第72話 持ち帰るための道具
空の木箱というのは、軽いわりによく鳴る。
荷車が石を踏むたび、背後でがたがたと音がした。昨日は金具や縄が詰まっていた箱も、今は重ねて縛られ、ベルナへ帰るところだった。
俺たちも同じだ。
ただ、昨日と違って、今日は自分の足で歩かなければならなかった。
「船って、楽だったんだな」
緩い上り坂で言うと、荷車の向こうからテッサが顔を出した。
「乗るときは、あんなに怖がってたのに」
「足が疲れないことは分かった」
「私も。盾を置いておけたし」
彼女は背負い紐を少し直した。
御者台の男が、振り返らずに笑った。
「上りも楽とは限らんぞ。風が悪けりゃ、馬に引いてもらう。舟を押すことだってある」
「押すんですか」
「浅いところでな。乗ってるだけで帰れると思うなよ」
俺は川を見た。
昨日の船の下には、足を置ける場所など見えなかった。知らずに済んだ仕事もあったらしい。
朝食のあと、俺たちは借りた図を中継所へ返し、帰りの荷を確かめた。木箱のほかに、折り畳んだ運搬台と空の革袋がある。
対岸の坑道については、係員に調査を受けたいと伝えておいた。
募集が始まれば、ベルナのギルドにも依頼が届くそうだ。
今は、この荷車を帰す方が先だった。
◇
川沿いの道は、船から見たときほど平らではなかった。
低い場所では泥が轍に残り、岩の張り出したところでは、荷車一台分まで狭くなる。木々の隙間から見える川は、同じなのに少し遠かった。
前を歩いていたリオが、曲がり角の手前で手を上げた。
「向こうから来る」
御者が手綱を引き、俺たちも足を止める。
しばらくして、鈴の音が聞こえた。岩陰から出てきたのは、荷を背負った二頭の馬だった。
ここではすれ違えない。
御者は少し前に通った広がりへ荷車を戻し、向こうを先に行かせた。
「よく分かったな」
馬が通り過ぎてから聞くと、リオは耳の横を指した。
「鈴が聞こえた」
「俺には、箱の音しか聞こえなかったぞ」
「箱と違う間で鳴ってたから。でも、最初は荷物の金具かと思った」
彼は、今通ってきた馬の背を見た。
「何が来るかまでは、見ないと分からなかったよ」
それでも、曲がり角で鉢合わせる前に止まれた。
俺は足元の石を避けながら、荷車との距離を少し変えた。木箱が鳴る場所から離れると、鳥の声や、岸を打つ水音が聞き取りやすくなる。
見張る場所は、立てば同じというわけでもないらしい。
昼には川から少し離れた広場で休んだ。
パンを割ると、中継所でもらった干し肉の薄切りが挟まっている。昨日の夕食とは違う塩気だった。
「また食べ物の話を書くの?」
テッサが俺の手元を見た。
「覚えてたらな」
「坑道の話は?」
「入ってから」
「じゃあ、帰ってから書くこと多そうだね」
まだ依頼も受けていないのに、もう入るつもりになっている。
俺も同じだったので、指摘はしなかった。
午後の道では、荷の縛り直しに一度止まったほか、大きな問題はなかった。
ベルナの門が見えてきた頃には、三人とも靴に白い土を付け、口数が減っていた。
昨日と同じ川を辿ったはずなのに、今日は歩いた距離が全部、脚に残っていた。
◇
荷車を指定の倉庫へ送り届け、ギルドで二日分の完了報告を済ませた。
受け取った報酬から、旅の間に使った分を確かめる。残った硬貨を袋へ戻すと、いつもより少し厚みが増した。
鉄札になって初めて受けた仕事が、終わった。
テッサは財布の口を結び、依頼板へ目を向けた。
「見る?」
「明日でいい」
俺が答えると、リオも頷いた。
「今日は図を見ても、川の線しか頭に入らなさそう」
宿へ戻る前に、三人で温かい煮込みを食べた。
椅子へ座っているだけなのに、足が喜んでいる気がした。
翌朝、俺たちは改めてギルドへ向かった。
中継所の仕事を探していると受付で伝えると、職員が、届いたばかりの依頼票を一枚出してくれた。
《旧採石坑道・通路確認及び資材庫調査補助》
紙の下には、見覚えのある入口と階段が描かれていた。
「あった」
リオが、小さく言った。
調査をするのは、中継所で話した女の冒険者と、設備を調べる作業員。それに護衛と搬出補助を兼ねる三名を募集していた。
必要な資格は、鉄札以上。
俺はその文字を、今度は読み飛ばさずに見た。
少し前なら、そこで紙を戻していたはずだった。
「前に行った人と一緒なんだね」
テッサが依頼票を覗き込んだ。
「はい。現場案内はサナさんです。出発は明後日。中継所へ移動して一泊し、翌朝から調査を行います」
職員が図を指した。
今回調べるのは、入口から階段上の資材庫までだった。低い場所にある水没した通路は対象外。資材庫へ行く道が使えなければ、そこで調査を止める。
前回、扉を開けなかったのは、無理に壊せば閉じ直せなくなるおそれがあり、道具も足りなかったからだという。
今回は作業員が、開閉できる状態へ戻せるか調べる。
「中に、何があるか分かってるんですか」
俺が聞くと、職員は別の紙を重ねた。
「古い備品の記録は残っています。ただ、閉鎖するときに運び出した物もありますので、記録どおりとは限りません」
記載されていたのは、滑車、測り具、灯り、工具。
その下には、坑内作業用の防具という項目もあった。
「防具?」
「腕や脚を守る物ですね。小さな落石や、運ぶ石の角から身体を守るための装備です」
テッサが自分の脛を見た。
俺も、坑道の柱に足をぶつけそうになったときのことを思い出した。
剣や槍だけが、外で役に立つ道具ではない。
「残ってたら、売るんですか?」
テッサが聞いた。
「まずは持ち主である組合へ報告します。再利用する品と保管する品を選び、処分する品は査定に回します」
「買うことは?」
「売却対象になれば。回収した方が購入を希望する場合は、先に相談を受ける条件になっています。ただし、価格が合うかどうかは別ですよ」
無料でもらえるわけではない。
それでも、自分たちが見つけた物を、次の冒険で使えるかもしれないというのは、少し嬉しかった。
「灯りは、もうあるね」
リオが俺を見た。
「ああ。今度はあれを持っていこう」
俺たちは注意事項と日程を確かめてから、三人分の名前を書いた。
◇
準備のために道具屋へ入ると、欲しい物が急に増えた。
濡れた場所で使う袋。腰へ下げられる小さな灯り。刃の短い作業用ナイフ。底に鋲を打った靴まである。
鉄札になって報酬が増えても、使い道も一緒に増えるらしい。
テッサは大きな背負い袋を持ち上げた。
「いっぱい入りそう」
「盾はどうする?」
「……そっか」
袋を戻し、今度は腰へ付ける小さな物を手に取る。
リオは矢筒とぶつからないかを確かめていた。俺も短槍を持つ手が塞がることを考え、背負う荷物を増やしすぎないようにする。
結局、買い足したのは予備の灯油と、口を折って留められる小さな袋、それから包むための丈夫な布だった。
大きな搬出用の袋や開扉の道具は、依頼主が用意する。
俺たちは、すぐ使う分を自分で持てればよかった。
店を出たところで、テッサが袋の口を開いた。
「まだ何も入ってない」
「買ったばかりだぞ」
「帰りには、何か入ってるといいね」
その言い方に、俺も中を覗いてしまった。
空っぽだった。
今は、それが少し楽しみだった。
◇
宿へ戻ってから、集光灯を机へ出した。
保護用の布をほどくと、古い金属の表面が現れる。迷宮の宝箱から見つけ、三人で持つと決めた灯りだ。
油を足し、芯を確かめて火を入れる。
明るくなったところで覆いを動かすと、壁へ落ちた光が細くまとまった。
テッサが離れた場所に立ち、袋から布切れを少しだけ出した。
「見える?」
「見える。白いやつ」
「じゃあ、こっち」
今度は椅子の後ろへ隠す。
光を向けても、椅子の陰は暗いままだった。俺が横へ動くと、ようやく布の端が見えた。
「光が強くても、隠れてたら見えないか」
「弓と一緒だね」
リオが言った。
「通るところがないと、届かない」
俺は灯りを机へ戻した。
槍を持ち、灯りを持ち、さらに袋まで抱える。その姿を想像すると、何かが来たときに全部落としそうだった。
「移動するときは、誰が持つ?」
聞くと、リオが手を挙げた。
「見通しの悪い通路では僕が持つよ。射つ必要が出たら、置く場所を探してから弓に替える」
「暗くなったら困るから、置く前に言って」
テッサが答えた。
「うん。もう一つの灯りも使おう。これだけにしないで」
俺たちは普通の灯りも机へ並べた。
集光灯で先を見れば、足元はもう一つで照らす。近くを見るときは覆いを開く。
試しているうちに、三人の立つ場所まで少しずつ決まってきた。
テッサが盾を持って前へ出ると、灯りの半分が隠れた。
「そこだと、私の背中がよく見えるね」
「盾もな」
「奥を照らしてよ」
リオが半歩ずれた。壁に、細い光が通った。
俺はその隣へ立ち、短槍を持つつもりで手を動かした。肘が灯りに近すぎたので、さらに位置を変える。
まだ部屋の中だ。
それでも、ただ荷物を鞄へ詰めるより、明後日からの仕事が少し身近になった。
試し終えて机へ戻ると、依頼の説明に使った図の写しを広げた。
階段の先に、四角い部屋が二つある。
中には何も描かれていない。
空の部屋なのではなく、まだ確かめていないからだ。
「何が欲しい?」
テッサが図を覗き込みながら聞いた。
「使える物」
「それ、広すぎない?」
「実物を見ないと分からないだろ」
「私は、足をぶつけても痛くないやつ」
「ぶつけない方がいいと思う」
リオに言われ、彼女は小さく唸った。
俺は笑いながら、集光灯の向きを変えた。
紙の上の資材庫が明るくなる。
この灯りを拾ったときも、箱を開けるまでは何が入っているか知らなかった。古びていて、煤で汚れていて、それでも手を入れれば、これから使っていける道具だった。
あの扉の向こうにも、そんな物があるかもしれない。
テッサが買ったばかりの袋を、机の端へ置いた。
リオは図の階段を指で辿り、俺はその先へ光を向けた。
明日は、残りの道具を確かめる。
その次は、もう一度あの川へ。
今度は、岸から入口を眺めるだけで終わらない。




