第61話 盾の向こうを守る
翌朝、リオは約束通り早く起きた。
ただし、俺たちを起こすより先に、道具袋の留め具を落とした。
木の床で跳ねた金具が寝台の下へ入り、静かだった部屋に、小さなため息が落ちる。
「新しい指掛けって、物を拾うのも上手くなる?」
寝台の上からテッサが聞いた。
「ならない。今、よく分かった」
俺は笑いながら身体を起こした。
朝の練習は短く済ませた。リオは近い的へ何本か射ち、俺とテッサは、その横で前へ出る動きと下がる動きを合わせる。
昨日より矢がまとまっても、リオは本数を増やさなかった。
「腕が疲れる前に終わる。今日は、このあとがあるから」
そう言って弓を下ろす顔は、少し名残惜しそうだった。
◇
風鳴りの迷宮では、昨日と同じ道を通った。
今回は柱の広間まで進んだあと、入口へ戻る右の回廊も確かめる。その途中には、広い部屋を見下ろせる枝道があると、朝の窓口で教わっていた。
枝道の先にある下り階段からは、別の区画だ。
まずは上から形を見る。降りるかどうかは、記録と自分たちの余力を確かめてから決めることにした。
最初の岩トカゲは、左の回廊を抜ける手前にいた。
壁の窪みから頭を出し、俺たちへ身体を向ける。リオが気づき、テッサが盾を構えるまでの間に、俺は灯りを床へ置いた。
岩トカゲが降りてくる。
昨日のように高いところから飛ぶのではなく、爪を掛け替えながら、斜めに壁を走った。
「床へ来る」
リオの声で、俺は穂先を下げた。
テッサが左を塞ぐ。空いた右へ出てきた頭に合わせ、槍を突き出した。
刃が肩口へ入り、岩トカゲが身体を捻る。引き戻して間合いを取り直すと、横から矢が飛んだ。
身体へ刺さった矢を折るように暴れ、魔物は動かなくなった。
俺たちは壁の上まで確かめてから、構えを解いた。
「今の、引っかからなかった」
リオが右手を見た。
「指掛け?」
「うん。でも、止まってる的より、離すのを急ぎたくなるね」
「俺も、昨日は槍を伸ばしすぎかけた」
テッサが二人を見比べた。
「道具を買っても、持ってる人は同じだもんね」
「朝から金具を落とす人だしな」
「それ、まだ言う?」
リオが笑う。
戦いのあとで冗談が出るくらいには、息が残っていた。
◇
柱の広間を通り、帰り側の回廊へ入る。
こちらは左の道より広かった。ただ、壁から張り出した岩と柱の根元が、歩ける場所を曲げていた。
俺は短槍を立て気味に持ち、後ろの柄をぶつけないよう進んだ。
天井の穴から届く光は薄い。灯りを前へ出すと、柱の向こうに二本の尾が見えた。
「二匹」
リオが声を落とした。
一匹は床。もう一匹は、柱の途中に張りついている。
床の方が、先に動いた。
低い姿勢で柱を回り、俺たちの左へ走る。テッサが盾を向けると、岩トカゲは頭を振り、右へ戻った。
速い。
俺は穂先を追わせたが、柄の後ろが壁へ近づいた。身体を捻って逃がす間に、相手は柱の陰へ消えた。
「右、抜ける!」
リオが言った。
テッサが前へ出かけ、足を止める。
岩トカゲが狙っているのは、彼女の盾ではなかった。柱を回り込み、後ろにいるリオへ向かっていた。
「リオ、壁側!」
テッサは敵を追わず、後ろへ一歩踏み直した。
盾が俺の横を通り、リオとの間へ入る。
岩トカゲの頭が木の面へぶつかった。テッサは盾を少し押し出し、跳ね返った身体を柱の側へ追いやる。
俺の左が空いた。
上にいたもう一匹が、その隙間へ飛び降りてきた。
「ノル!」
床へ落ちた尾が、靴のすぐ前を擦った。
槍を引く。だが、後ろには張り出した岩がある。穂先を相手へ戻すには、自分がもう一歩下がらなければならなかった。
その一歩を追って、口が開く。
俺は柱の裏へ回った。
口先が石へぶつかる音を聞きながら、槍を壁際へ立てかけ、腰の剣を抜く。
長さが変わった分だけ、腕の前に空間ができた。
柱の縁から頭が出た。
大きく振りかぶらず、斜めに刃を落とす。首の横へ当たった感触があり、岩トカゲが身を翻した。
追わずに剣を戻す。
血を引いた身体がもう一度こちらへ向いたところで、俺は足を横へずらし、前脚の内側へ刃を入れた。
尾が足首へ当たる。
踏ん張って押さえつけるのはやめ、身体を離した。相手の動きが弱まるのを待ち、最後にもう一度突いた。
顔を上げると、テッサはまだ盾を構えていた。
残った一匹が、盾の下へ鼻先を入れようとしている。
テッサが膝を曲げ、下端を下げた。
「右、空ける!」
彼女は盾を横へ振り回さず、自分の足を左へ移した。
岩トカゲがその縁を追う。
リオの前から、テッサの肩が外れた。
弦の音がした。
矢は低く飛び、岩トカゲの胸へ刺さった。魔物が身体を持ち上げ、後ろへ転がる。
テッサはすぐには近づかなかった。盾を向けたまま待ち、俺が横から回って、残った動きを止めた。
しばらく、三人とも黙っていた。
柱の上には、もう何も見えない。
俺は剣を下げ、壁際に置いた槍を見た。
買ったばかりの武器を、危うく手放せなくなるところだった。
◇
「足、当たった?」
テッサが聞いた。
「尾が少し。切れてはいない」
靴と足首を確かめ、俺は頷いた。
彼女は自分の腕も動かしてから、盾を下ろした。
「途中、ノルの方を空けた」
「リオへ行く方を止めてくれただろ」
「でも、上から来た」
「俺も見てたのに、槍を戻す場所がなかった」
リオが、柱と壁の間を見た。
「次は、そこへ入る前に持ち替えられるね」
俺は剣についた汚れを拭った。
短槍なら届く場所が増える。けれど、近づかれたときに必要な空間まで、なくなるわけではない。
こいつを買ったからといって、剣を練習した時間が要らなくなったわけではなかった。
「テッサ、よく後ろへ戻れたな」
俺が言うと、彼女は盾の縁へ指を掛けた。
「追ったら、リオが一人になると思って」
「前にいる方が守れるんじゃないの?」
リオが聞いた。
「いつもなら。でも、あれは盾のない方へ行ったでしょ」
荷車の男が、イーヴへ手を伸ばした場面を思い出した。
盾を持つ人間の前へ、相手が律儀に来てくれるわけではない。
テッサは盾を持ち上げ、さっき立っていた場所を見た。
「敵を見るのも大事だけど、二人がどこにいるか、分からなくなる方が嫌だった」
リオが少し黙った。
「見えてたよ。盾が来たの」
テッサが顔を向ける。
「だから、慌てて射たなくて済んだ」
「なら、よかった」
彼女はそれだけ言い、肩紐を直した。
俺は拾い直した槍を持ち、二人と並んだ。
盾の大きさは、出会った日から変わっていない。
今は、そこへ来てくれることまで頼りにしていた。
◇
短い休憩を取り、水を飲んだ。
リオは指掛けを外さず、右手を握ったり開いたりしていた。
「疲れる?」
「少し。引く力は変わらないから」
「じゃあ、残りは帰る道と、枝道の入口までにしよう」
俺が言うと、二人が頷いた。
回廊の先には、別の冒険者が残したらしい灯り受けがあった。壁の低いところに、入口を示す印もある。
図面の形と照らし合わせると、右へ曲がれば最初の分かれ道へ戻れる。その手前から、左へ短い枝道が伸びていた。
奥から、低い音がした。
迷宮へ入る前に聞いた笛のような音とは違う。
布を大きく振ったときのような、短く重い響きだった。
俺たちは立ち止まった。
「今の、風?」
テッサが小さく聞いた。
「分からない。前の方から」
リオも弓を持ち直している。
枝道の壁に沿って進むと、先が明るくなった。俺は曲がり角の内側へ灯りを置き、身体を出さずに覗いた。
数段下がった先に、広い部屋があった。
高いところに穴が開き、斜めの光が床を照らしている。柱の何本かは途中で折れ、その根元に枯れ葉が溜まっていた。
中央の平らな岩に、灰色のものが載っていた。
最初は岩の一部に見えた。
長い尾が動く。
岩トカゲに似ている。だが、胴だけでも大きな犬ほどあり、前脚がずっと太かった。
顎の下には、青灰色の袋のようなものが垂れている。
俺は身を引き、二人へ場所を伝えた。
順に覗いたテッサが、すぐに盾を身体へ寄せる。
「あれ、今までのとは違うね」
そのとき、大きなトカゲの頭が右へ向いた。
部屋の端を、小さな岩トカゲが走っていた。壁の隙間へ逃げ込もうとしている。
大きい方の喉が膨らんだ。
垂れていた皮が張り、丸く持ち上がる。
口が開いた。
空気を叩くような音が響き、床の枯れ葉が一斉に吹き飛んだ。
小さな岩トカゲが横へ転がる。砂が壁へ当たり、光の中に白く広がった。
俺は反射的に顔を引いた。
少し遅れて、乾いた空気が頬へ届く。
外から吹き込んだ風ではなかった。
あの魔物が、吐いた。
リオが俺の袖へ触れた。
「今、脚を止めてた」
もう一度、そっと覗く。
大きなトカゲは口を閉じ、四本の脚を岩へついていた。小さい方は柱の陰へ逃げ込んだが、すぐには追わない。
膨らんでいた喉が、ゆっくり萎んでいく。
「吐いてる間か、そのあとか?」
俺が聞く。
「どっちも、少し。でも、一回しか見てない」
テッサは盾の表を見てから、部屋の折れた柱へ目を向けた。
「あれを正面で受けるのは、嫌だな」
「俺も。柱は使えるかもしれないけど」
槍の柄を握り直した。
風の中でも矢を当てるために、ここへ来た。
今度は、相手の方が風を起こす。
灰色の魔物が頭を持ち上げた。喉の皮が、もう一度ゆっくり広がり始める。
俺たちは石壁の陰で身を低くした。
リオは弦を引かなかった。テッサも前へ出ない。
三人で、次の一息を見ようとしていた。




