第62話 風を受けない盾
二度目の風は、最初と違う方向へ飛んだ。
灰色の魔物は喉を膨らませたまま首を動かし、柱の陰から出てきた岩トカゲを追った。前脚が床を掴み、口が開く。
枯れ葉が舞い上がった。
小さな身体は石の向こうへ逃げ込んだが、その後ろの砂まで吹き払われた。壁へ当たった風が回り込み、俺たちのいる階段にも乾いた匂いを運んでくる。
「膨らんでからも、向きを変えるな」
俺が囁くと、リオが頷いた。
「でも、吐いてる間は脚を動かしてない」
魔物は口を閉じたあと、少し遅れて前脚を踏み替えた。
確かに隙はある。
ただし、喉が膨らんだ瞬間に走り出せば、そのまま顔を追ってくる。思っていたより早く隠れる必要がありそうだった。
テッサが、入口に近い太い柱を見ていた。
「風が来る前に、あそこへ入れればいいんだよね」
「柱の裏か?」
「うん。盾で受けるんじゃなくて、柱に当てる」
彼女は少し考え、それからこちらへ向いた。
「今日は帰ろう。腕が疲れたまま、走る場所まで決められない」
俺は頷いた。
見たいものは見た。次に必要なのは、ここで勇気を出すことではなかった。
俺たちは柱の位置と、入口までの床を目に焼きつけてから、静かに枝道を戻った。
◇
ギルドで特徴を伝えると、魔物の名前はすぐに分かった。
風吐きトカゲ。
喉にある袋へ空気を取り込み、魔力を伴う風として吐き出す魔物だという。
記録には、牙と爪に加えて、尾にも注意するよう書かれていた。風を吐かせれば必ず休むわけではなく、近くに敵がいれば、そのまま噛みついてくることもあるらしい。
「風を避けたあと、走って近づけばいいってものでもないな」
俺が言うと、テッサは卓上の図面へ小石を置いた。
柱のつもりらしい。
「だから、近くまで来てもらう」
小石の手前へ銅貨を一枚。その横へ、もう一枚置く。
「私が見えるところへ出る。こっちを向いたら柱に隠れる。風を吐かずに追ってきたら、そのまま柱を回る」
「俺は反対側?」
「うん。でも、すぐ突かないで。私がどっちへ動くか言ってから」
テッサが銅貨を動かすと、俺の置く場所も変わった。
近すぎれば、柱を回った彼女とぶつかる。遠ければ、敵が止まっている間に届かない。
リオが少し離れた場所へ指を置いた。
「僕は入口寄り。二人が重なってたら射たない。こっちへ来たら階段まで戻る」
俺たちは何度か硬貨を動かした。
図面の上なら、魔物も素直に動いてくれる。実物はそうはいかない。それでも、何か起きるたびに三人で別々の方向へ逃げるよりはよかった。
「最初に柱まで行けなかったら?」
俺が聞く。
「階段へ戻る」
「柱の周りに別の魔物がいたら?」
「そっちを片づけるか、今日はやめる」
テッサは答えてから、銅貨を一枚つまんだ。
「あと、これ私のだからね」
「作戦が終わったら返すよ」
リオが笑った。
俺も笑い、手元の硬貨を彼女の方へ押した。
◇
翌日、風吐きトカゲは同じ部屋にいた。
中央の岩から下り、折れた柱の根元へ腹をつけている。昨日の岩トカゲは見当たらなかった。
俺たちは上から周囲を確かめ、入口の石壁に隠れて荷物をまとめた。戦う間に必要のない鞄は、帰り道を塞がない位置へ置く。
リオが矢を確かめ、右手の指掛けを締め直した。
テッサは盾を身体へ寄せ、短く息を吐く。
「行くよ」
階段を下り、左の壁沿いに進む。
柱までは数歩だった。
俺は彼女の後ろを通り、柱の右側へ入った。リオは入口に近い石の陰で止まる。
床の石は動かなかった。だが、細かい砂が載っている。俺は足を一度置き直し、踏み込む向きを確かめた。
テッサが柱の左側へ盾を見せた。
風吐きトカゲの頭が上がった。
丸い目がこちらを向く。
腹が床から離れ、太い前脚が一歩出た。
「来る」
テッサが柱へ寄る。
魔物は歩いた。
喉は膨らまない。
爪が石を掻く音が近づき、頭が盾のあった場所へ向いた。
次の瞬間、身体が低く滑った。
「右へ回る!」
テッサが柱の裏を通る。俺は彼女へ場所を譲り、さらに一歩下がった。
牙が石の縁を擦った。
思った以上に速い。
魔物は止まらず、頭をこちらへ回そうとした。俺は穂先を向けたが、突く前に長い尾が床を払った。
足を引く。
尾の先が靴のあった場所を通り、砂が跳ねた。
危なかった。
「近すぎる!」
俺が言うと、テッサは盾を向けたまま柱から離れた。
魔物も、すぐには追わなかった。
首の下で、青灰色の皮が持ち上がる。
「膨らんだ!」
リオの声。
テッサが柱の裏へ戻り、俺も身体を隠した。
重い音がした。
風が柱へぶつかり、両側から砂が流れ込んでくる。俺は目を細め、顔を腕で覆った。
柱の裏でも、何も来ないわけではない。
それでも、身体ごと吹き飛ばされるような力は届かなかった。
「まだ!」
テッサが止めた。
俺は踏み出しかけた足を残した。
石を擦る風の音が、少しずつ弱まる。
「今!」
柱の右側へ出る。
魔物は口を閉じかけ、前脚を踏み直そうとしていた。
俺は喉へ届かせようとせず、手前の前脚の付け根を狙った。
短槍を突く。
刃が入り、魔物の頭が跳ねた。
深く押し込まず引き戻す。開いた口が穂先のあった場所へ噛みつき、歯のぶつかる音がした。
俺は柱の陰へ戻った。
「当たった!」
「見えた!」
リオが答えた。
心臓が速い。
それでも、俺の手には槍があり、二人の声も聞こえていた。
一度はできた。
次も同じとは限らないが、何も分からなかった昨日とは違った。
◇
風吐きトカゲは、傷めた前脚を少し浮かせた。
そのまま俺たちを見ていたが、やがて頭を入口側へ向けた。
リオがいる。
彼は矢をつがえていたが、俺たちが近すぎて射てずにいた。
「そっちへ行く!」
俺が声を上げる。
テッサが柱の左から出た。
棍棒で盾を一度叩く。
魔物の目が戻った。
だが、喉は膨らまない。
腹を低くして、また突っ込んできた。
テッサは盾を斜めに向け、柱の縁へ身体を寄せた。口先が盾の表を掠め、嫌な音が響く。
正面で止めようとはしなかった。
魔物の頭が横へ滑ったところで、彼女は盾を引き、柱の裏へ回った。
腕で重さを受けたのは一瞬だった。それでも、テッサの肩が大きく揺れた。
「腕は?」
「持てる!」
返事を聞きながら、俺は穂先を構え直す。
魔物が柱を回り込もうとする。だが、傷めた前脚をついたところで、動きが鈍った。
リオの矢が飛んだ。
横腹へ刺さる。
風吐きトカゲは身体を捻り、尾を大きく振った。俺は追わずに下がる。尾が柱へ当たり、鈍い音がした。
口が開いた。
今度は、喉が十分に膨らんでいなかった。
「隠れろ!」
短い風が床を叩いた。
砂と枯れ葉が跳ね、盾の端へ当たる。テッサは目元を隠すように盾を上げ、俺も柱の奥へ顔を引いた。
すぐに音が途切れた。
「小さくても吐けるのか……」
喉が大きく膨らむまで待っていたら、間に合わなかったかもしれない。
リオは石の陰にいる。顔を上げ、こちらへ頷いた。
テッサが足元を確かめた。
砂が増えている。
「同じところで回り続けるの、きつい」
俺も頷いた。
柱の裏は守ってくれるが、床まで片づけてはくれない。
「次、左へ出る。ノルは追ってこないで」
テッサが言った。
「戻る場所は?」
「この柱。戻れなかったら階段」
彼女が盾を構え直す。
俺は右側に残り、リオの位置を確かめた。
テッサが柱から離れた。
一歩。二歩。
魔物の頭が追う。
今度は足を踏み込まず、首の下がゆっくり膨らんだ。
テッサは三歩目を出さなかった。盾を身体へ寄せ、すぐ柱へ戻る。
魔物は顔を追った。
その横から、リオが弓を引いていた。
俺たちはもう、彼の射線に重なっていない。
風が来る前の、短い間だった。
矢が飛んだ。
張りつめた喉の横へ刺さる。
魔物の口が開き、掠れた音が漏れた。枯れ葉が少し浮いたが、さっきのようには吹き飛ばない。
風吐きトカゲは頭を下げ、前脚を掻いた。
「ノル!」
俺は柱の右から出た。
足を置く場所は見えている。
砂の厚いところを避け、短く踏み込む。
持ち上がった前脚の内側へ穂先を入れた。
柄が揺れる。
俺は握り締めたまま身体を固めず、相手が崩れる方へ半歩ついていった。引き抜くと、魔物は腹を床へ落とした。
まだ尾が動いている。
近づきすぎずに待ち、頭を上げようとしたところへ、もう一度槍を突いた。
灰色の身体から、ゆっくり力が抜けた。
俺たちはすぐには動かなかった。
喉も、脚も、もう動かない。
しばらく確かめてから槍を引くと、腕の重さが一気に戻ってきた。
「……倒した?」
テッサが聞いた。
「ああ」
俺は息を吐いた。
「倒した」
◇
周囲に別の魔物がいないことを確かめ、俺たちは入口寄りの柱へ戻った。
テッサは低い石へ腰を下ろし、盾を膝へ立てかけた。
リオが水袋を差し出す。
「ありがと」
受け取った彼女の指が、少し震えていた。
俺も槍を持つ手を替えた。最後の二突きより、出るか待つか迷っていた時間の方が、ずっと腕に残っている。
「正面から受けなくてよかったな」
俺が言うと、テッサは水を飲み終え、柱を見上げた。
「今日は、この石が一番頑張ったかも」
「そこへ向かせたのはテッサだろ」
リオが言った。
彼女は顔を戻す。
「最後、ちゃんと横が見えた。僕だけだったら、ずっと口の正面にいたと思う」
「私も、ずっと追われるのは嫌だよ」
「だから射った」
リオが答えると、テッサは少し笑った。
俺は盾の表を見た。
牙が掠めた跡が残っている。何も受けなかったわけではない。傷も、疲れもある。
それでも、あの大きな盾で全部を止めようとはしなかった。
俺たちが攻撃できる場所へ、相手を向かせてくれた。
「次も、動く方を言ってくれ」
俺が言うと、テッサは頷いた。
「ノルも、出るとき言ってよ。槍が飛び出してきたら、私まで避けちゃうから」
「分かった」
リオが笑った。
ようやく俺も、周囲を見る余裕ができた。
部屋の向こうには、幅の広い石のアーチがある。その先は暗いが、床は途切れず続いていた。
昨日は、あの魔物ばかり見ていた。
今日は、その向こうに道があることまで分かる。
「奥、行く?」
テッサが俺の視線を追った。
「今日は、ここまでにしよう。戻って、この部屋を地図へ書き足す」
「賛成。腕が重い」
「僕も」
リオは弓を膝へ置き、右手を開いた。
急いで先へ行かなくても、この場所まで来られたことはなくならない。
上の穴から、穏やかな風が吹き込んだ。
俺たちは一瞬だけ顔を上げ、それから、動かない魔物を見て笑った。
今度の風は、盾を構えなくてもよかった。




