第83話 向こう岸から見えるもの
橋の真ん中で、俺は自分の靴ばかり見ていた。
石の継ぎ目を踏み越え、次の一歩を置く。横から風が吹くたび、左手で握っている案内縄がわずかに震えた。
遠くから見たときには、十分な幅があると思った。
実際、すれ違うこともできる。
ただし、両側の下に底の見えない暗がりがあると、その幅について別の意見が出てくる。
「ノル、背中が丸い」
後ろからテッサに言われた。
「下を見ないようにしてる」
「今、ずっと下見てるよ」
「足元と、その下は違うだろ」
笑い声が聞こえた。少しだけ顔を上げると、前を歩くリオの肩も揺れていた。
その向こうに、目指していた石のアーチがある。
遠見筒の中では小さかった柱が、今は俺たちよりずっと高く伸びていた。
◇
ギルドで説明を受けた翌朝、俺たちは再び風の迷宮へ入った。
顔ぶれは前回と同じ六人だった。
マレナと長槍の男が先頭に立ち、調査員を挟んで俺たちが続く。今回は橋の向こう側を調べるため、縄や杭に加え、目印に使う布も用意していた。
橋の手前で、リオが遠見筒を取り出した。
「右の欄干、真ん中を過ぎた辺りが欠けてる。前に見たときと同じ」
調査員が記録と照らし合わせる。
望遠鏡だけで足元まで確かめられるわけではない。それでも、近づく前から避ける場所が分かるのは助かった。
マレナたちは荷物を減らして橋面を確かめ、向こう岸まで通った。そのあとで、間隔を空けて渡ることになった。
先に張ってもらった縄に手を添え、俺たちも進んだ。
橋の中央を越えると、水音の聞こえ方が変わった。
右側の高い場所から落ちる水が、岩の張り出しに隠れて見えなくなる。代わりに、向こう岸の柱の間から、風の低い音が聞こえてきた。
リオが足を止めずに言った。
「あと少し」
その言葉通り、十数歩で靴の下が広くなった。
橋を渡り切ったところには、荷車を回せそうな石敷きの場所があった。柱が風を遮り、服を押される感覚が弱まる。
俺は縄から手を離した。
「着いた」
「まだ入口だよ」
テッサが言う。
「分かってる。でも、着いた」
彼女も橋を振り返り、少し笑った。
「うん。着いたね」
向こう岸から見えていた太い柱は、近くで見ると二本に分かれていた。その隙間の左側に、細い道が続いている。
遠見筒でリオが見つけた道だった。
正面の大きなアーチへ向かう道には、天井から落ちたらしい石が重なっている。左なら、その脇を抜けられそうだった。
マレナが俺たちを呼んだ。
「まず、この広場を拠点にする。私たちは正面の崩れ方を見る。あなたたちは左の通路を、二つ目の柱まで確かめて」
リオが灯りを向ける。
二つ目の柱は、ここからでも見えた。その先で道が曲がり、壁に隠れている。
「曲がり角の先は、戻って相談ですね」
「そう。通れる幅と、何か潜んでいないかを見たい」
俺たちは頷いた。
前を歩く人の後ろについていくばかりではない。
自分たちが見たものを、あとから来る人へ伝える番だった。
◇
左の通路は、片側が岩壁、反対側が柱と低い石の壁になっていた。
足元には白い砂が薄く溜まっている。橋ほど風は強くないが、柱の間では細かく向きが変わった。
テッサが前へ出て、俺はその右後ろにつく。リオは灯りで床と壁の窪みを順に照らした。
一つ目の柱を過ぎたところで、リオが止まった。
「前。低いところ」
二つ目の柱の根元に、灰色のものが見えた。
最初は、床に落ちた石の塊だと思った。
だが、細い尾が壁際へ伸びている。頭の下には、皮のたるんだ袋のような部分があった。
風吐きトカゲだった。
腹を床につけ、頭を横へ向けている。こちらに気づいているのか、動かなかった。
俺たちは一つ目の柱の陰まで戻った。
「一匹。ほかは、今見えるところにはいない」
リオが小声で言った。
俺は広場へ合図し、マレナに状況を伝えた。彼女は通路の幅と俺たちの位置を見てから、頷いた。
「対処できそう?」
「この柱を使えば。退くときは、ここから広場へ戻ります」
「分かった。こちらは別のものが来ないか見ておく」
テッサが盾の持ち手を握り直した。
俺は袋から小石を取り出しかけ、相手との距離を見た。
近づいてきてからでは、準備が間に合わない。
だが、今はまだ相手が止まっている。
「回す方、使ってみたい」
二人が俺を見た。
「狙うのは?」
リオに聞かれ、柱の根元を指した。
「前脚の付け根。そこなら、横から見えてる」
「外れたら、普通に下がる?」
「うん。撃ち直さずに槍へ替える」
テッサが頷き、盾を身体の前へ回した。
「じゃあ、できるまで待つ」
リオは灯りを安定した床へ置き、柱の陰で弓を準備した。
俺は膝をつき、床の砂を手で払った。
小石を置くと、僅かなくぼみへ転がろうとする。
訓練場で均した土とは違った。
置き直す。
頭の中で、石の真ん中から相手へ一本の線を引いた。そこを動かさずに、周りを回す。
石の表面につけた炭の印が、ゆっくり向きを変えた。
そのとき、風吐きトカゲが頭を持ち上げた。
「気づいた」
テッサが囁く。
喉の下が膨らみ始める。
俺は石を見た。少し傾いている。
このまま飛ばしたら、また横へ逸れる。
「まだ」
言うと、テッサは前へ飛び出さず、盾の向きを変えた。柱から見えていた身体を隠す。
喉が膨らんでいく。
急ぎたいのに、急ぐと手元が乱れた。
俺は一度、石を止めた。
向きを直す。
回す。
「撃つ」
足元から、小石が飛び出した。
狙った付け根より、少し下だった。
前脚の上側へ当たり、乾いた音がした。風吐きトカゲの身体が傾き、膨らんだ喉から短く空気が漏れる。
白い砂が横へ散った。
石は弾かれず、当たった場所に小さな赤い傷を残していた。
相手は倒れなかった。
口を開き、傷めた脚を引きながら、こちらへ向き直る。
「当たった、槍に替える!」
俺は短槍を取り、柱の陰で立ち上がった。
風吐きトカゲが踏み込もうとした。傷ついた前脚が一度沈み、頭の位置が低くなる。
そこへ、リオの矢が入った。
首の脇に刺さる。
頭を振った相手が、勢いのまま通路を走ってきた。
「右、空ける!」
テッサが柱側へ盾を寄せた。
俺はその外側に穂先を出す。
石段で練習したときのように、前足だけで追いかけず、後ろ足を置く場所を先に確かめた。
風吐きトカゲの口が開く。
喉は大きく膨らんでいなかったが、弱い風でも目の前で受けたくはない。
顔の正面を避け、伸びてきた首の下へ突いた。
短槍に重みが乗る。
俺は柄を握り締めたまま踏み止まらず、相手が崩れる向きに合わせて半歩退いた。
テッサが盾で頭の動きを遮る。
横へ逃げようとした身体が止まり、俺はもう一度、刃の向きを確かめて押し込んだ。
やがて脚の動きが弱くなった。
俺たちは距離を取り、起き上がらないことを確かめた。
水音が戻ってきた。
息を吐くと、思った以上に喉が乾いていた。
「……石、効いたね」
テッサが言った。
俺は頷いた。
普通の《石弾》を当てたときのように、一瞬だけ気を逸らしたのではない。
脚に傷をつけ、次の踏み込みを鈍らせた。
小石一つで、そこまでできた。
「でも、狙った場所より下だった」
「うん」
リオが弓を下ろした。
「そのあとも見てたから、脚が沈むところを狙えた」
俺は相手の前脚と、刺さった矢を見比べた。
石が当たったことばかり気にしていた。
リオは、当たったあとの動きを見ていたらしい。
「次は、そこまで見る」
「槍に替えるのもあったでしょ。全部一人で見なくていいよ」
テッサが盾を下ろした。
「私も、空ける方は見てたし」
俺は少し笑った。
「じゃあ、教えてくれ」
「今、教えた」
確かにそうだった。
◇
二つ目の柱までの床に、大きな割れはなかった。
奥の曲がり角には、砂の溜まった窪みがある。別の風吐きトカゲがいないことを灯りで確かめ、俺たちは一度広場へ戻った。
マレナたちは、正面の落石の脇に目印を置いていた。
「そっちは?」
「一匹倒しました。二つ目の柱までは通れます。幅は、盾を持っても一人ずつなら余裕があります」
俺が答えると、リオが続けた。
「曲がり角の先から、水の音がしました。ここの滝より、小さい音です」
マレナは調査員と図面を見比べた。
「正面は今日は通らない。左を少し延ばしてみよう」
今度は、俺たちが歩いた道を六人で進んだ。
さっきまで先の見えない通路だった場所で、俺は足元の窪みを示し、リオは風の抜ける柱の間を教えた。
テッサは盾を傾けて通ったところで、後ろを振り返る。
「荷物を横へ出すと、ここで引っかかるよ」
調査員が鞄を持ち直した。
自分たちが確かめたことが、そのまま次に歩く人の役に立つ。
それは、魔物を倒せたこととは違う嬉しさだった。
曲がり角の先へ灯りが向けられる。
道はすぐに広くなっていた。
岩壁へ食い込むように、小さな中庭が造られている。
中央には丸い石の水盤があった。壁際の細い水路から水が落ち、縁の切れ目を通って、床の溝へ流れていく。
水盤の一部は欠けていた。
それでも、水はまだ流れていた。
「こんなところに……」
テッサが声を落とした。
石敷きの隙間には、細い草やシダに似た葉が生えている。壁には空の窪みが並び、その下には腰を掛けられそうな長い石台があった。
倉庫とも、戦うための広場とも違った。
誰かが、ここで立ち止まるために作った場所に見えた。
調査員が水盤を調べ、マレナたちが奥の出入口を確かめる。
俺たちは外側の低い壁へ近づいた。
そこから、渡ってきた橋が見えた。
「ノル」
リオが遠見筒を差し出す。
「見つけた」
教えられた方向へ筒を向け、輪を回した。
橋の向こう岸。
柱の脇に、小さな四角い窓が見えた。
暗い部屋の中までは分からない。それでも、窓の端が欠けている形には覚えがあった。
遠見筒を見つけた部屋だった。
「あそこか」
「うん。前は、あそこからこっちを見てた」
俺は筒から目を離した。
肉眼では、窓はずいぶん小さかった。
その間を橋が結んでいる。
遠見筒を覗いていたときには、歩いていける道があることしか分からなかった。橋の風も、柱の陰にいた魔物も、曲がり角の先の水盤も見えていなかった。
今は知っている。
ここまで来たからだ。
「ガルドに話したら、信じるかな」
思わず口にすると、テッサがこちらを見た。
「地下に橋があるって?」
「それも。水が流れてて、庭みたいな場所まであるって」
「絵を描けば?」
俺は中庭を見回した。
水盤なら、丸を描けば何とかなる。
この大きな空洞と、橋と、いくつも重なった柱を、どう紙へ収めればいいのかは分からなかった。
「俺が描くと、採石場になるかもしれない」
「じゃあ、三人で描こう」
リオが言った。
「見た場所、少しずつ違うだろうし」
俺は頷き、もう一度、向こう岸の窓を見た。
食堂で旅人の話を聞いていた頃、俺は皿を下げる前に、少しでも続きを聞こうとしていた。
今なら、自分で話せることがある。
橋を渡るのが怖かったことも、回した小石が初めて魔物に食い込んだことも。
そして、こんなところに水の流れる庭があったことも。
隣には、一緒に見た二人がいる。
「私にも貸して」
テッサが手を伸ばした。
遠見筒を渡すと、彼女は窓を探しながら言った。
「ノルが橋でずっと下を見てたのも、描く?」
「そこは省いてくれ」
「じゃあ、話す方にする」
リオが笑った。
俺も笑って、手を置いていた石壁から顔を上げた。
中庭の奥には、まだ灯りの届かないアーチが続いている。
帰ったら話したいことが、もう一つ増えるかもしれなかった。




