第80話 回る小石と、階段の先
小石は、粘土の手前で横へ逸れた。
練習場の砂へ落ち、それでも少し回ってから止まる。
「今の、変な飛び方したね」
テッサに言われ、俺は頷いた。
「回そうとした」
「どこへ?」
「石そのものを」
調査隊への参加が決まった、その日の午後だった。
出発は翌朝。荷物を揃える前に、俺たちはギルドの練習場へ寄っていた。
俺の前には、板へ厚く塗りつけた練習用の粘土がある。いつもの《石弾》を当てたところには、小石の形に浅い窪みができていた。
相手の注意を引くには使える。
だが、あれを見て攻撃魔法だと言い切るには、少し勇気が要る。
もっと速く飛ばそうとすると、魔力を込める途中で石が跳ねた。力を増やすだけでは、うまくいかなかった。
そこで思いついたのが、回転だった。
前世で、回りながら木へ穴を開ける道具を使ったことがある。あれは押しつけて使うものだし、ただ飛んでいく石とは違う。
それでも、真っすぐ押す以外の力のかけ方なら、試してみたかった。
俺は小石を拾い、もう一度地面へ置いた。
前へ送り出す力。その途中へ、石を捻るような動きを加える。
さっきは横へ回そうとして、飛ぶ方向まで曲げてしまった。
今度は、進む向きに沿って回す。
頭の中では分かる。だが、それを魔力でやろうとすると、途端に曖昧になる。
小石が地面で震えた。
一度止め、息を吐く。
「これ、最後にする」
明日、出発前から疲れているわけにはいかなかった。
俺は肩の力を抜き、粘土の中央を見た。
小石の片側を押し、反対側を引くように力をかける。生まれかけた回転を崩さないよう、そのまま前へ送り出した。
石が跳ねた。
狙った中央からは外れたが、今度は板の中に収まった。
湿った音がして、粘土が小さく散る。
「あ」
リオが先に声を出した。
俺は板へ近づいた。
さっきの窪みの隣に、細く抉れた跡ができていた。小石は落ちず、半分以上が粘土へ埋まっている。
縁には、擦ったような筋が残っていた。
「深い」
テッサが顔を寄せた。
俺も頷いた。
前より大きな石を使ったわけではない。飛ばした場所も、同じ印の後ろだ。
ただ、回した。
その分、魔力も使っている。息が少し上がっていた。
「回すと、食い込むのかもしれない」
「もっと回したら?」
「今より横へ飛ぶかも」
答えると、テッサが板の端を見た。
「先に真ん中へ当てよう」
もっともだった。
俺は粘土から小石を抜いた。角の一つに土が詰まっている。
まだ一度しかできていない。硬い甲殻にも同じように通じるのかは分からない。
それでも、石を指で転がすと、もう一度試したくなった。
今日のところは袋へ戻した。
次に練習することが、一つ増えた。
◇
翌朝、風の迷宮の入口に集まったのは六人だった。
俺とテッサ、リオ。
それから調査員が一人と、先導する冒険者が二人。
責任者のマレナは、濃い茶色の髪を後ろで束ねた女性だった。腰に剣、左腕には小さな丸盾を着けている。胸元の銀札は、縁に細かな傷があった。
もう一人は長槍を持った男で、入口へ向かう道を見ながら、静かに待っていた。
「私の背中ばかり見て歩かないでね」
マレナは俺たちの装備を確かめてから言った。
「前は私たちが見る。三人には、後ろと調査員の周りを任せる」
「前で戦闘になったら?」
俺が聞くと、彼女はすぐに答えた。
「呼ぶまでは持ち場を守って。助けに来てくれても、後ろが空いたら困るから」
昨日の面談でも聞いた役割だった。
俺たちは頷いた。
リオが集光灯の蓋を確かめる。予備の灯りは俺の荷物にある。調査員も自分の灯りを持っていた。
先頭の二人が入る。
俺たちも、少し間を空けて続いた。
◇
石柱区画までは、見覚えのある道だった。
マレナは歩きながら、何度か立ち止まった。
曲がり角では、先の床と壁の上を見てから進む。槍の男が前へ出る時には、彼女がその後ろを受け持つ。
いちいち長い相談はしない。それでも、二人が同時に同じ場所へ入り込むことはなかった。
俺はその動きを見かけて、慌てて後ろへ目を戻した。
背中ばかり見るなと言われたばかりだ。
石柱の先で、道が右へ折れた。
そこから階段が下りていた。
幅は二人並べるほどだが、段の高さは揃っていない。壁沿いには浅い溝があり、その奥から冷たい風が流れてくる。
リオが灯りを低くした。
「右、角が欠けてる」
「見えた」
テッサが左へ寄る。
俺は後ろを確かめながら段を下りた。下へ進むほど、水の流れる音が大きくなる。頭の上から聞こえたり、壁の向こうへ移ったりして、場所を決めにくかった。
踊り場で、マレナが俺たちを止めた。
「一度、上を見て」
振り返ると、下りてきた階段が思ったより暗かった。
行きには足元しか見ていなかったが、戻る時には三つの壁の出っ張りが目に入る。そのうち一つだけ、斜めに割れていた。
「帰りは、違う形に見えるから」
彼女はそれだけ言って、調査員へ場所を空けた。
リオが割れた壁の位置を控えた。
俺も、もう一度階段を見た。来た道なのに、振り返るだけで知らない通路のようだった。
◇
異変があったのは、次の曲がり角で調査員が記録を取っている時だった。
階段の方で、何かが石を擦った。
俺は振り向いた。
低い身体が、踊り場の陰から出てくる。喉元には青灰色の袋があった。
「後ろ、風吐きトカゲ!」
前方のマレナがこちらを見た。
調査員が紙を畳もうとして、手を止める。
テッサが盾を向けた。
「私が後ろを見る!」
「調査員さんは、俺とこっちへ」
俺は壁の出っ張りの内側を示した。
リオが集光灯を床へ置く。倒れない位置へ寄せ、弓を取った。
「二人とも陰に入ったら、僕が射つ」
俺は調査員が壁際へ移ったことを確かめた。
「ここで待ってください。荷物はそのままで」
男が頷く。
テッサの肩の向こうで、喉袋が膨らんだ。
「来る!」
彼女は盾で風を受け止めようとはしなかった。壁の陰へ引き、俺も身体を寄せる。
風が通路を抜けた。
床の砂が走り、調査員の外套の端が跳ねた。灯りは揺れたが、消えていない。
喉袋が萎む。
リオが壁の端から出た。
矢が前脚の近くへ刺さった。風吐きトカゲが身体を捻り、今度は低く構えて近づいてくる。
もう一度風を吐くのを待っていては、噛まれる。
「リオ、調査員さんを頼む。俺が前へ」
「分かった。こっちは見てる」
返事を聞いてから、俺はテッサの横へ出た。
槍を低く向ける。
相手の頭が動いた。穂先を避けて盾の外へ回ろうとする。
テッサが盾を少し前へ出し、通れる幅を狭めた。
風吐きトカゲが頭を戻す。
俺はその動きへ、突きを合わせた。
一度目は浅かった。刃を引き、伸びてきた口先から離れる。
テッサが俺の退く分だけ前を受け持ち、その横からもう一度突いた。
今度は、相手の身体が床へ沈んだ。
俺たちは距離を取り、動きが止まるまで構えを解かなかった。
前方からマレナの声がした。
「後ろ、どう?」
「一体倒しました。ほかは、今確認します」
リオが階段を照らした。
俺も曲がり角の陰を見た。別の姿はない。
報告すると、マレナは頷き、前方の警戒へ戻った。
こちらへ駆け寄って指示を出すことも、俺たちの前へ割って入ることもなかった。
任されていたのだと、終わってから実感した。
調査員が紙を抱え直した。
「助かった。どこへ行けばいいか、すぐ分かったよ」
俺はリオを見た。
彼もこちらを見て、小さく頷いた。
前へ出る前に、後ろを渡せた。
それだけのことが、今はちゃんとできていた。
◇
休止できる広さのある場所で、一度荷物を下ろした。
マレナは調査員の記録を見たあと、俺たちへ声をかけた。
「役割を渡してから動いたね。あれなら、前を空けずに済む」
「そっちは、見ていられなかったんですけど」
「それでいい。私も、そっちをずっと見てはいなかった」
言われて、俺は入口での話を思い出した。
自分の持ち場だけで手いっぱいだった。それを悪いことのように感じかけていたが、全員で後ろを見ていたら、前は誰も見ていなかった。
テッサが盾を膝へ載せる。
「銀札の人って、もっと全部見えるのかと思ってた」
マレナは少し笑った。
「見えない場所を任せられる相手が増えたの」
槍の男が、通路の先を見ながら片手を上げた。
休憩は長く取らなかった。
俺たちは水を飲み、留め具を確かめてから立ち上がった。
腰の袋へ手をやると、昨日使った小石が指へ触れた。
さっき、回転を加えて撃てないかとは考えなかった。まだ練習場で一度できただけのものを、調査員のいる狭い通路で試す気にはなれなかった。
あれを使えるようにするには、まず狙ったところへ飛ばさなければならない。
帰ったら、また粘土を借りよう。
今は槍を握り直した。
◇
通路の風が変わった。
冷たさは同じなのに、頬へ当たる向きが一つではなくなった。前から来ていた風に、右下から吹き上げる流れが混じる。
水音も、壁の向こうに閉じ込められてはいなかった。
マレナが前方で立ち止まった。
「段差がある。そこを越えたら、少し広くなるよ」
先に調査員が進み、灯りが通路の外へ移った。
俺たちも続いた。
最初に見えたのは、向こう側の壁だった。
いや、壁ではない。
柱が並んでいる。
その上にも、さらに上にも、同じような柱とアーチが重なっていた。
俺は足を止めた。
通路の先には、巨大な空間が広がっていた。
岩壁へ貼りつくように石の回廊が続き、その間を橋が渡っている。上の橋は向こう岸までつながっていたが、一段低い橋は途中から崩れ、暗がりへ切り口を向けていた。
右手の高い場所から、水が白い筋になって落ちている。
底は見えない。
岩のところどころに淡い青の光があり、遠くの柱をぼんやり浮かび上がらせていた。
リオが集光灯を持ち上げた。
俺たちの近くにある石の欄干が明るくなる。それでも、その向こうの広さには届かなかった。
「……地下だよね」
テッサが言った。
「階段、下りたからな」
答えながら、俺も確かめたくなっていた。
頭の上には岩がある。空ではない。
それなのに、街の広場へ出た時より、ずっと遠くまで見えている気がした。
調査員が紙を広げ、マレナたちと回廊の位置を確かめ始めた。
俺は近くの足元と、戻る通路へ一度目を向けた。それから、また橋を見た。
「三人で、並べたね」
リオが言った。
昨日、地図を囲んで話したことだった。
俺は隣を見た。
リオが灯りを持ち、その向こうでテッサが顎を上げている。
二人とも、同じ橋を見ていた。
「ああ」
もう少し気の利いた返事ができればよかったが、それしか出なかった。
テッサが上の橋を指した。
「あそこ、歩けるのかな」
「橋の手前までは、今日の調査範囲よ」
マレナが答えた。
「渡るかどうかは、状態を見てから」
俺は暗がりに続く回廊を辿った。
あの橋へ行くなら、左の柱の間を通るのだろうか。その先には部屋があるのか。下へ向かう別の階段も、どこかにあるのかもしれない。
分からないことが多すぎて、どこから見ればいいのか迷った。
腰の袋の中で、小石が二つ触れ合った。
昨日までと同じ石にも、まだ試したことのない使い方がある。
何度か入った迷宮の下にも、こんな場所が残っていた。
俺は短槍を持ち直し、二人へ顔を向けた。
「行こう」
まずは、あの橋の手前まで。
地図で見ていた線の続きを、自分の足で歩いてみたかった。




