第81話 橋の向こうが近くなる
遠くから見た時は、橋まで一本の道が続いているように見えた。
実際に歩くと、そうでもなかった。
回廊は岩壁の出っ張りを避けて曲がり、途中で数段だけ高くなっている。並んだ柱も、近くで見れば太さや傷み方が違った。一本を通り過ぎるたび、向こう側の橋が見えたり隠れたりした。
俺は前方を見たい気持ちを抑え、後ろへ目を向けた。
さっき出てきた通路は、もう柱の陰だった。
リオが曲がり角の位置を小さな紙へ控える。その間、俺が後ろを見て、テッサは調査員の横についた。
先頭ではマレナと槍の男が、橋へ続く道を確かめていた。
「ここから、横風が強い」
前から声が来た。
俺が返事をするより先に、テッサの肩紐が張った。
背中の大盾を、風が横から押している。
「……これ、帆になる」
彼女は立ち止まり、盾を背中から外した。左腕へ通し、風に対して細い縁を向ける。
外套の裾はまだ揺れていたが、身体を持っていかれる感じは減ったらしい。
「船で使えるかな」
「使う時は、お前も船に縛ることになるぞ」
「じゃあ、やめる」
俺も槍を身体へ寄せて歩いた。
水が落ちる音に混じり、柱の間で風が低く鳴っている。足元へ伝わるかすかな震えもあったが、それだけで魔物がいるとは思わなかった。
俺たちが止まっても、音と震えは続いていた。
岩潜りのいた採石場では、感じた場所だけで相手の位置を決めつけた。
今はまず、見えているものと聞こえているものを確かめる。
ここには、大量の水と風があった。
◇
橋の手前には、荷車を何台か置けそうな広さの石床があった。
そこから先は、空間の真ん中へ橋が伸びている。
近づくと、遠目では分からなかったものも見えた。欄干の一部は欠け、床の継ぎ目には白っぽい砂が溜まっている。
橋が向こうまでつながっていることと、歩いて渡れることは、同じではないらしい。
マレナは橋へ入る前に足を止めた。
「今日はここから状態を記録する。対岸へは渡らないよ」
調査員が頷き、道具を下ろした。
俺たちも広場の壁側へ荷物を寄せた。戻る道を塞がない場所に置き、リオが集光灯を取り出す。
折り畳みの台を開き、灯りを載せる。
照らす先を細く絞ると、橋の手前にある石の継ぎ目が浮かび上がった。
「もう少し左へ」
調査員に言われ、リオが灯りの向きを変えた。
光が橋の付け根を通り、横の壁へ滑る。
そこで、四角い影が動いた。
「待って」
俺は壁を指した。
リオが灯りを止める。
壁の一部が、奥へ引っ込んでいた。正面から見ていた時には、太い柱と重なって隠れていたらしい。
「部屋?」
テッサが首を傾げた。
入口らしい場所には、扉の下半分だけが残っている。上の部分は外れ、床へ倒れていた。
その隙間から、埃が細く流れ出した。
橋へ抜ける風とは、違う向きだった。
「向こうにも開いてるのかな」
リオが言った。
マレナが近づき、柱の陰から中を確かめた。
「側室ね。奥行きはありそう」
槍の男が広場と戻り道を見張る。俺たちはマレナの後ろから、灯りを部屋へ向けた。
床に落ちた扉。壁際の低い棚。奥には、外へ開いた四角い窓がある。
動くものは見えなかった。
マレナが床と天井を調べてから、入口を空けた。
「調査員を中へ。三人は灯りと、手前の確認を頼む」
俺たちは頷いた。
◇
部屋へ入ると、風の音が少し遠くなった。
窓は開いているが、厚い壁が直接吹き込む風を遮っていた。広場より埃が残り、俺たちの靴跡がはっきりついた。
壁の棚には、丸い金具が二つ残っている。
何かを立てかけた跡なのか、棚の端だけが擦れていた。
窓のそばには、人の腰ほどの高さの石台があった。
「ここなら、紙を広げられそうですね」
俺が言うと、調査員は窓と台を見比べた。
「昔も、そういう使い方をしていたかもしれないな」
彼は持ってきた図面を広げかけ、台の端で手を止めた。
「灯りを下へ」
リオが集光灯を向けた。
石台の下に、奥まった棚があった。
その中に、細長い箱が一つ収まっていた。
黒ずんだ木の箱だ。角には金属が当てられ、上には薄く埃が積もっている。床へ直接置かれていない分、周りの朽ちた板より形が残っていた。
テッサが俺を見た。
俺も見返した。
何も言わなかったが、考えていることはたぶん同じだった。
箱だ。
ちゃんと蓋の付いた、まだ中を見ていない箱だった。
マレナが留め具と周囲を調べ、調査員と一緒に石台へ移した。
持ち上げると、底から埃が落ちた。
「重くはないね」
「金貨が詰まってる感じじゃない?」
テッサが小声で言う。
「金貨の詰まった箱、持ったことあるのか」
「ない。だから、感じ」
マレナが口元を緩めた。
留め具は固かったが、錠は掛かっていなかった。調査員が薄い工具を使って動かすと、蓋が少し浮いた。
俺は思わず身を寄せた。
中には、布に包まれた短い棒のようなものがあった。
剣ではない。柄も刃もない。
片端に丸い金具が見える。
調査員が布を開くと、その下から黒ずんだ金属の筒が現れた。
俺の手のひら二つ分ほどの長さだった。
太さの違う筒が重なり、端には硝子らしいものが嵌まっている。灯りが当たると、表面に淡い青が浮かんだ。
「遠見筒だ」
調査員が言った。
リオの顔が、箱へ近づいた。
「遠くを見る道具ですか?」
「ああ。ただ、これがまだ使えるかは――」
言いながら、男は片方の蓋を外した。
筒の側面には擦れた跡があり、金属の輪が一つ付いている。そこをゆっくり回すと、内側の筒がわずかに動いた。
男が窓の方へ向けて覗く。
一度下ろし、輪を回し直した。
「……見えるな」
その一言で、俺たち三人とも窓へ目を向けた。
◇
最初に渡されたのは、リオだった。
彼は両手で筒を支え、橋へ向けた。
すぐに、肩が小さく動いた。
「近い」
それから筒を下ろし、裸眼で同じ場所を見る。
もう一度覗く。
「さっき、柱だと思ってたところ。二本並んでる」
「どこ?」
テッサが隣から橋を見た。
「向こうの、左の端」
「左の端、いっぱいある」
リオは笑い、筒を渡した。
テッサも覗いたが、すぐに眉を寄せた。
「揺れる」
「肘を窓台へ。身体を外に出さなくていい」
調査員に言われ、彼女は石台へ肘を置いた。
しばらく黙る。
それから、ゆっくり笑った。
「……あった。二本」
渡された筒を、俺も受け取った。
見た目より冷たかった。
小さい方の端を目へ当てると、最初はぼんやりした光しか見えなかった。教わった輪を少しずつ回す。
突然、石の輪郭が合った。
橋の向こう側。
さっきまで一本の太い柱だと思っていた場所に、確かに二本の柱がある。その間へ、細い通路が続いていた。
驚いて顔を上げる。
肉眼では、また一つの暗い塊に戻った。
「これ、いいな」
思わず言った。
テッサが頷く。
「箱、当たりだったね」
俺はもう一度覗いた。
右端が少し白く曇っている。真ん中は見えるが、視界を動かすと傷のような線が横切った。
さらに暗い奥へ向けると、何も分からなくなる。
暗闇まで見えるわけではない。それでも、光の当たっている場所なら、ここまで近づける。
弓の届く場所を探す時。
遠くの足場を確かめる時。
こちらへ向かってくるものを、少し早く見つけたい時。
使えそうな場面が、次々と浮かんだ。
「傷は、直せるんでしょうか」
俺が聞くと、調査員は筒を受け取って端を見た。
「専門の職人に見せないとな。使える範囲も、きちんと確かめたい」
「持って帰るんですよね」
リオの問いに、マレナが頷いた。
「発見品として記録して持ち帰る。使いたいなら、鑑定と分配の時に相談しよう」
リオは、もう一度筒を見た。
まだ俺たちの物になったわけではない。
それでも、欲しい物の形は、三人ともはっきり分かってしまった。
◇
遠見筒は、その場で役に立った。
調査員が覗き、橋の欄干が欠けている場所を書き取る。リオが肉眼で場所を確かめ、図のどこへ当たるかを伝えた。
俺とテッサは交代で入口と広場を見た。
部屋の窓からだと、橋を少し横から見られる。
広場では手前の欄干に隠れていた場所も、こちらからなら見通せた。
「向こう、道が二つある」
リオが言った。
調査員が図面へ顔を寄せる。
「正面のアーチと、その左か?」
「うん。左は、柱の裏へ回ってる。途中まで壁に隠れてるけど、床が続いてる」
マレナが筒を受け取り、同じ場所を確かめた。
「見えるね」
図面に、短い線が一本足された。
俺はその線を見た。
橋を渡った先は、正面のアーチへ進むのだろうと思っていた。
だが、左にも道がある。
ここから見えていなかっただけで、ちゃんと床が続いていた。
「左の先に何があるかは、まだ分からない。でも、次に調べる場所は増えた」
マレナはそう言って、筒を台へ置いた。
俺はその横の、金属の輪へ目を留めた。
輪は筒に沿って回る。指で力を加えても、中心は横へ逃げない。
昨日の小石は、回そうとした途端、狙いから外れた。
俺は石を捻ることばかり考えていた。どこを中心に回すのかは、ぼんやりしたままだったのかもしれない。
石の真ん中に、細い棒を一本通すように考えたらどうだろう。
その棒を的へ向け、周りだけを回す。
できるかは分からない。
ただ、次に試す時の形が、少しはっきりした。
「ノル?」
テッサに呼ばれ、顔を上げた。
「また回すこと考えてた?」
「少し」
「それも回転で強くする?」
「覗いた景色まで回ったら、困るだろ」
リオが吹き出した。
俺は輪から手を離し、入口の方へ戻った。
小石の練習は、帰ってからだ。
今は、まだ見ていない道の方が気になっていた。
◇
部屋の記録を取り終える頃には、橋の向こうの形が、来た時よりずっと分かるようになっていた。
正面の大きなアーチ。
柱の裏へ回る細い道。
その上に重なる、別の回廊。
調査員が図面を畳む間、リオがもう一度だけ遠見筒を借りた。
俺とテッサも窓へ寄る。
「左の道、あの辺?」
俺が指すと、リオが筒を少し動かした。
「もうちょっと右。柱と柱の間」
言われた場所を見る。
肉眼では、やはり暗い。
リオはしばらく覗いてから、小さく息を漏らした。
「奥にも、アーチがある」
「何個?」
「今見えるのは、二つ」
テッサが俺を見た。
「帰ったら、地図が大きくなるね」
「ああ」
小さな箱から出てきたのは、剣でも、魔法の巻物でもなかった。
遠くを見るための筒が一本。
それを覗いただけで、渡りたい橋の向こうに、進んでみたい道が二つできた。
リオが筒を下ろす前に、テッサが手を出した。
「次、私」
「さっきも見ただろ」
「さっきは、奥のアーチ見てない」
それは俺も同じだった。
俺たちは窓の前で、もう一度順番を待った。




