第82話 小石の真ん中
遠見筒の値段を聞いたとき、テッサは隣にいるリオを見た。
リオも、こちらを見た。
俺は机の上の筒を見た。
三人とも、買わない理由を誰かが言うのを待っていた。
「今の状態で、銅貨四十八枚。汚れを落として、動きの悪いところを調整するなら別に六枚だね」
道具屋の主人が、金属の筒を布の上へ戻した。
迷宮から持ち帰った遠見筒だった。
昨日は橋の手前から周囲を記録し、そのまま引き返した。向こう岸で見つけた道も、さらに並んでいた石のアーチも、近くでは見ていない。
その景色を、今日も思い出せた。
だから余計に、目の前の道具を手放したくなかった。
「傷は直りますか」
リオが聞いた。
「磨けば全部消える、というものでもない。端の曇りは多少よくなると思うが、あの細い傷は残るだろうね」
「遠くを見る分には?」
「十分使える。ただ、暗いところが明るくなるわけじゃないよ」
主人は窓の外へ筒を向け、焦点を合わせる輪を回した。
昨日、俺たちはその小さな動きだけで、向こう岸に別の道を見つけた。
魔法の付与は確認されなかった。古い品だが、硝子と筒の作りはよいらしい。それで、今の値段だった。
「三人で持つ?」
テッサが言った。
リオの返事は早かった。
「持ちたい」
「俺も」
「じゃあ、決まりだね」
買わない理由は、最後まで出なかった。
◇
遠見筒は六人で入った調査の拾得品だった。
勝手に俺たちのものにするわけにはいかないので、鑑定の結果を持ってギルドへ戻り、分配を相談した。
今回は六人で均等に分ける取り決めになった。遠見筒を四十八枚分として扱えば、一人分は八枚。俺たち三人の取り分を品物で受け取り、残る三人へ合わせて二十四枚を払う。
そこへ調整代が六枚。
共有の財布から出る金は、三十枚だった。
「売れば入ってくるはずの金を、払って持って帰るんだね」
テッサが財布を覗いた。
「言い方を変えないか」
「遠くが見えるようになった」
「それがいい」
マレナが笑い、受け取った硬貨をしまった。
「次に使うときは、見つけたものを教えてよ」
「もちろんです」
リオが答えた。
「見たい人がいるときは、順番で」
「昨日、一番長く覗いてたよね」
「道を見つけたから」
「私も見つける」
二人のやり取りを聞きながら、俺は共有の財布の口を結んだ。
遠くを見るための道具を買った。
剣でも槍でもないものに、これだけ金を使いたくなるとは思っていなかった。
◇
遠見筒を預けたあと、俺たちは訓練場へ向かった。
調整が終わるのは明日だ。それまでの間に、確かめたいことがあった。
厚く粘土を盛った板の前に、小石を並べる。
なるべく大きさと重さの近いものを選んだ。そのうち一つを地面へ置き、三歩ほど離れた的へ向き直った。
まずは、いつもの《石弾》。
小石が跳び、粘土へ当たる。
表面に浅い窪みを残して、足元へ落ちた。
「これが、回さない方」
俺が言うと、リオが的の脇へ炭で小さな印をつけた。石を拾い、全員が射線の後ろへ戻ったのを確かめる。
次は、回す。
前に一度だけ、深く食い込んだ撃ち方だ。
石を前へ押すだけではなく、片側を送り、反対側を引く。そう考えて魔力を動かすと、今度の石は横へ跳ねた。
的へ届く前に地面を擦り、左へ転がっていった。
「今日は、そっちが敵?」
テッサが転がった先を見た。
「敵だったら逃げられてる」
俺は肩の力を抜き、もう一つ置いた。
遠見筒の輪は、筒の真ん中をずらさずに回っていた。
あれと同じように、小石の中へ見えない棒を通すつもりで考える。その棒を的へ向けたまま、周りだけを回す。
頭の中では、できる。
実際には、回したい方向へ石ごと動いてしまった。
次の一発は的の端を掠めた。粘土が少し削れ、後ろの受け土へ石が消える。
「回すのと、飛ばすの。一緒にやってる?」
リオに聞かれ、頷いた。
「そうしないと、途中で止まりそうで」
「最初だけ分けたら? 矢をつがえるときに、狙いまで全部決めようとすると、かえって遅くなることがある」
俺は小石を見下ろした。
飛ばさずに回す。
それなら、失敗してもすぐ分かる。
平らに均した土へ置き、今度は前へ送ることを考えなかった。
小石が、ぎこちなく向きを変える。
半分ほど回ったところで、出っ張った部分が地面へ触れた。石は傾き、ころりと転がった。
「丸くない」
テッサが言った。
「石だからな」
「さっきの筒は丸かったよ」
それもそうだった。
何でも同じように回せるわけではないらしい。
俺たちは並べた小石を、もう一度選び直した。形が揃っているものは、思ったより少ない。
その日は、深く食い込む一発を再現できなかった。
最後には頭の奥が重くなり、石を動かす感触まで鈍くなったので切り上げた。
テッサが地面から一つ拾い、俺へ渡した。
「これ、取っとけば?」
片側だけ大きく張り出した石だった。
「一番回しにくいやつだろ」
「うん。それも回せたら、上手くなったって分かる」
俺は少し考えてから、袋へ入れた。
できなかった方を残しておくのも、悪くない気がした。
◇
翌日、受け取った遠見筒は、昨日より少し明るい色になっていた。
黒ずんだところは残っている。それでも、輪を回したときの引っかかりが減り、筒を伸ばす動きも滑らかになっていた。
窓から通りの向こうを見る。
端の細い傷は残っていたが、その向こうにある看板の文字は読めた。
「何て書いてある?」
テッサが聞いた。
「煮込み。パン付き」
「いい道具だね」
「腹が減ってるだけだろ」
リオは笑いながら、用意してきた布袋へ遠見筒をしまった。鞄へ入れる前に、他の荷物とぶつからない位置を確かめる。
その手つきが、少しだけ嬉しそうだった。
ギルドへ寄ると、マレナから伝言が来ていた。
次の調査について、明日、話をしたいという。
橋の向こうへ進む準備をするらしい。持ち帰った記録を使い、渡る道と戻る道を検討するところからだ。
「また、声をかけてもらえたね」
リオが言った。
「うん」
前の仕事で一緒に帰ってきた人から、もう一度呼ばれた。
それだけなのに、伝言を読み返したくなった。
明日までに、もう少しできるようになりたい。
俺たちは昼を済ませてから、再び訓練場へ向かった。
◇
昨日と同じ厚さに粘土を盛り直す。
同じ距離に立ち、まず普通の《石弾》を一つ撃った。浅い窪みが残る。
次に置いたのは、形の揃った小石だった。
炭で片側につけた印を見ながら、ゆっくり回す。
昨日は、回っていることだけを見ていた。
今日は、回りながらどちらへ傾こうとするかを見た。飛ばす前から右へふらつくなら、そのまま押し出しても真っすぐには進まない。
一度止め、置き直す。
リオもテッサも、急かさなかった。
石の真ん中を、的へ向ける。
回す。
その向きを保ったまま、前へ送った。
乾いた音がした。
小石は、粘土に残っていた。
真ん中ではない。狙ったところから、指二本ほど右へ外れている。
それでも、表面に当たって落ちた石より、明らかに深かった。
俺はすぐには動けなかった。
「……入った?」
自分で聞くと、テッサが頷いた。
「残ってる」
射撃を止めてから、三人で近づく。
石の周りには粘土を擦った跡があり、半分ほどが埋まっていた。前に一度できたときと、よく似ている。
リオが横から覗き込んだ。
「前より、狙ったところに近いね」
「まだ外れてるけどな」
「でも、板には当たった」
その言い方が妙に嬉しかった。
一度目は、何をしたのか自分でもよく分からなかった。
今は、もう一度やるなら何を確かめるか、少しだけ分かる。
ただ、続けて撃った次の一発は、的の下へ当たって落ちた。
回すことを気にしすぎて、前へ送る向きが下がったらしい。額には汗が浮き、普通に撃つより疲れるのも変わっていなかった。
「毎回は、まだ無理か」
「さっきの、準備も長かったよ」
テッサが言った。
俺は、彼女に敵を受け持ってもらいながら撃つところを想像した。
置いて、回して、傾いたから置き直す。
その間、待っていてくれる魔物はいない。
「今までの石弾とは、使うところを変えた方がよさそうだな」
「すぐ撃てる方も残してよ」
「残す。近くで急いで撃つなら、そっちだ」
リオが弓を手に取った。
「深く当てる方は、先に準備できるときかな。最初の一撃とか」
「それなら、私が待つんじゃなくて、できてから近づけばいいね」
テッサが盾を持ち上げる。
「敵が走ってきたら?」
「準備が間に合わなければ、槍にする」
「じゃあ、それも練習しよう」
そのあとは石を飛ばさず、足の運びだけを確かめた。
リオが離れたところで合図を出す。俺は《石弾》の準備をやめ、脇へ置いた短槍を取る。テッサが前へ入るときには、柄をぶつけないよう後ろへ引く。
一度目は握る場所を間違えた。
二度目は、立ち上がるのが遅れた。
三度目で、ようやく盾の横へ穂先を出せた。
「そっちは早くなった」
テッサが言った。
「撃つ方も、そうなってほしいんだけど」
「両方できたらいいじゃん」
簡単に言う。
でも、その通りだった。
◇
夕方になる頃、粘土の表面には、浅い跡と深い跡が並んでいた。
深く入ったのは、結局二発だった。
同じように撃ったつもりでも、石の形や回し方が少し変わるだけで、結果が違う。硬い甲羅にも通るのかは、まだ分からない。
それでも、最初に使っていた《石弾》より、できることは増えそうだった。
俺は最後に使わず残った小石を拾い、掌で転がした。
テッサが的へ顔を寄せる。
「これが当たったところを、槍で狙ったら?」
「傷がつけば、入りやすくなるかもしれないな」
「脚が止まれば、矢も狙える」
遠見筒を取り出していたリオが言った。
俺一人では、石が深く入ったところで考えが止まっていた。
二人が見ると、その先に槍や矢があるらしい。
壁際には、テッサの盾と俺の短槍が立てかけてあった。リオの手には、昨日まで俺たちのものではなかった遠見筒がある。
どれも、持っただけで何でもできるようにはならない。
使い方を覚えるたび、行ける場所が少し増えていく。
「明日、話を聞いたら、橋の向こうへ行く準備だな」
俺が言うと、リオは遠見筒を布で包んだ。
「今度は、向こう側からこっちを見たい」
「私も」
テッサがすぐに言った。
昨日、三人で順番を待ちながら覗いた窓。
あそこを、今度は遠くから探す。
それだけで、次に進むのが楽しみになった。
俺は小石を袋へ戻した。回しにくい石も、まだ一緒に入っている。
明日は、どちらを使うことになるだろう。
袋の口を結び、短槍を手に取った。




