第85話 振ったあとに、戻る場所
「打ったあと、手が痺れにくい」
鑑定師の説明を聞いて、テッサは机の上の槌を見た。
「それが、銀の線の効果?」
「そうです。頭から柄へ伝わる細かな震えを抑えています。完全になくなるわけではありませんが、繰り返し使うと違いが出るでしょう」
風の迷宮から帰った翌日。
俺たちはベルナのギルドで、持ち帰った片手槌の鑑定結果を聞いていた。
布の上に置かれた槌は、表面の汚れを落とされ、昨日より輪郭がはっきりしていた。六角形に近い頭の付け根を、細い銀の線が巡っている。
「威力が増えるとかではないんですね」
俺が聞くと、鑑定師は頷いた。
「重くなる付与でも、腕力を補う付与でもありません。打撃のあとに残る震えを和らげるものです。振り回した槌を勝手に止めてくれたりもしませんよ」
テッサが右手を軽く握った。
「戻しやすくなる?」
「手の痺れが邪魔していたなら。ただ、振り方の失敗までは直せません」
「分かった」
残念そうではなかった。
むしろ、さっきより槌をよく見ている。
「区分は良級です。打撃面と柄の状態も、手を入れれば十分使えます。古い巻き革は交換を勧めますが」
良級。
俺の短槍と同じ区分だった。
希少級のような驚く値段でなければいいと思ったところで、鑑定師が評価額を書いた紙を裏返した。
テッサの視線が止まる。
俺も数字を見た。
安くはなかった。
ただ、届かないほど遠い値段でもなかった。
テッサは財布を出す前に、隣にいたマレナへ向き直った。
「これ、私が受け取りたい」
迷宮の中で握ってみたいと言ったときより、声がはっきりしていた。
◇
分配の相談は、思っていたより短く済んだ。
ほかに槌を希望する者はいなかった。評価額からテッサ自身の取り分を差し引き、残りをほかの五人へ払う。
今回の依頼報酬も充てることにしたが、それだけでは足りなかった。
テッサは別に残していた硬貨を出し、机へ並べた。
俺とリオの取り分も、その中に含まれている。
「俺たちの分は、あとでもいいぞ」
そう言うと、テッサは首を振った。
「払える。修理代と、しばらくのご飯代も残る」
硬貨をもう一度数え、それから俺を見る。
「それに、二人も欲しいものあるでしょ」
俺は返事に詰まった。
ある。
武器も、防具も、覚えたいことも。まだ、いくら金があっても足りない。
リオも小さく頷き、自分の分を受け取った。
「じゃあ、今度はその槌で稼いでもらおう」
「うん」
テッサが笑った。
手続きを終えると、マレナが槌の包みを彼女の前へ押した。
「これで、あなたのものね」
テッサは包みを持ち上げた。
迷宮から運んできたときと、同じ重さのはずだった。
それでも、腕に収まったものを見る顔が違っていた。
「……買った」
「そうだな」
「盾以外で、こんなに払ったの初めてかも」
「後悔してる?」
「してない」
今度の返事は早かった。
◇
武器屋では、槌の巻き革を替えてもらった。
頭と柄の固定を確かめ、浮いた汚れを落とし、銀の線を傷つけないよう手入れの方法も教わる。細い線のところを勝手に削ったり、硬い金具でこすったりするなと言われた。
テッサは、いつもより質問が多かった。
濡れたらどうするか。
柄が傷んだら交換できるか。
腰へ吊るすなら、どちらを向けるか。
俺とリオは棚を眺めながら待っていたが、二人とも何度か値札を見てしまった。
仲間が武器を買うと、自分の欲しいものまで増えるらしい。
作業が終わると、店主は裏の試し打ち用の台へ案内してくれた。
木台に、厚い革を重ねた的が据えつけてある。
テッサはまず、店の普通の片手槌を借りた。同じくらいの重さだが、頭の形は少し違う。
軽く打つ。
鈍い音がして、彼女が指を握り直した。
次に、自分の槌で同じ場所を打った。
「どう?」
リオが聞く。
テッサはすぐには答えず、右手を見た。
「当たった感じはある。でも、そのあとが短い」
「そのあと?」
「手の中に、ぶるぶる残るやつ」
俺も使わせてもらった。
同じ力で打てたかは分からない。ただ、柄を通して指へ残る細かな震えは、確かに違った。
派手な光も、風も出ない。
打った場所が大きく砕けるわけでもない。
それでも、もう一度握り直すときに、手の感覚が戻りやすかった。
「これなら、打ったあとも持っていられる」
テッサが言った。
店主は槌を受け取り、打撃面を拭いた。
「持っていられるのと、構えを戻せるのは別だぞ。強く振るほど、そっちは自分で覚えないとな」
「練習する」
「なら、最初は欲張らんことだ」
テッサは頷いた。
その日は槌を腰へ吊るし、棍棒は鞄へ収めた。捨てるつもりはないらしい。
「軽い方がいい仕事もあるかもしれないし」
そう言って、棍棒の柄を布から出しておいた。
新しい武器を手に入れても、古いものが急に役立たずになるわけではない。
俺の短剣と同じだった。
◇
翌日の稽古は、最初の一回で止まった。
「そこ、空いてる」
俺が練習用の木槍を差し出すと、テッサは振り下ろしかけた練習用の槌を止めた。
盾の上から、顔が出ている。
「見ないと当たらないんだもん」
「見ようとして、盾が下がってる」
横から見ていたリオが言った。
「あと、右手を上げるときに、身体もそっちを向いてる」
テッサは槌を下ろした。
布を巻いた木の頭が、腿へ軽く当たる。練習用でも、普段の棍棒より大きかった。
「じゃあ、もう一回」
今度は盾を上げたまま振ろうとした。
槌が盾の縁へ当たり、乾いた音がした。
俺たちは三人とも黙った。
「……盾は、叩けたね」
リオが言った。
「敵の方を叩きたい」
テッサの返事は真剣だった。
その日はギルドの武器稽古にも参加し、担当の教官に動きを見てもらった。
教官は大きく振らせず、まず右脇の近くで槌を持たせた。
「近くへ入ってきた相手を打つなら、頭の上まで持ち上げる必要はない。大きく振るほど強くなるが、その間は何も打てんぞ」
盾を少し斜めにし、右側に手の通り道を作る。
そのまま腰を動かし、短く打つ。
狙いは、膝ほどの高さに吊るされた藁の束だった。
最初の一打は、端を撫でただけだった。
「腕だけで届かせようとするな。足も使え。ただし、盾から身体を出しすぎるなよ」
足を置き直す。
打つ。
今度は当たったが、右手が下へ流れた。
戻す前に、教官の棒がテッサの肩の前で止まった。
「一回打って終わる相手なら、それでもいい」
「終わらなかったら?」
「今の場所へ、次が来る」
テッサは棒の先を見てから、ゆっくり構え直した。
俺も短槍を買ったころ、何度も戻る場所を直された。
新しい武器を覚えるのは、当て方だけでは済まない。
それでも、テッサは槌を置こうとはしなかった。
◇
稽古が終わってからも、俺たちは訓練場の端を借りた。
今度は、俺の木槍を盾で逸らすところから始める。
テッサは《盾受け流し》の動きで穂先を外へ送った。そのあと、右手の槌を打ち込む真似をする。
だが、盾を大きく動かしすぎると、槌を出すまでに俺が離れられた。
「待って、遠い」
「敵は待たないだろ」
「今はノルでしょ」
「それはそうだけど」
もう一度。
今度は逸らしたあと、テッサが追ってきた。
俺が木槍を引くと、彼女の前足が止まる。半歩戻ろうとして、身体が揺れた。
リオが手を上げた。
「打つ方へ行くって、先に決めすぎてない?」
テッサが顔を向ける。
「遠かったら、打たないのもありでしょ。ノルの槍は届くんだから」
俺は頷いた。
「近くに残った相手はテッサ。離れたら、俺が出る」
「じゃあ、毎回は追わなくていい?」
「その方が、俺も出やすい」
テッサは少し考え、それからもう一度盾を構えた。
俺が木槍を出す。
盾が傾き、穂先が横へ流れる。
俺はすぐに一歩退いた。
テッサは追わなかった。右手を身体の近くへ残したまま、盾の向きだけを戻す。
次は、俺がその場に残った。
練習用の槌が、俺の前脚へ向かって短く動いた。触れる手前で止まり、すぐに引き戻される。
さっきまでより、動きが小さかった。
「今の、嫌だった」
俺が言うと、テッサは顔を上げた。
「昨日も言った」
「昨日より嫌だった」
彼女は嬉しそうに笑った。
リオも、横から見ていた位置を変える。
「そのあと、盾を戻す方を教えて。矢を出せる側を見たい」
テッサが動きをゆっくり繰り返した。
俺は穂先を出す場所を探し、リオは少し離れて射線を確かめる。
槌が一本増えただけで、三人の立つ場所まで変わっていく。
何度か失敗したが、前より窮屈になったわけではなかった。
近くの相手を、テッサが自分で打てる。
その分、俺は別の一歩を選べる。
リオも、盾の横から出てくる俺だけを待たなくていい。
使い慣れれば、もっと変わるのだろう。
◇
休憩の間に、マレナが訓練場へ顔を出した。
テッサの新しい巻き革を見て、口元を緩める。
「もう始めたんだ」
「まだ、自分の盾の方がよく当たる」
「盾が壊れる前に覚えてね」
「覚える」
マレナは笑い、持ってきた紙を広げた。
中庭の入口にあった模様だった。
汚れを落とした部分を書き写したところ、箱の蓋と同じ形が確認できたらしい。
曲がった線と、三つの小さな丸。
「道の印ですか?」
俺が聞く。
「まだ分からない。ただ、調査員が気にしてる。水路沿いにも、削れた似た印があったそうよ」
リオが紙へ身を寄せた。
「水が来ていた方?」
「そう。次は、そちらへ回れるか調べるつもり。日程はまだ決めてないけど」
中庭の水は、どこかから流れてきていた。
その先にも、部屋や通路があるかもしれない。
俺は図の端に描かれた細い水路を見た。
「準備しておきます」
「無理に急がなくていい。新しい武器は、振って戻せるようになってからね」
テッサの方を見て、マレナが言った。
彼女は槌の柄を握り直した。
「次に行くときには、持っていきたい」
「なら、そのつもりで練習しよう」
◇
最後に、実際の槌で据えつけた的を打った。
俺とリオは、十分に離れて見る。
テッサの前には、藁を巻いた太い杭がある。膝の高さに、狙う場所が印されていた。
彼女は盾を構えた。
左足を置き、腰を少し落とす。
右手の槌は、頭の上へ持ち上げなかった。
盾の横から短く動き、鈍い音がした。
藁が潰れる。
テッサの右手が、一度下へ流れかけた。
そこで足を踏み直し、槌を右脇へ戻す。盾は正面を向いたままだった。
まだ、滑らかとは言えない。
けれど、打ったあとに顔も胸も空いていなかった。
「戻った」
リオが言った。
テッサは槌を持ったまま、俺を見る。
「どう?」
俺は木槍を持ち上げかけ、もう終わった稽古だと思い直して下ろした。
「さっきみたいには、出せなかったと思う」
「本当に?」
「ああ」
テッサが、的へ顔を向ける。
藁の隙間から見える木に、小さなへこみができていた。
手の痺れが少ない分、打ったあとも柄の位置を確かめられるのだという。それでも、戻すためには自分の足と腕を使わなければならない。
今日、彼女はその最初の一回を形にした。
「もう一回やる?」
俺が聞くと、テッサは右手を開いて閉じた。
それから首を振る。
「今日はここまで。今のを覚えて帰る」
「いいのか?」
「明日も使いたいから」
槌を腰へ吊るし、盾の留め具を確かめる。
その姿は、朝とほとんど変わらなかった。
だが、盾の横に下がった小さな槌を見ると、俺はもう、ただ重そうだとは思わなかった。
あれが敵の脚へ届いたあと、自分はどこへ槍を出せるだろう。
先にそんなことを考えていた。
「次、私が打って止めたら」
テッサが歩き出しながら言う。
「二人とも、ちゃんと見ててよ」
「見てる」
リオと返事が重なった。
テッサは振り返り、笑った。
その右手が、一度だけ腰の槌へ触れた。




