第77話 盾に引っかかる敵
依頼票の挿絵を見て、テッサが自分の盾へ目をやった。
「これ、引っかかりそう」
紙に描かれているのは、長い脚を広げたクモだった。ただし、前の二本だけ形が違う。途中から大きく曲がり、内側に小さな突起が並んでいた。
《南の丘陵道・鎌脚グモ討伐》
道を横切る糸と、その近くにいる一体が確認されている。薪を運んでいた住民が引き返したため、今のところ怪我人はいない。
魔物の危険度はE。その脇に、同じ区分の中でも強い部類だと注意が添えられていた。
「俺たちより一つ下でも、油断はできないか」
胸元の鉄札へ触れると、受付の職員が頷いた。
「冒険者の等級と、魔物の危険度は別の基準です。Dランクの魔物を通常の討伐対象にするなら、銀札の組が目安になります」
「一人で倒せるって意味でもないんですね」
「ええ。数や場所でも変わります。今回も、複数いたり、大きな巣ができていたりすれば、引き返して報告してください」
リオが依頼票の下を指した。
「糸は、地面にも張るんですか」
「足元に渡すことがあります。前脚だけを見て近づかないように」
昨日は、石柱の陰から出てくる岩トカゲを相手にした。
今日は、歩けそうな場所そのものを疑わなければならないらしい。
俺たちは資料の絵をもう一度見てから、依頼を受けた。
◇
南へ向かう道は、丘の斜面に沿って緩く上っていた。
途中までは畑が続き、その先から木が増える。荷車の通る大きな道とは別に、薪取りや近隣の住民が使う細道が枝分かれしていた。
入口には、通行を止めるための縄と札が掛けてある。
教えられた場所は、その少し先だった。
「木の間が狭いな」
俺は短槍を前へ向けた。横へ振り回せる幅はないが、突いて引き戻すことはできそうだ。
テッサは盾を左腕へ通し、リオは弓を手にした。
ここでは、リオが先に道を確かめた。俺がその斜め後ろにつき、テッサはさらに後ろから周囲を見る。頭の上にも枝が重なっているため、三人で同じところばかり見ないようにした。
しばらく進んだところで、リオの手が上がった。
「そこ。膝より下」
俺は足を止めた。
初めは何も見えなかった。顔を横へ動かすと、木漏れ日を受けた細い線が、道を斜めに横切っていた。
片方は木の根元。もう片方は低い灌木へ続いている。
「よく見えたな」
「葉っぱが、変なところに浮いてた」
糸の途中に、枯れ葉が一枚引っかかっていた。風で動いているのに、地面へ落ちない。
リオが視線を上へ移した。
「……あそこにいる」
道の右側。二本の木が近くに生え、その間へ枯れ枝が集まっている。
その陰から、曲がった脚が突き出していた。
胴は丸いというより、前後に長い。焦げ茶色の身体は木の皮に似ていたが、脚の先だけは妙に滑らかで、光が当たると黒く艶めいた。
前の二本が、ゆっくり開く。
残る六本の脚で身体を支え、こちらへ向き直った。
「絵より嫌だね」
テッサが小声で言った。
「絵は動かなかったからな」
糸の向こうへ踏み込まず、周囲を見た。今のところ、他の個体は見えない。枝の間に張られた糸も、この場所へ集まっているようだった。
道は俺たちの後ろで少し広くなっていた。左側には伐った木の切り株があり、その手前なら三人が動ける。
「あそこまで下がろう。糸のない場所でやりたい」
リオが先に戻り、足元を確かめる。テッサと俺も、相手を見ながら下がった。
鎌脚グモは追ってこなかった。
前脚を持ち上げたまま、木の根元に留まっている。
「出てこないか」
「こっちから入ってほしいのかも」
リオが矢をつがえた。
「ここから射てる。動いたら、二人の間へは入らないで」
俺は左、テッサは右へ寄った。
弦が鳴った。
矢は胴の手前をかすめ、後ろの木へ刺さった。鎌脚グモが身を沈める。続いて、脚を畳んだと思った瞬間、落ち葉の上を走り出した。
低い。
岩トカゲより身体が軽そうなのに、伸びた脚は思ったより遠くまで届いた。
「来る!」
俺は穂先を向けた。
正面から入ってきた鎌脚を狙って突く。だが、相手は身体を横へずらし、槍の外側からテッサへ向かった。
盾へ硬い音が響く。
テッサが一歩引き、盾を斜めに傾けた。昨日までなら、そのまま相手の頭を外へ流せた動きだった。
ところが、盾が途中で止まった。
「引っかかった!」
曲がった前脚が、盾の右の縁を抱え込んでいた。
鎌脚グモが後ろへ身体を引く。テッサの左腕が持っていかれ、反対側の前脚が足元へ伸びた。
「後ろ!」
俺が槍を低く差し出すと、伸びてきた脚が柄へ当たった。
硬い音がして、手のひらが痺れる。切られたわけではないが、強く押し合えば槍ごと持っていかれそうだった。
テッサは盾を引き戻しかけ、途中でやめた。
逆に、一歩近づく。
盾が前へ出ると、引っかかった脚の曲がりが緩んだ。彼女は盾の上端を前へ倒し、縁を抜くように捻った。
鎌脚が外れる。
そのまま二人で下がった。
鎌脚グモは追いすぎず、前脚を広げ直した。
「流れない」
テッサが息を吐いた。
「縁を掴まれた。腕で引いたら、たぶん負ける」
「俺の槍も、横から払われる」
穂先はまだ使える。柄にも深い傷はない。ただ、相手の正面へ出せば、あの二本が届く。
「もう一回、射つ」
後ろからリオの声がした。
俺たちは射線を空けた。
今度の矢は胴へ向かったが、鎌脚グモが片方の前脚を振り上げた。矢が脚に触れ、向きを変えて落ち葉へ落ちる。
完全に弾いたわけではないらしい。脚の内側に浅く刺さり、矢柄が揺れていた。
「前が邪魔だね」
「あれを二本とも使わせれば、胴は空くか」
俺が言うと、リオは相手を見たまま頷いた。
「狙える。でも、二人が真ん前にいると射てない」
テッサが盾の位置を少し下げた。
「じゃあ、私は引っかけさせない。正面で一回押す」
「俺は左へ出る。リオは今の場所から」
「分かった」
鎌脚グモが、また近づいてきた。
今度は俺も、前脚だけを見なかった。
胴を支える脚が落ち葉を踏み、身体が右へ傾く。テッサの盾の外へ回りたいらしい。
彼女は追って盾を振らず、足を動かして正面を合わせた。
まず、右の鎌脚が来た。
盾の縁を狙うような動きだったが、テッサが半歩詰め、広い面で受けた。曲がった先端が盾を擦り、硬い音がする。
俺はその反対側へ槍を出した。
胴まで届かせる前に、もう一本の前脚が動く。
槍の横を叩き、外へ払おうとした。
俺は力で押し返さず、短く引いた。
昨日、岩トカゲに使った《返し突き》。穂先を小さく回し、前脚の内側へ入れ直す。
だが、鎌脚グモの脚は、俺が思ったより早く戻ってきた。
二度目の突きは胴まで届かず、脚の付け根近くへ刺さった。
浅い。
それでも、相手の身体がこちらへ傾いた。
「開いた!」
リオの声と、弦の音が重なった。
俺とテッサの間を、矢が抜けた。
持ち上がった前脚の下。頭に近い胴の部分へ、矢羽を残して突き立つ。
鎌脚グモが跳ねるように身を縮めた。
「下がって!」
テッサが盾を向けたまま離れ、俺も槍を引いた。暴れた脚が落ち葉を掻き、切り株の側面へ当たった。
リオはすぐに次の矢をつがえたが、俺たちが離れるまで放たなかった。
鎌脚グモが身体を起こそうとする。
前脚の一本は上がらない。もう一本が地面へ刺さり、胴が横へ傾いた。
二本目の矢が、その横腹へ入った。
動きが弱まっていく。
俺は槍を構えたまま距離を保った。やがて脚が動かなくなってからも、すぐには近づかなかった。
風が木の葉を揺らした。
さっきまで聞こえなかった鳥の声が、ずっと遠くから届いてきた。
「……倒れたね」
テッサが言った。
リオは弓を下ろし、長く息を吐いた。
「前脚が戻る前に射てて、よかった」
「俺は戻るまでに突けなかった」
「でも、こっちへは戻らなかったよ」
リオが、俺の槍を指した。
鎌脚グモは俺を止めるために脚を使った。その分だけ、弓の前が空いた。
俺は穂先を見た。
自分で倒しきれなかったことより、あの一突きが次につながったことが嬉しかった。
◇
周囲を確かめたあと、俺たちは必要な回収を済ませ、道に残った糸を取り除いた。
地面近くの糸は、枝を差し込むと強く絡みついた。靴へ巻きついてから気づいていたら、簡単には走れなかっただろう。
糸の集まっていた木の間も、離れた場所から確かめる。隠れている別の個体は見当たらず、周囲に広がる大きな巣もなかった。
テッサは盾の縁を調べていた。
新しい擦り傷がある。持ち手を引き、腕を回してから、もう一度その傷へ目を向けた。
「昨日できたから、今日もできると思った」
「受け流すやつ?」
「うん。斜めにすれば、横へ行くと思ってた」
彼女は指を曲げ、盾の縁に引っかけてみせた。
「こうなる相手には、同じじゃ駄目なんだね」
「でも、自分で外しただろ」
「引っ張ったら取れなかったから。逆ならどうかなって」
簡単そうに言うが、その間も相手は足を狙っていた。
俺なら、引き戻そうとして腕へ力を込め続けていたかもしれない。
リオは回収した矢を確かめていた。最初に木へ刺さったものは矢尻を点検する必要があり、脚に引っかかったものは曲がっていた。
「二本、うまくいかなかった」
「最後の二本は当たった」
俺が言うと、リオが顔を上げた。
「二人が、空けてくれたから」
「だったら、次も空けるよ」
テッサは盾を背負い直した。
「その代わり、外したら教えて。いつまでも押してられないから」
「うん。言う」
昨日は、俺とテッサがそれぞれ倒した。
今日は、リオの矢が仕留めた。
同じ三人で来ていても、最後に武器を届かせる人間まで、同じである必要はなかった。
◇
道の先に糸が残っていないか確かめながら、依頼で指定された分岐まで歩いた。
木々の間が、少しずつ明るくなる。
やがて林が途切れ、風がまともに頬へ当たった。
「……あ」
先に出たリオが足を止めた。
俺も隣へ並び、思わず声を失った。
丘の下を、大きな川が曲がっていた。
水面に日が散り、白い帆が一枚、その光をゆっくり横切っている。対岸には畑が広がり、さらに向こうの斜面で風車が回っていた。
ベルナの屋根も見える。
街から歩いてきた道が、林の向こうへ隠れたり、畑の間へ現れたりしながら、足元まで続いていた。
「あの船、こないだ乗ったのと同じくらい?」
リオが川を指した。
「そうかも。ここからだと小さいな」
「乗ってる時は、結構広かったのにね」
テッサが額へ手をかざした。
俺は短槍の穂先へ覆いを戻し、柄を持ち直した。
船の上から見た岸と、岸から見た船。同じ川なのに、知っている景色がまた増えた。
食堂で、旅人の話を聞いていた頃を思い出す。
水滴で描かれた道を見て、その先へ行きたいと思った。今なら、あの話に自分の見たものを少し足せる。
林の道には、脚の曲がった厄介なクモがいた。
盾の受け方を間違えかけたが、三人で倒した。
そして、木の向こうには川が見えた。
「帰り、あそこ通れないかな」
リオが指したのは、斜面を下って大きな道へ合流する小道だった。分岐の道標にも、ベルナへ続く道だと書いてある。
俺は持ってきた地図を開いた。来た道より少し長いが、川沿いへ下りられる。
「時間はあるな」
「座って食べる場所もありそう」
テッサが付け加えた。
それなら、そちらでいい。
ギルドへ戻れば報酬がもらえる。傷んだ矢や盾のことも考えなければならない。
けれど、その前に三人で、この景色を見ながら飯を食おう。
俺は地図を畳み、川へ続く道へ足を向けた。




