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第71話 岸から見ていた景色

 船へ足を乗せた瞬間、地面が逃げた。


 正確には、船が少し沈んだだけだった。


 それでも俺は、桟橋へ残していた足を慌てて動かし、船縁を掴むことになった。


「まだ出てないよ」


 背後からテッサが言った。


「分かってる」


「今からそれだと、川に出たらどうなるの?」


「今、確かめてる」


 船頭が荷縄をまとめながら笑った。


「乗ったら腰を落とせ。桟橋と船に片足ずつ残す方が危ない」


 言われた通り、両足を船へ移す。板の上に立っているのに、その下から別の動きが伝わってきた。


 リーヴェでも荷船は見ていた。川を進む船なら、何度も見送っている。


 乗る側になると、知らないことばかりだった。


 ◇


 鉄札を受け取った翌日は、装備の手入れと旅支度に使った。


 右腕の痛みも引き、荷物を持って動かしてみても支障はない。ガルドへの手紙は、夕食に何を食べたかまで書き足して、リーヴェへ向かう便に預けた。


 そして今朝、俺たちは川下の中継所へ向かう荷船に乗っていた。


 運ぶのは補修用の金具と縄、それから滑車や道具の柄だった。今日のうちに届け、中継所で一泊する。明日は回収する空の運搬具を荷車へ積み、川沿いの道からベルナへ戻る予定だ。


 俺たちの役目は、移動中と荷下ろし中の警戒だった。


 船の扱いは船頭と船員に従う。勝手に舵や帆へ触らない。川へ何かを落としても、飛び込まない。


 最後の注意を聞いたテッサは、荷台脇へ固定した盾の紐を引き直した。


「それ、すぐ取れる?」


 俺が聞くと、彼女は結び目を指した。


「ここを引けば外れる。立てておくと風を受けるから、寝かせろって」


 盾を背負って狭い船の上を歩くより、ずっと動きやすそうだった。


 俺の短槍も、穂先に覆いを付けて、手の届く場所へ留めてある。剣と短剣は腰に残したが、座ったときに鞘が引っかからない位置へ直した。


 リオは弓を濡らさないよう包みを掛け、矢筒の口を確かめていた。


「すぐ射てるようにしなくていいのか?」


「水をかぶったら困るから。今は、周りを見る」


 彼の視線が船縁の向こうへ動く。


 船頭の声で、岸にいた男が縄を外した。


 船員が竿を押す。船と桟橋の間へ水が入り、見えていた木の杭が、ゆっくり後ろへ流れ始めた。


 俺は思わず顔を上げた。


 町が動いている。


 そんなはずはないのに、最初はそう感じた。


 荷を担ぐ男も、倉庫の扉も、さっきまで立っていた桟橋も、俺たちを残して遠ざかっていく。水の音が船底の下へ回り込み、風が頬へ当たった。


「出たね」


 テッサが言った。


「ああ」


 今度は、返事がすぐ出た。


 岸から見ていた船に、俺が乗っている。


 そのことが嬉しくて、しばらくは足元の揺れまで気にならなくなった。


 ◇


 ベルナの建物が途切れると、川沿いには畑と低い林が続いた。


 岸へ下りた牛が水を飲み、草の間で白い鳥が首を持ち上げる。遠くに見える風車は、町から眺めたものより小さかった。


 歩いていれば、道の曲がり方や足元ばかり気にしていたかもしれない。


 川の上からは、畑の向こうで働く人の姿まで見えた。


「あそこ、道がない」


 テッサが対岸を指した。


 木々の間に、小さな家が一軒あった。岸へ張り出した短い桟橋に、細い舟が繋がれている。


「買い物も舟なのかな」


「たぶんな」


「帰りに縄を忘れたら困るね」


「何で縄なんだよ」


「今、積んでるから」


 彼女は足元の縄の束を軽く叩いた。


 俺たちにとっては運ぶ荷物でも、届く先では、なければ困る物なのだろう。


 水路で拾った小槌を、何度も握り直していた作業員の顔が浮かんだ。


 そのとき、船の腹へ波が当たった。


 左へ傾いた板を踏み直す。戻ろうとして足へ力を入れると、今度は船が反対へ揺れた。


 身体だけが遅れて残る。


「うわ」


 荷箱の角へ手をつき、どうにか踏みとどまった。


 テッサも膝を曲げ、近くの柱を掴んでいる。リオは最初から座っていたので、矢筒を押さえただけだった。


「下流から来る船の波だ」


 船頭が顎を向けた。


 川の反対側を、荷を積んだ船が上ってきていた。岸の道を歩く馬が、長い縄で引いている。


「波が来るたびに立ち直ろうとするな。足を固めると持っていかれるぞ」


 俺は掴んでいた箱から手を離した。


 地面が動いたら、そこから離れる。


 今までなら、まずそう考えた。


 ここでは船全体が動く。揺れないところを探しても、船の外には水しかない。


 試しに膝の力を少し抜いた。板が持ち上がるのに合わせて、腰がわずかに上下する。


 さっきよりは楽だった。


 だが、揺れが収まったところで余計な一歩を出してしまい、テッサの靴を踏みかけた。


「まだ動いてる?」


「俺だけ」


「そっか」


 笑われたが、言い返せなかった。


 足裏から伝わるものを感じられても、それに身体を合わせられるとは限らないらしい。


 ◇


 昼前、川幅が狭くなった。


 両岸の木々が近づき、船頭が帆を絞るよう指示した。船員が縄を引き、布の膨らみが小さくなる。


 俺たちは荷物の間に決められた位置へ座り、岸と前方を見ていた。


 リオは対岸の枝へ目を留めてから、水面を見た。


「上では風があるのに、ここはあまり吹いてないね」


「分かるのか?」


「あの枝は揺れてる。でも、船の横の水は細かく波立ってない」


 風車の丘でも、彼は布や草を見ていた。


 同じ風でも、射つ場所と、矢が通る場所で違うのかもしれない。そう話してから、リオは包んだままの弓を見下ろした。


「岸へ射つなら、船が進む分もあるんだよね」


「当てられそう?」


 テッサに聞かれ、彼は首を振った。


「まだ分からない。試す場所を決めて、練習したい」


 その返事を聞いていると、船頭が前へ声を飛ばした。


「右から枝が出てる。顔を下げろ!」


 岸へ張り出した木の枝が、思っていたより近かった。


 俺たちは屈む。細い枝先が帆の下を擦り、葉が何枚か甲板へ落ちた。


 船員が竿を水へ差し、船を岸から離す。


 船の向きが変わったとき、積み荷の奥で木が鳴った。


 小さな木箱が、半歩ほど横へ動いていた。


「箱、動いた!」


 テッサの声で船員が振り返る。


 結び目はほどけていない。ただ、箱の下に入れていた当て木がずれ、荷縄に余裕ができたらしい。


 俺は押さえようと腰を上げた。


「手を挟むな。その箱は触るな!」


 船員に止められ、伸ばしかけた手を戻した。


 箱と船縁の間は狭い。次に傾けば、指を挟まれるところだった。


 テッサが近くにいた船員へ声をかけた。


「私たち、どこへ退く?」


「真ん中へ寄れ。足元の輪になった縄は踏むなよ」


 彼女が先に動き、俺が続いた。リオは船頭の視界を塞がない場所へ身を寄せながら、船首の先を見ている。


 船員は別の縄を箱の取っ手へ通した。


「そっちの輪を、柱に掛けてくれ。引くのは俺がやる」


 俺は受け取った輪を柱へ掛けた。縄を手首へ巻きつけず、指示された側へ離れる。


 船員が荷を引き寄せ、当て木を入れ直す。その間、テッサは通路に転がった木片を拾い、彼の足が動く場所を空けた。


「前、空いてる」


 リオが言った。


 船頭から短い返事がある。


 新しい縄が締められ、箱は動かなくなった。


 ほんの短い間だったのに、俺は座り直してから息を吐いた。


「すみません。勝手に押さえそうになりました」


「慣れてないと、そうする。止まってくれりゃいい」


 船員は箱を揺すって確かめた。


「手を怪我されると、明日の荷車まで困るからな」


 俺は右手を開いて閉じた。


 鉄札になって最初に覚えた船の仕事は、動く箱へ手を出さないことだった。


 格好よくはないが、指は全部あった。


 ◇


 午後になると、岸の景色が変わった。


 林の向こうから白い岩壁が現れ、川を挟むように高くなっていく。水面にも淡い色が映り、船の脇を滑っていった。


 曲がり角を越えた先に、幾つもの桟橋が見えた。


 岸には倉庫が並び、太い柱から荷上げ用の滑車が下がっている。少し離れた建物の煙突から、細い煙が上がっていた。


「あそこが中継所だ」


 船頭が言った。


 船が桟橋へ近づくと、岸の人間が縄を受け取った。船員の指示で、俺たちは荷下ろしの通路から退く。


 ようやく岸へ上がっても、しばらく地面が揺れている気がした。


 テッサが隣へ立つ。


「今は?」


「もう、俺だけじゃないと思う」


「うん。私も」


 リオまで、少し広く足を開いていた。


 誰も笑わなかった。笑うと、その分だけ身体が傾きそうだった。


 荷下ろしの間は、俺とテッサが船と倉庫の間を見張り、リオが受け取る側と声を交わした。


 縄の束が運ばれ、金具の箱が台車へ載せられる。最後の荷物を数え終えると、依頼主の係員が受領の控えへ印を押した。


 今日の分は、これで終わりだった。


 明日の出発時刻と泊まる部屋を教わり、俺たちはようやく荷物を下ろせた。


 ◇


 夕食まで少し時間があったので、中継所の桟橋を見て回った。


 対岸の白い岩壁に、細い道があることに気づいたのは、そのときだった。


 川面からそれほど高くない場所を、石積みが横に走っている。途中で崩れた箇所もあったが、奥には黒い穴が見えた。


「道?」


 俺が足を止めると、リオも対岸を見た。


「入口みたいなのがあるね」


「昔の石運びの道だよ」


 背後から声がした。


 振り返ると、短く髪を切った女の冒険者がいた。日に焼けた上着を着て、腰には剣と巻いた縄を下げている。


 俺たちが見ていた先を、彼女も眺めた。


「あの穴の中で石を切って、川まで出してた。今は使ってない」


「採石場だったんですか」


「そう。私は、この中継所から出す調査の護衛で何度か入った」


 彼女は俺たちの札を見てから、泊まる建物の方へ顎を向けた。


「興味があるなら、食堂の壁に調査図があるよ。奥までの図じゃないけど」


 食堂ではまだ卓を拭いているところだった。


 壁には川沿いの見取り図と、古い坑道の調査記録が貼ってある。係員に断って、閲覧用の写しを一枚借りた。


 入口から先は、俺が思っていたより広かった。


 荷を置いていた部屋。水の溜まった低い通路。階段を上った先には、まだ空白が残っている。


「ここは?」


 テッサが指した場所には、小さな四角が幾つか描かれていた。


「資材庫。扉が固まってて、前の調査では中まで確かめてない」


 ついてきた女が答えた。


「使える道具が残ってるかもしれないし、湿って全部駄目かもしれない。まずは通路と建物を調べ直すところからだね」


「入れるのは、鉄札からですか?」


「募集が出たら条件を見な。水位と調べる範囲で変わるから」


 彼女はそう言って、食堂の奥へ向かった。明朝も仕事があるらしく、先に食べて休むのだという。


 俺たちは写しを持って桟橋へ戻った。


 夕日が白い岩壁を染めていた。水面の光が揺れるたび、黒い入口の下で石が細く光った。


 図を見てから顔を上げる。


 あの暗がりの先に、荷を置く部屋がある。その上には階段が続き、まだ誰も確かめていない場所が残っている。


「中、涼しそうだね」


 テッサが言った。


「水があるなら、寒いかも」


 リオが図の低い通路へ指を置く。


「灯りを濡らさないようにしないと」


「この前の集光灯、奥を見るのに使えそうだな」


 俺が言うと、二人が頷いた。


 拾ったときは、どう使うかを試すだけで楽しかった。


 今は、その灯りで見てみたい場所ができていた。


「明日は帰りの護衛だぞ」


 自分にも言い聞かせるつもりで言った。


「分かってる。帰ってから、また来ればいいでしょ」


 テッサの返事に、俺は対岸を見たまま笑った。


 そうだ。


 今日、全部行く必要はない。


 戻って、仕事を終え、次の依頼を選べばいい。


 川向こうの入口を指で確かめるように、借りた図の端を押さえた。


 朝、ベルナの桟橋を離れるときは、船に乗れたことだけで嬉しかった。


 今は、もう一度この川を下ってくる理由までできていた。

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