日には、その石をもっと先へ動かせるかもしれない。
テッサは卓上の槌を見てから、もう一度、図へ目を戻した。




