第73話 扉の向こうに残っていたもの
対岸から見ていた入口は、近づくと俺たち三人が横に並べるほどの大きさだった。
上の石には、太い鑿の跡が残っている。縁に生えた草が風で揺れ、その向こうから冷たい空気が流れてきた。
「ここからは私が先に行く。前に通った場所でも、変わってることはあるからね」
サナが腰の縄を直した。
予定どおり船で中継所へ移動し、一泊した翌朝だった。渡し舟で川を渡り、石運びの道を歩いて、ようやく坑道の入口まで来た。
サナと設備を調べる作業員、それに俺たち三人。
作業員は道具袋から灯りを出し、入口の明るさが残るうちに火を入れた。
リオも集光灯を包んでいた布を外す。
「先に、足元を照らしてくれる?」
サナに言われ、光を低く向けた。
湿った床の上に、小石と枯れ葉が散っている。その先には、荷車の車輪が長く通ったらしい、浅い溝が二本続いていた。
紙に描かれていた線が、目の前で奥へ伸びている。
俺は短槍を持ち直し、サナの後ろへ続いた。
◇
入口からしばらくは、天井の高い通路だった。
壁際には割れた石が寄せられ、ところどころに道具を置くための窪みがある。灯りが動くたび、窪みの中の影も形を変えた。
俺は靴底から伝わるものへ意識を向けたが、分かるのは自分たちの足音くらいだった。
五人で歩いているだけでも、硬い床はよく響く。
足元だけを気にしすぎないよう顔を上げると、サナが分かれ道で止まっていた。
左は低くなり、その先で水面が光っている。
右には階段があった。
「左は行かない。今日は上の二部屋だけ」
サナが言った。
俺たちは右へ向きを変えた。
階段の下には、細かな石屑が溜まっていた。作業員が上を照らし、天井と壁を確かめる。
「この上から落ちたのか?」
「前にも少しあった。ただ、ここまで広がってたかは覚えてない」
サナが答えた。
俺は階段を見上げた。普通の灯りでは、段の奥に影が重なり、石屑がどこから続いているのか分かりにくい。
「リオ、上から順に照らせるか」
「やってみる」
集光灯の覆いが動いた。
光が細くなり、天井から壁へ、それから段の一つ一つへ下りてくる。
途中で、俺は声をかけた。
「そこ。今の段の端」
光が戻る。
階段の右端に、黒い線が走っていた。ひびかと思ったが、よく見ると、角そのものが欠けている。
「左にも向けて」
作業員に言われ、リオが灯りを動かした。
左側の段は、壁まで形が残っていた。
サナが下から棒で確かめ、作業員と相談してから先へ進む。俺たちは間を空け、左側を一人ずつ上った。
テッサは盾を身体に寄せ、壁へぶつけない角度に直した。
「宿の階段より面倒だね」
「手すりもないしな」
「手すり、持ってくればよかった」
「荷物が増えすぎる」
小声で答えると、少しだけ緊張がほどけた。
上り切って振り返る。
光を当てる場所を変えただけで、通れるところが見えた。
宝箱から持ち帰った灯りが、今日は俺たちを次の部屋まで運んでくれていた。
◇
資材庫の扉は、二枚とも閉じていた。
厚い板を鉄の帯で補強した造りで、下の方が黒ずんでいる。左の扉には、以前調べたときのものらしい白い印があった。
作業員は道具袋を置き、錠を確かめた。
「まず、こっちからだ」
鍵を差し込んで慎重に回す。
鈍い音がした。
しかし、取っ手を引いても扉はわずかに動くだけだった。作業員が上と下を順に押し、眉を寄せる。
「錠は外れた。下で引っかかってるな」
「膨らんでる?」
サナが聞く。
「それもあるかもしれん。力任せに引く前に、隙間を見たい」
俺とリオで灯りを低くした。
取っ手側にできた細い隙間へ光を通す。最初は壁しか見えなかったが、作業員が扉を少し揺らすと、奥で何かが明るく光った。
「金具?」
俺が言うと、リオが首を傾けた。
「横に、木もある」
作業員が顔を近づける。
「台か何かが倒れてるな。扉の下に脚が入ってる」
彼は細長い鉤を取り出した。
俺は灯りがずれないよう手を添え、リオと一緒に光を保った。テッサは道具袋を壁際へ寄せ、作業する場所を空ける。
鉤が隙間へ入り、何度か硬い音を立てた。
ようやく何かを捉えたらしく、作業員が腰を引く。
「扉、少し戻してくれ」
サナが押す。
奥で木の擦れる音がして、引っかかっていた物が動いた。
次に取っ手を引いたとき、扉はゆっくり開いた。
冷たい空気と、古い木の匂いが流れ出してくる。
俺は知らないうちに、灯りを持つ手へ力を込めていた。
◇
床へ倒れていたのは、小さな折り畳み台だった。
脚の一つが扉の下へ噛み込んでいたらしい。作業員が脇へ寄せると、その先に細い通路が現れた。
左右には棚が並んでいる。
錆びた金具。柄の折れた道具。輪にして掛けられた縄。
奥の棚には、蓋のない箱もあった。
「思ったより残ってる」
テッサが言った。
「使えるとは限らないよ」
サナは天井と棚の上を確かめてから、壁際へ進んだ。
「まず、倒れてこないかを見る。奥へ手を入れるのは、そのあと」
俺とテッサは入口付近を受け持ち、リオが灯りを向けた。作業員は棚の脚を調べ、緩んだ板を下ろしていく。
一つの棚は、触ると少し傾いた。
中の箱をいきなり引き抜いていたら、上に載った金具まで落ちてきたかもしれない。
空けた床へ布を敷き、確かめた物から順に並べた。
古い縄は、曲げたところで繊維が切れた。見た目はまとまっていても、もう荷を吊れる状態ではない。
小さな滑車は、軸が固まっていた。
ただ、作業員が何度か動かすと、わずかに回り始めた。
「こっちは持ち帰る。軸を外せば、まだ使えるかもしれん」
その言葉に、俺は少し嬉しくなった。
何もかも壊れているわけではない。
埃の下から出てくる物を、一つずつ確かめるのは面白かった。
さっき扉に挟まっていた台も、開くと三本の脚で立った。金具で脚の開きを止める、小さな灯り用の台だった。
作業員が継ぎ目を調べ、床へ押しつけてぐらつきを確かめる。
「これなら、今も使えるな」
「灯りを置いてもいいですか?」
リオが聞いた。
「ああ。平らなところに置けよ」
台へ集光灯を載せると、彼の両手が空いた。
床へ直接置くより高い位置から光が通り、箱の中も見やすくなる。
「これ、持って歩ける大きさだね」
「畳めばな」
俺は台の脚を見た。
便利な道具を見つけると、持ち物が一つ増える。その道具を使いやすくする物まで見つかると、また欲しくなる。
短槍の値札を見ていた頃より、金の使い道がずいぶん広がっていた。
◇
部屋の奥で、テッサが立ち止まった。
「箱、ある」
棚の下に、横長の木箱が収まっていた。
鉄の帯が二本巻かれ、蓋の継ぎ目には布が挟まっている。ほかの箱より床から離して置かれていたせいか、底の傷みも少なそうだった。
俺たちは作業員を呼び、棚の脚を支えてから箱を引き出した。
重い。
だが、石を詰めたような重さではなかった。中で何かが動き、布越しに金属の触れる音がした。
「これ、防具の箱かもしれんな」
作業員が蓋の端を拭った。
留め金は錆びていたが、工具で動かすと外れた。
蓋を持ち上げる。
最初に見えたのは、黒ずんだ布だった。
油を含ませた厚い布が、何重にも折られている。作業員が端をめくると、その下から湾曲した金属が現れた。
テッサが身を寄せた。
「脚のやつ?」
脛当てだった。
一枚の板ではなく、幅の違う金属板を少しずつ重ねてある。膝の下から足首の上までを覆い、下の方は動きに合わせてずれる造りになっていた。
飾りはない。
それでも、縁を滑らかに丸めた形や、小さく揃った留め金を見ると、丁寧に作られた物だと分かった。
作業員は一つを持ち上げ、内側を確かめた。
「革紐と当て布は替えた方がいい。金具は……持ち帰ってから、きちんと見よう」
布の下には、もう片方もあった。
さらに別の組も収まっていたが、そちらは片側が大きく凹んでいる。
俺は最初の一組へ目を戻した。
金属の色はくすんでいた。それでも、表面を軽く拭いたところだけ、灯りが細く映った。
「持ってみてもいいですか」
テッサが聞いた。
声が、さっきまでと少し違った。
作業員が頷き、傷んだ紐を引っ張らないよう注意して渡す。
テッサは両手で受け取り、持ち上げた。
「もっと重いと思った」
「薄く作ってあるからな。その分、何でも受け止められるわけじゃないぞ」
「はい」
彼女は脛当てを自分の脚の前へ添えた。
まだ着けたわけではない。服の上から大きさを比べているだけだ。
それでも、足首の少し上で金属板が重なり、膝を曲げても上端が邪魔になりにくそうだった。
リオがもう片方を見せてもらい、左右を比べた。
「これなら、盾の下に出るところを覆えるね」
「うん」
テッサは、自分の脚から目を離さなかった。
俺は彼女の盾を見た。
最初に会った頃から大きな盾だった。橋鼠を押さえ、負傷したラズを載せ、俺が下がる間に何度も前へ出てくれた。
その後ろにいる俺からは、盾が頼もしく見えていた。
盾の下で踏ん張る脚まで、いつも守られているわけではなかった。
「欲しい?」
聞くと、テッサが顔を上げた。
「……値段次第」
それから、もう一度手元を見る。
「でも、欲しい」
今度は、はっきり言った。
サナが記録板へ書き込んだ。
「購入希望があることは残しておくよ。組合が使うかどうかと、修理したあとの値段を確かめてからだね」
「お願いします」
テッサは脛当てを、ゆっくり布の上へ戻した。
まだ俺たちの物ではない。
直さなければならない場所もある。
それでも、俺にはもう、彼女がこれを着けて歩く姿が少し見えた。
「買うなら、歩いてみてからだな」
「分かってる。階段も上る」
「しゃがめるかも見たいね」
リオが言うと、テッサは頷いた。
「あと、走れるか」
「試すこと多いな」
「脚に着けるんだから、脚が使えないと困るでしょ」
その通りだった。
集光灯の火が揺れ、二つの脛当てに同じ色が映った。
棚の陰に眠っていた物が、机に並ぶ工具と同じように、使うための道具へ戻っていく。
テッサは最後にもう一度、金属板の重なった部分を指で確かめた。
「ノル」
「何?」
「帰ったら、修理代も聞こう」
俺は頷いた。
短槍を欲しがっていたとき、俺もきっと、こんな顔をしていたのだろう。
まだ空いていた回収用の布を広げると、テッサとリオが一つずつ、脛当てを載せた。
今度は、仲間が欲しがる物を持ち帰る。
俺は金属同士がぶつからないよう間に布を挟み、包む手に少しだけ気を配った。




