第9話 初めての研ぎ
橋鼠の巣から工具を回収した翌朝、俺は《鉄輪》へ向かった。
昨日もギルドで報告を済ませてから寄ったのだが、店は閉まっていた。宿で短剣を拭き直したものの、小さな刃こぼれだけはどうにもならない。
扉を開けると、ドランは俺の顔より先に腰へ目を向けた。
「使ったな」
「橋鼠を相手に、二回ほど」
「見せろ」
短剣を鞘ごと差し出す。ドランは刃を抜き、窓から入る光へかざした。
「まず、汚い」
「拭いたんですけど」
「拭き残してる」
鍔の近くを指され、俺は顔を寄せた。赤黒い汚れが細い溝に残っている。刃の平らなところばかり気にして、そこまでは見ていなかった。
ドランは水を含ませた布で汚れを落とし、すぐに乾いた布へ持ち替えた。
「血は残すな。錆びる。洗ったら乾かして、油を薄く塗れ」
「油は、どのくらい?」
「塗ったと分かる程度でいい。垂れるほど付けるな。鞘の中までべたべたになる」
俺も布を借り、指された場所を拭いた。光へ向ける角度を変えると、残った水気が見つけやすかった。
「鞘も確かめろ。中が湿ってりゃ、乾いた刃を戻しても同じだ」
魔物を倒したら仕事が終わるわけではないらしい。少なくとも、俺の短剣には帰ってからの仕事もあった。
ドランは刃先を見て、昨日見つけた欠けを指した。
「ここだな」
「突いた時、硬いものに当たりました」
「骨か、石に触れたか。これだけじゃ分からん」
店の明かりで見ると、欠けは思っていたより小さかった。それでも、指で触って確かめる気にはならない。
「全部削れば、元に戻りますか?」
「形は整う。だが、その分だけ刃が減るぞ」
ドランは砥石を用意し、水を垂らした。
「小さい欠けまで毎回消そうとすりゃ、刃がなくなる。今日は使えるところまで整える」
刃が一定の角度で滑り、擦れる音が店の奥へ響いた。
俺は作業台の端に立ち、動きを眺めた。強く押しているようには見えないのに、何度か往復させるうち、刃の縁が光を返し始める。
途中で、音が少し変わった気がした。
低くなったのか、ざらついたのか。言葉にしようとしている間に、元の音へ戻ってしまった。
「今、当たり方が変わりました?」
ドランが手を止めた。
「欠けた辺りを当て直した。角度も少し変えてる」
「音も違うんですね」
「当てる場所が変わればな」
作業が再開すると、俺はさっきより注意して聞いた。だが、意識するほど違いが分からなくなった。
聞き間違いではなかったらしい。それだけ分かって、再びドランの手元へ目を戻した。
研ぎ終えたドランは刃を拭き、今度は柄を軽く捻った。
「こっちにも、少し遊びが出てる」
「もうですか?」
「前にも言ったろ。使えば緩む」
刃を布で保護してから渡され、自分でも確かめてみた。最初は分からなかったが、握る力を弱めるよう言われると、柄の奥にわずかな動きが感じられた。
買った日は、ここをドランに締めてもらった。そのときは、どこを確かめているのかも分かっていなかった。
「昨日、これでよく突けたな……」
「今すぐ抜けるほどじゃねえ。だが、気づかず使い続けるなよ」
ドランは留め具を調整し、もう一度俺へ握らせた。さっき感じた動きはなくなっている。
「違うだろ」
「はい」
「そいつを覚えとけ」
最後に油の薄い膜を残すよう拭き上げてもらい、短剣を受け取った。
「銅貨二枚」
昨日の報酬は十枚だった。そのうち二枚が、研ぎと柄の調整で消える。
「一回戦っただけで、二枚か……」
「次は血を落としてこい。自分でできる手入れまで店に任せるな」
返す言葉がなかった。
道具代も含めて仕事なのだと、財布から硬貨を出して初めて実感した。
◇
ギルドでは、テッサが盾を椅子の脇に立てて待っていた。
「直った?」
「直った。銅貨二枚」
「昨日の稼ぎから引くと、八枚だね」
「計算が早いな」
「私も盾を拭いてた。端のところ、爪の跡が残ってる」
彼女は盾を少し持ち上げ、傷のある場所を見せた。昨日は目の前の橋鼠ばかり見ていたが、盾が受け止めた跡は消えていなかった。
受付へ向かうと、ミラが俺たちを呼んだ。
「管理札の件で、市から連絡が来ています」
机の上には、見覚えのある銅色の板があった。作業員が届けた札を、記録との照合のためギルドでも預かっているという。
表にはリーヴェの紋章、裏には第三水道橋の旧料金所を示す文字が刻まれていた。
「料金所は二十一年前に閉鎖されています。札の形式も、当時使われていたものと一致しました」
「じゃあ、橋鼠が古い札を拾っただけ?」
テッサの問いに、ミラは頷いた。
「その可能性はあります。ただ、料金所の中から運び出したのか、別の場所に落ちていた物を拾ったのかは分かりません」
札が古いからといって、最近まで料金所の中にあったとは限らないらしい。
「じゃあ、何を調べるんですか?」
「入口や周囲に破損がないかです。長く使っていない設備ですから、今回の報告を機に確認することになりました」
ミラが一枚の依頼票を差し出した。
市の設備係に同行し、札を見つけた場所を説明する。その後、旧料金所まで案内し、調査を補助する仕事だった。
「報酬は合計二十四枚。一人十二枚です」
テッサが俺を見た。昨日のように即答はせず、依頼票の続きを指で追っている。
「護衛補助って、書いてあるね」
「設備係の方は冒険者ではありません。移動中の周囲の確認もお願いします。ただし、魔物を探したり、危険な場所へ踏み込んだりする依頼ではありません」
「橋鼠が残っていたら?」
俺が聞くと、ミラは依頼票の注意事項を示した。
「安全に通れなければ、その場で引き返して報告してください。調査を延期しても、同行分の報酬は出ます」
今回確かめるのは、料金所の外側と入口付近。塞がれた場所を無理に開ける作業は含まれていなかった。
俺たちは顔を見合わせた。
「道は分かるな」
「うん。見つけた場所も説明できる」
二人で頷き、受けることを伝えた。
「設備係はイーヴさんです。若い方ですが、古い水道設備に詳しいですよ。明日の朝、鐘一つの時間にこちらへ来てください」
依頼票を受け取ったとき、靴底に小さな震えを感じた。
何となく足元を見る。奥では誰かが歩いていて、近くでは椅子を引く音もした。床が揺れたのか、足音を聞いてそう感じたのか、自分でも区別がつかなかった。
「何か落とした?」
テッサに聞かれ、顔を上げた。
「いや。何でもない」
彼女はもう、管理札を見ていた。
「二十一年前の料金所か。中に何が残ってるんだろ」
「今回は外から見るだけだぞ」
「分かってる。気になっただけ」
俺も、少し気になっていた。
普段歩く街の中に、自分が生まれる前から閉じたままの場所がある。橋の下で小さな札を拾わなければ、その存在を知ることもなかっただろう。
ギルドを出てから、俺は鞘の上から短剣の柄に触れた。
欠けた刃を整え、緩みを直しただけで、使い慣れた武器になったわけではない。それでも、出かける前にどこを確かめればいいかは分かった。
明日はそれを済ませてから来よう。
短槍のための金は少し減ったが、今ある短剣については、昨日より知っていた。




