第84話 盾の隣に欲しいもの
中庭の水は、よくできた溝を通って流れていた。
丸い水盤から溢れた分だけが、石敷きの端へ抜けていく。葉や砂の溜まったところでは細くなっているが、人が歩く場所まで濡らしてはいなかった。
俺は水の流れを目で追い、壁際の石台へ視線を移した。
「ここで飯を食ったら、気持ちよさそうだな」
「先に飲める水か調べたい」
テッサが水盤を覗く。
「飲むつもりだったのか?」
「飲めるなら、帰りの分を減らさずに済むでしょ」
「調べるまでは、水筒の方を使ってね」
近くで記録を取っていた調査員に言われ、テッサは素直に頷いた。
リオは、石台の下を照らしていた。
「何かある」
灯りの先に、白い欠片が見えた。
調査員が刷毛で砂を払うと、欠片には緩やかな丸みがあった。縁の部分だけ、青い線が残っている。
「器ですね。こちらは取っ手かな」
隣にあった小さな輪の半分を指す。
椀と、杯だったのかもしれない。
俺は石台を見直した。
誰かがここへ腰を下ろし、水を飲んだ。食べ物を置いて、隣の誰かと話した。
そう考えると、この場所が急に身近になった。
「やっぱり、飯を食う場所だったんじゃない?」
テッサが言った。
「それだけで決めるのは早いけどな」
「ノルが言ったんでしょ」
「言ったけど」
調査員は笑いながら、器の見つかった位置を書き込んだ。
俺たちの少し先では、マレナと長槍の男が、中庭の奥へ続くアーチを確かめていた。
その向こうには短い廊下があり、左右に部屋が一つずつあるらしい。
「奥は落石で塞がってる。今日は手前の二部屋まで見よう」
マレナが戻ってきて言った。
「左は棚が多い。右には長い台がある。床を確かめたところから入って」
俺たちは荷物を持ち直した。
中庭の景色だけでも、来た甲斐はあった。
それでも、部屋があると言われれば中を見たくなる。
まだ誰も、何が残っているか知らないのだから。
◇
左の部屋には、壁をくり抜いた棚が並んでいた。
低い棚には割れた器があり、奥の床には、木の箱だったらしいものが潰れている。触れたら形がなくなりそうで、俺は足を置く場所を選んだ。
リオが灯りを高くする。
壁の隅に、煤のような黒い跡が残っていた。
「灯りを置いてたのかな」
「その下にも台があるな」
腰ほどの高さの石台には、丸い染みがいくつかあった。棚の縁には同じところを何度も擦ったようなへこみがある。
どういう順番で道具を置いていたのか、少し想像できた。
食堂の厨房にも、ガルドが必ず同じ鍋を置く場所があった。誰かが違うものを置くと、手を伸ばしたまま怒る。
この台を使っていた人も、そんなふうに場所を決めていたのだろうか。
「何か分かった?」
テッサに聞かれ、俺は首を振った。
「ここにも、片づけにうるさい人がいたかもしれない」
「それは分からないね」
自分でもそう思った。
右の部屋には、もっと長い石台があった。
壁には金属の鉤が等間隔に残り、床の隅に、朽ちた棒や留め具が落ちている。長槍の男が一つを指した。
「柄を立てて置いてたのかもしれん。下にも窪みがある」
壁際の床には、確かに丸い浅い穴が並んでいた。
箒なのか、槍なのか。
それだけでは分からなかったが、テッサは少し興味が出たらしい。自分の棍棒の柄と、床の窪みを見比べている。
その間に、リオが石台の下へ灯りを向けた。
「あそこ、緑色の角が見える」
奥の壁に、小さな収納の窪みがあった。
崩れた板が斜めに被さっている。その陰から、金属の角が覗いていた。
マレナが近づき、周囲と板の掛かり方を確かめた。
「台を支えている板じゃないね。手前から少しずつ退けよう」
俺とテッサで、指示された板を持ち上げた。
途中で端が崩れ、細かな木屑が落ちる。リオが灯りをずらすと、奥に置かれたものの全体が見えた。
両手で抱えられるくらいの、金属の箱だった。
表面には緑色の錆が浮き、蓋の中央に、枝を曲げたような模様がある。
俺はテッサを見た。
テッサも、俺を見ていた。
「箱だ」
「見れば分かる」
「まだ中身を見てないから、宝箱とは言ってないよ」
そう言いながら、もう笑っている。
俺も、同じ顔をしていたと思う。
◇
箱は、床より一段高い石棚に置かれていた。
マレナが外側と留め具を調べてから、俺たちを少し離れさせた。蓋を押さえているのは錠ではなく、細い針金と、固まった封蝋のようなものだった。
調査員が模様を写し取る。
それから針金が外された。
蓋はすぐには開かなかった。
マレナが端を少しずつ持ち上げると、貼りついていた何かが剥がれる音がした。
俺は、思わず背伸びをした。
「見える?」
テッサが聞く。
「布」
「その下」
「まだ布」
マレナがこちらを見て笑った。
「順番にね」
箱の中には、黄ばんだ布に包まれた細長いものがあった。
布の端は崩れていたが、何重にも巻かれた内側には形が残っている。開くたびに、黒っぽい柄が少しずつ現れた。
最後に出てきたのは、小さな槌だった。
柄は肘から手の先ほどの長さ。
頭は六角形に近く、両側に平らな打撃面がある。石工の大槌よりずっと小さく、作業用の金槌より頭が厚い。
柄と頭をつなぐ部分には、細い銀色の線が巡っていた。
飾りにしては細かく、文字にしては読みづらい。
「片手槌だね」
マレナが言った。
テッサが、一歩だけ近づいた。
「武器?」
「この形なら、戦うために作ったものだと思う」
マレナは柄を確かめ、頭の付け根を調べた。
表面に小さな傷はある。それでも、箱の外側ほど傷んではいなかった。
煤けた灯りの下で、打撃面の縁が鈍く光る。
剣のように長い刃があるわけでも、槍のように遠くへ届くわけでもない。
なのに、手に取ってみたくなる形だった。
「良級ですか?」
俺が聞くと、マレナは銀の線へ目を落とした。
「作りはよさそう。ただ、区分は鑑定してから。この線も気になる」
「付与?」
「そうかもしれない。装飾だけということもあるから、まだ期待しすぎないように」
言われて、かえって期待した。
ただの武器なのか。
何かできる武器なのか。
箱を開けても、分からない楽しみが残っていた。
テッサは何も聞かなかった。
目だけで、マレナの手にある槌を追っていた。
◇
箱の残りには、替えの留め具らしい金属片と、崩れた革紐が入っていた。
発見した場所と中身を記録し、いったん中庭へ運ぶ。部屋の奥を調べる人と、出入口を見る人を残して、俺たちは石台の上に布を広げた。
マレナが槌を置くと、テッサが口を開いた。
「握ってもいい?」
「振り回さないなら。柄が保っているかは見たけど、実際に使う前には店で調べてもらおう」
テッサは右手で柄を取った。
頭を左手で支え、ゆっくり重さを確かめる。それから左手を離し、先端を少しだけ持ち上げた。
「……重い」
「今の棍棒より?」
俺が聞く。
「先が重い。持てないほどじゃないけど、止めるところが違いそう」
槍を買う前、《鉄輪》で斧を持ったときのことを思い出した。
持ち上げられることと、狙ったところで止められることは違う。
テッサも、もうそれを知っていた。
「硬いところを叩くなら、こっちの方がよさそうだね」
リオが槌の頭を見た。
長槍の男が、部屋から戻ってきたところで頷いた。
「刃が滑る相手には使い道がある。ただ、甲羅なら何でも割れると思うなよ。相手がでかけりゃ、その小さい頭じゃ足りん」
「足とか、関節なら?」
「当てられればな」
テッサは柄を握り直した。
その目が、槌から自分の盾へ移る。
「ノル、ちょっと立って」
「俺を叩くなよ」
「叩かない。そこにいて」
テッサは槌を石台へ戻し、代わりに自分の棍棒を抜いた。
盾を左腕へ通して、俺に向ける。
「敵が、ここまで来たとするでしょ」
俺は言われた場所に立ち、盾の縁を見た。
テッサが盾を少し傾ける。俺が横へずれたところで、彼女の右手が動いた。
棍棒は振り下ろされず、俺の膝より手前で止まった。
「こんなふうに、下を狙えたら」
俺は自分の膝を見た。
盾ばかり見ていたせいで、右手の動きに気づくのが遅れた。
「嫌だな、それ」
「褒めてる?」
「敵なら、かなり嫌だ」
テッサが笑った。
マレナは、その足元を指した。
「今のは、盾を動かしたあとに足が残ってる。槌で強く打とうとすると、身体が前へ流れるかもね」
テッサがもう一度構える。
今度は、盾を傾ける動きに合わせて足を少し開いた。
棍棒を出して、戻す。
「こっちの方が戻りやすい」
「盾を使いながら右手も動かすなら、その戻るところまで練習するといい」
新しい技能を使えたわけではない。
持ってきた棍棒で、足の位置を変えただけだった。
それでも、テッサの顔はさっきより真剣だった。
槌の使い方を、もう考えている。
俺が初めて短槍を握ったときも、こんな顔をしていたのだろうか。
◇
休憩の間、調査員が描いていた中庭の図を見せてもらった。
水盤と長い石台。
器のあった部屋と、道具を置いていたらしい部屋。
中庭を挟む二つの通路。
「休憩所でしょうか」
俺が聞くと、調査員は紙を見ながら答えた。
「橋を行き来する人が使う場所だった、という考え方はできますね。水があり、座れる場所もあり、道具を収める部屋もある」
「誰が作ったんでしょう」
「それが分かれば、この辺りの調査も進みます」
彼は、箱の蓋から写した模様を指した。
枝だと思っていた線には、小さな丸が三つついている。
中庭の入口にも似た模様があったという。ただ、同じものかは、汚れを落として確かめる必要があるらしい。
俺は水盤の向こうを見た。
通り道に水を引いて、座る場所を作り、器を揃える。
そこまでして使っていた場所が、今は名前すら分からない。
箱に武器をしまった人は、また取りに来るつもりだったのだろうか。
テッサの声で、考えが途切れた。
「ねえ、これ、分配のときに相談してもいい?」
膝の上にある槌を見ていた。
マレナが頷く。
「もちろん。まず持ち帰って調べよう。使える品なら、希望も聞く」
「すごく高かったら?」
「そのときは、そのときに考えよう」
テッサは少し困った顔をした。
俺には、その顔にも覚えがあった。
気に入ったあとで値段を聞くのは、なかなかつらい。
「欲しいのか」
俺が聞くと、彼女は槌を見たまま頷いた。
「うん」
いつものように、売れるかどうかは聞かなかった。
「盾で止めて、ノルかリオに倒してもらうのは、今までもやってきたでしょ」
「ああ」
「それでいいときは、そうする。でも、二人が別の相手を見てるときもあるから」
彼女は自分の右手を開き、もう一度柄を握った。
「私が倒せるなら、その方が二人も動けるじゃん」
俺は、すぐには返事ができなかった。
テッサの盾があれば、槍を出せる。
石弾の準備をするときも、前を任せられる。
俺は、そんなふうに考えていた。
テッサは、その先を考えていたらしい。
「じゃあ、練習相手は俺がやる」
そう言うと、彼女が顔を上げた。
「本物で?」
「木のやつで頼む」
「分かった。怪我すると、稼ぎが減るしね」
いつもの調子に戻った。
リオが布を広げながら言った。
「槌で足を止められたら、こっちからも狙いやすい」
「じゃあ、ノルは?」
「俺も刺しやすい」
「二人とも、結局そこなんだ」
三人で笑った。
けれど、今度は俺たちがテッサの作った機会を待つだけではない。
テッサ自身が、倒しにいける。
同じ三人でも、戦い方はまだ増やせそうだった。
◇
その日の調査は、中庭を区切りに終えることになった。
落石の先へ進むには、別の道を探すか、崩れ方を詳しく調べる必要がある。今日歩いた通路と二つの部屋を地図へ加え、持ち帰る品をまとめた。
テッサは石台に座り、槌を布へ包んでいた。
頭の部分を先にくるみ、柄を折り返す。途中で一度開き直し、金属の角が鞄に当たらないよう布を重ねた。
「まだ、自分のものじゃないぞ」
俺が言うと、彼女は顔を上げた。
「知ってる。だから、傷つけないようにしてるんでしょ」
「そうだな」
リオが残りの布を渡す。
テッサはそれを受け取ったが、すぐには包まなかった。
もう一度だけ、槌を持ち上げる。
水盤から返った灯りが、頭の付け根にある銀の線をなぞった。ほんの一瞬、線がつながって見えた。
ただの反射かもしれない。
それでも、三人ともそこを見た。
「何ができるんだろうね」
リオが言う。
テッサは槌を少し傾けた。
「何もなくても、使ってみたい」
その返事を聞いて、俺は笑った。
良級の短槍を初めて握ったとき、俺も付与のことなんて考えていなかった。
持ちやすくて、練習したくなった。
それだけで、次の日から働く理由が一つ増えた。
テッサは今、同じように何かを見つけたのかもしれない。
盾を背負い直し、包んだ槌を荷物へ収める。運搬を任された鞄は、来たときより重くなっていた。
「帰ったら、まず鑑定だね」
「ああ」
「そのあと、値段」
「そこは聞かないと駄目だな」
テッサは少しだけ唇を尖らせ、それから笑った。
「安いといいな」
俺は短槍を持ち直した。
橋の向こうへ来て、景色と道具を見つけた。
帰り道には、テッサの欲しいものも増えていた。




