第64話 橋の向こうを照らすもの
地下の川を見つけた日は、橋を渡らず帰った。
戻る途中で、何度か振り返った。あの先まで行けば何があるのか、考えないわけではなかったが、今日は橋の手前までと決めていた。
町へ戻ってから、ギルドで対岸の記録を見せてもらった。
橋の先には川沿いの回廊があり、右へ進むと行き止まりの小部屋、左へ進むと奥へ続く分岐がある。少なくとも前回の調査では、橋そのものを通ることはできたらしい。
ただし、欠けた欄干と濡れた路面には注意、と添えられていた。
翌朝、俺たちは再び、その橋の手前に立っていた。
「昨日より長く見える」
テッサが言った。
「渡るつもりで見ると、そうなるな」
離れて眺めていたときには、川と青い光に目を奪われていた。近づくと、石の継ぎ目や、途中でなくなった欄干の方が気になる。
幅は二人で並べるくらいある。ただ、途中には天井から水が落ち、路面の片側が黒く濡れていた。
俺は橋の入口から、見える範囲を確かめた。
すぐ前の石は欠けていない。だが、それだけで向こうまで大丈夫だとは言えない。
足裏へ意識を向けると、川の響きなのか、ごく弱い震えが感じられた。以前なら、何か分かるまで立っていたかもしれない。
今日は顔を上げた。
「足の感じだけじゃ分からない。見えるところから確かめていこう」
「うん。あそこ、濡れてない道がある」
リオが橋の中央を指した。
濡れた部分の脇に、細く乾いた帯が残っていた。その先は、橋の緩い傾きに沿って左へ移っている。
「真っすぐじゃないんだな」
「水が落ちてくるところを避ければ、そこを歩けそう」
彼は橋の上だけでなく、天井も見ていた。
水滴は同じ場所へ落ち続けている。川から跳ね上がった水で濡れているのかと思っていたが、上にも見る場所があった。
俺は頷き、短槍を持ち直した。
「俺が先に行く。途中で止まっても、詰めすぎないでくれ」
「盾も横にしない方がいいね」
テッサは背中の留め具を確かめたあと、盾を左腕へ移した。身体の脇へ寄せると、背負っているときより幅が狭くなる。
リオは最後尾につき、来た道も確かめた。
俺たちは間を空けて、橋へ入った。
◇
歩き始めると、水音が足の下から聞こえた。
川は、上から眺めていたときより速かった。岩にぶつかった白い泡が、橋の下へ吸い込まれていく。
俺は一度だけ見下ろし、すぐ前へ目を戻した。
足を置く場所は、川の中にはない。
「次、少し左」
リオの声に合わせ、乾いた部分へ寄る。
橋の中央へ近づくにつれ、風も強くなった。広い空洞を渡ってきた空気が、欄干の欠けたところから抜けていく。
テッサが足を止めた。
盾の端が、わずかに動いている。
「風、こっちから」
彼女は盾の面を少し回し、風を受ける幅を減らした。肩を固めて耐えるより、そちらの方が楽らしい。
「進めるか?」
「うん。今なら」
俺も歩き出した。
風吐きトカゲを相手にしたときには、風を避ける柱があった。ここでは、持っている盾の向きまで考える必要がある。
大きければ便利、というだけではないらしい。
橋の一番高いところを越えた先で、石が一枚、周りより低くなっていた。
その窪みに水が溜まっている。
俺は手前で止まり、左側を見た。濡れてはいないが、すぐ横の欄干が途切れていた。右には石が残っているものの、表面に薄い苔がついている。
跨げない距離ではない。
そう思ってから、踏み込んだ縁を崩したダンの話を思い出した。
「ノル、右の端」
リオが言った。
彼の指す先を見ると、苔のある石の外側に、靴一足分ほどの乾いた場所が残っていた。その先も、対岸まで続いている。
「そっちは高くなってる。水が流れてこないんだ」
俺は腰を落とし、明かりを近づけた。
石の縁に大きな割れは見えない。水たまりを飛び越すより、小さく足を運べそうだった。
「そっちを通る」
短槍の穂先が欄干へ当たらないよう立て、身体を横へ向けた。足を置き、体重を移し、次の石へ進む。
向こうへ渡って振り返ると、テッサも同じように盾を身体へ寄せていた。
「引っかからない?」
「大丈夫。今は盾より鞄が邪魔」
俺は対岸寄りの広いところまで下がり、彼女が抜ける場所を空けた。
最後にリオが通る。足元ばかり見ず、ときどきこちらを見て位置を確かめていた。
三人とも渡り終えると、テッサが橋を振り返った。
「帰りも、ここだよね」
「ああ。今の場所、覚えておこう」
俺は図面の余白へ、水の溜まった位置を書き込んだ。
その隣に、リオが短く付け足す。
右側、乾いている。
あとで水の落ち方が変わっていたら、同じようには通れない。それでも、何も知らずに戻るよりはよかった。
◇
対岸の回廊は、橋から見るより広かった。
川に面した側には腰ほどの石壁があり、反対側には浅い窪みが並んでいる。かつて何かを置いていたようにも見えたが、残っているのは石屑ばかりだった。
右へ進むと、図面にあった小部屋が見えてきた。
入口の片側に、崩れた石が積もっている。俺は灯りを高くして奥を照らした。
動くものは見えない。床も、入口から奥まで続いていた。
「左を見る」
「じゃあ、右」
テッサと場所を分け、リオには入口側を見てもらった。
部屋の隅には、古い木片が散らばっていた。空になった箱の一部らしい。金具も赤く錆び、拾って売れそうには見えなかった。
「誰か、先に来てたね」
「地図にもある場所だからな」
テッサは残念そうに木片を見たが、蹴ったりはしなかった。
俺は壁の窪みを覗き、何もないのを確かめて入口へ戻った。
そのとき、リオが呼んだ。
「こっち、まだ続いてる」
彼は部屋の中ではなく、入口脇の崩れた石を見ていた。
一番大きな岩の向こうに、人が横向きで通れる隙間があった。正面から見ると壁に見えるが、川側へ回ると、その奥に床が続いている。
「地図の部屋は、ここまでだよな」
俺が紙と見比べると、リオは頷いた。
「新しい通路っていうより、同じ部屋の後ろ側みたいだ。天井も続いてる」
明かりを向けると、数歩先に壁が見えた。崩れた岩によって、部屋の端が仕切られているらしい。
その壁際に、小さな箱があった。
黒ずんだ木に、鈍い色の金具。蓋の上には石の粉が薄く積もっている。
俺たちは、しばらく黙って見た。
「……箱だね」
「箱だな」
「今度は、中身あるかな」
テッサの声が、少しだけ弾んだ。
俺も同じことを考えていた。
◇
隙間へ入る前に、周囲の石を確かめた。
無理に動かす必要はない。足元の小石を除ければ、荷物を引っかけずに通れそうだった。
リオが入口に残り、俺とテッサで奥へ進む。
箱の周りに糸や仕掛けらしいものは見えなかった。ただし、見えないから何もないと言い切れるほど、俺たちは詳しくない。
蓋と側面の継ぎ目、床との間を順に照らした。錠はなく、留め金だけがかかっている。
「開けるぞ」
テッサが一歩離れたところで頷いた。
留め金を外し、蓋をゆっくり持ち上げた。
蝶番が小さく鳴った。
中には、布に包まれた丸いものが一つ入っていた。
金貨ではなかった。剣でも、手甲でもない。
布の端を退けると、真鍮色の持ち手が現れた。その下には、ガラスを金属枠で囲った小さな胴体がある。
「灯り?」
テッサが覗き込んだ。
手に取ると、普通の携帯灯より少し重かった。正面には厚い丸いガラスがあり、左右には動かせそうな覆いがついている。
底には油を入れる部分と、芯を上下させるつまみがあった。
見慣れた仕組みと、見慣れない形が一緒になっている。
「リオ、灯りが入ってた」
声をかけると、隙間の向こうから顔が見えた。
「使えそう?」
「まだ分からない。でも、割れてはいない」
俺は布ごと持ち上げた。
空になった箱の底も確かめたが、ほかには何もなかった。
それでも、蓋を閉めるときには、さっきより指先に力が入っていた。
自分たちで見つけ、自分たちで開けた箱だ。
その中から、持って帰れるものが出てきた。
階段の上にあった宝箱を開けたときと同じように、今すぐ使い方を知りたくなった。
◇
回廊の広い場所へ戻り、石の台に灯りを置いた。
油の入れ物に亀裂はなく、芯も残っていた。持ってきた油を少しだけ移し、漏れないか待ってから火をつける。
小さな炎がガラスの中に立った。
「ついた」
テッサが嬉しそうに言った。
俺も頷いたが、その次に何が起きるのか待ってしまった。
特に何も起きなかった。
炎は普通に揺れ、周りを照らしている。
「……普通の灯り?」
「それでも使えるだろ」
そう答えながら、俺も少し期待していた。
リオが横のつまみを示した。
「これ、動くよ」
灯りを押さえ、つまみをゆっくり滑らせる。
左右の覆いが閉じ、周りへ漏れていた光が減った。その代わり、正面の丸いガラスの先だけが明るくなる。
俺は思わず壁へ向けた。
離れた石の表面に、丸い光が映った。
「そこまで届くのか」
持ってきた灯りを同じ位置へ置いてみる。
こちらは手元と周囲が明るい。見つけた方は周りが暗くなる分、向けた先の石の継ぎ目まで見やすかった。
リオがもう一度つまみを動かした。
丸い光が広がる。明るさは薄くなったが、今度は壁の広い範囲を見渡せた。
「狭くも、広くもできる」
「上にいるやつを探すとき、よさそうだね」
テッサが天井を見た。
「あと、穴の奥。顔を近づけなくても見える」
俺は橋の窪みを思い出した。これがあれば、手前からもっとはっきり見られたかもしれない。
ただ、光を狭くすると、足元は暗くなる。
「前だけ照らして、転ぶなよ」
「ノルが持つんじゃないの?」
「だから、言ってくれ」
「じゃあ、足元」
見ると、俺の靴のすぐ前に、空けた布が落ちていた。
俺は黙って拾い、二人が笑った。
魔法の道具なのか、ガラスと内側の仕組みだけでこうなるのかは分からなかった。帰ったら鑑定で聞いてみよう。
けれど、使う場面はもういくつも浮かんでいた。
先の足場を見る。岩棚を照らす。暗がりの中で、何かが動かなかったか確かめる。
リオが壁へ光を向けたまま、少し顔を近づけた。
「ここ、模様がある」
斜めから当たる光の中に、浅く刻まれた線が浮かんでいた。
橋のような弧。その下に、幾本もの波線。
飾りなのか、何かを示しているのかは分からない。だが、さっき部屋へ入ったときには、ただの傷だと思って見過ごしていた。
テッサが、実際の橋と壁を見比べる。
「これ、あの橋かな」
「似てるな」
俺は紙を出し、見える線を写した。
新しい道具を手に入れた、その場で、さっきまで見えていなかったものが見つかった。
それが妙に嬉しかった。
「誰のにする?」
テッサが聞いた。
俺とリオは顔を見合わせた。
「三人のでいいんじゃないか」
「うん。必要な人が持とう」
「じゃあ、売らない方で決まりね」
反対する者はいなかった。
川の向こうには、今朝歩いてきた道が見えている。帰りには、あの濡れた石をこの灯りで照らせる。
その先も、何度も使うだろう。
俺は壁に映る丸い光を、もう少しだけ上へ動かした。
武器の入っていない宝箱も、悪くない。
次に暗い通路へ入るのが、少し楽しみになっていた。




