第60話 次の一本が楽しみになる
宝箱を見つけてから、テッサが何度も左手を開いていた。
手甲の具合を確かめているらしい。
「それで壁を登るつもりじゃないよな」
俺が聞くと、彼女は顔を上げた。
「掴むところがあれば、って思っただけ」
「なかったら?」
「ノルを掴む」
「俺ごと落ちるぞ」
リオが笑いながら、張り出しの横へ歩いた。箱だけを見上げず、壁の下から順に目で追っている。
「こっち、裏まで回れそう」
柱と壁の間に、細い隙間があった。
俺たちは灯りを向け、奥を確かめた。新しい足跡や、岩トカゲの姿は見えない。隙間の先には崩れた岩が重なり、低い段になっていた。
正面からは高く見えた張り出しも、こちらからなら途中まで歩いて上がれる。最後の段差だけ、両手を使う必要がありそうだった。
「階段じゃない方から行くのか」
「鳥なら、もっと簡単なんだろうね」
リオが言った。
「箱を持って飛べるくらい、大きくないと駄目だけど」
テッサの言葉に、俺は風切り鳥の爪を思い出した。
そんなものとは会いたくない。
◇
槍と鞄を下へ置き、まず俺が上がることになった。
岩へ片足を載せる。見た目では平らでも、踵へ重さをかけるとわずかに傾いた。そこは使わず、奥の岩へ足を移した。
地面の下が分かるわけではない。ただ、以前ならそのまま踏み込んでいたかもしれないと思った。
「右の上、手を掛けられそう」
下からリオが教えてくれる。
指を差し入れ、引く前に確かめた。岩の縁は動かない。膝を上げると、ようやく張り出しの床が見えた。
箱の周囲に動くものはなかった。
身体を引き上げ、端から離れて座る。
「上がった。こっちは立てる」
持ってきた縄を奥の太い石柱へ回し、下へ垂らした。リオが岩の段と縄を使って上がる間、テッサは盾を構え、広間の方を見ていた。
「私の見えないところで、いい物を独り占めしないでよ」
「上がってくるか?」
「今、二人とも後ろ見てないでしょ」
言われて、俺は入口側へ目をやった。
テッサが手を振る。
「開けて。何が入ってたか、大きい声で」
俺とリオは顔を見合わせ、箱へ向き直った。
近くで見ると、蓋の金具には細かな模様が入っていた。蔓のような線が角を巡り、前面の留め具へ繋がっている。
鍵穴はない。
箱の周囲と蓋の隙間を見たが、紐や針のようなものは見つからなかった。だからといって、何もないと保証できる知識が俺たちにあるわけでもない。
俺は正面から身体をずらし、留め具を上げた。
何も起きない。
蓋へ手を掛けると、思ったより重かった。リオが反対側を支え、二人でゆっくり開く。
中で、小さな金属が光った。
「何?」
下からテッサの声がした。
硬貨が何枚か。それから、細長い革の箱が一つ。
俺がそう伝えると、少し間があった。
「箱の中に、箱?」
「そう」
「焦らすね」
まったくだった。
革の箱を取り出すと、リオが身を寄せた。蓋には弓を思わせる曲線と、羽根の模様が押されている。
小さな留め紐を解き、開いた。
紺色の革が、内張りの上に収まっていた。
右手用の手袋だった。甲には銀色の細い糸で模様が縫われ、手首の留め具には、淡い青色の小さな飾りがある。
掌側を返すと、人差し指、中指、薬指の部分だけ、別の革が重ねられていた。
リオの手が止まった。
「弓を引く方の……」
自分の右手を見て、それからもう一度、箱を見る。
「指を守る道具?」
「たぶん。ここ、弦が当たる場所だから」
俺には綺麗な手袋に見えたが、リオは縫い目や指の曲がる部分まで確かめていた。
「使えそうか?」
「大きさは。でも、何か付いてるなら、調べてもらってから」
そう言いながら、指先はなかなか箱から離れなかった。
俺も短槍を初めて持ったとき、似たような顔をしていたのだろう。
「リオの方かー」
下へ伝えると、テッサが少し声を弾ませた。
「弓じゃなかったけど、近かったね」
リオは箱の蓋を閉じ、その上へそっと掌を載せた。
◇
中身を袋にまとめて下ろし、俺たちも順に降りた。
テッサは革の箱を受け取ると、蓋を少し開けた。
「格好いい」
最初の感想は、それだった。
確かに、ただ指を守るだけなら、こんな細い模様まで必要ないのかもしれない。それでも、使う人間が見て嬉しくなるものはある。
俺の短槍も、黒い柄と細身の穂先が気に入っていた。
硬貨は銅貨が十八枚。三人で六枚ずつになる。
手袋については、街で調べてもらってから決めることにした。
引き返す途中、リオは何度か鞄へ手をやった。
「落としてないよ」
テッサが言う。
「分かってる」
「さっきも確かめてた」
「分かってるって」
リオは少し困ったように笑った。
俺は何も言わなかった。短槍を買った帰り道、何度柄を握り直したか覚えていない。
◇
ベルナへ戻ると、俺たちは探索の報告を済ませ、回収した魔石をまとめて売った。
そのあと、ギルドの鑑定窓口へ革の箱を出した。
担当の女は手袋を取り出し、指の内側と手首の縫い目を見た。小さな器具を当て、帳面の図と模様を比べてから頷く。
「《弦離れの指掛け》。良級の弓具ですね。この型は手の甲まで覆います」
リオが、椅子の上で少し前へ出た。
「どういうものですか?」
「弦に触れる三本の指に、滑りを揃える加工と付与があります。指を開いたとき、革の一部だけが弦へ引っかかるのを抑えるものです」
女は自分の指を曲げ、開いて見せた。
「ただし、指の開き方や手の動きまで直してくれるわけではありません」
「狙ったところへ飛ぶようになるんじゃないんですね」
俺が聞くと、女は笑った。
「そこまでしてくれるなら、別のお値段になります」
テッサが小さく頷いた。
なぜか納得が早い。
「弓を引く力も変わりません。今までと感触が違うので、慣れるまでは早く離してしまうこともあります。まずは近い的で試してください」
リオは手袋をはめ、手首の紐を調整した。
指を曲げ、伸ばす。
余った革が大きく浮くこともなく、指先まで収まっていた。
「きつくない?」
テッサが聞く。
「うん。大丈夫そう」
「じゃあ、使えるね」
彼女が当然のように言ったので、リオは顔を上げた。
「いいの?」
「私は手甲をもらったし」
テッサが左手を見せる。
リオは今度は俺を見た。
「ノルは?」
「それを俺が使っても、まず弓を引くところからだぞ」
「そうじゃなくて。売ったら、三人で分けられる」
俺は少し考えた。
硬貨にすれば、飯も食えるし、道具も買える。持ち帰ったものを何でも使えばいいわけではない。
それでも、柱の陰から出た岩トカゲへ、矢が届いた場面を思い出した。
「次に矢が必要になったとき、お前が使いやすい道具を持ってる方が、俺は助かる」
リオは手袋へ視線を戻した。
「……じゃあ、使いたい」
「うん」
「ちゃんと慣れて、持っていく」
俺とテッサが頷くと、ようやく彼も笑った。
その顔を見てから、鑑定担当の女が代金を告げた。
テッサが財布を開く。
「宝箱の銅貨、早速出ていくね」
「何か分からないまま使うよりいいだろ」
「分かってる。嬉しい物と請求書が、一緒に来ただけ」
俺は笑いながら、自分の分を出した。
◇
日が傾き始めた頃、俺たちはギルドの練習場にいた。
奥には盛り土があり、その手前に藁の的が並んでいる。使用する場所を借りると、リオはいつもより近い的を選んだ。
俺とテッサは、射つ場所より後ろで待つ。
最初の一本は、的の左下へ刺さった。
「あ」
リオが右手を見た。
「早かった」
教わった通りだったらしい。
二本目をつがえる。今度は引ききったところで止まり、指を開いた。
矢は一枚目より上へ刺さったが、中心からは外れていた。
「難しい?」
俺が聞くと、彼は少し首を傾げた。
「変な感じ。今まで引っかかってた分を、自分でも引いてたのかもしれない」
右手を頬の横へ戻し、矢を持たずに指の形だけ確かめる。
「同じようにやると、余計に動く」
次の一本を射つまで、少し時間がかかった。
弓を上げ、息を吐く。
弦の音がして、矢が的へ刺さった。
中心そのものではない。だが、さっきより近かった。
リオはすぐ次をつがえず、その一本を見ていた。
「今の、よかった気がする」
「もう一本、同じようにできるか?」
「やってみる」
次の矢は、少し右へ離れた。
リオが口を引き結ぶ。
テッサは何も言わず、的と彼の右手を交互に見た。
五本射ち終えてから、合図を確かめて矢を回収する。どれも的には刺さっていたが、揃っているとは言えなかった。
「全部、真ん中にはならないね」
テッサが言うと、リオが苦笑した。
「なったら、今日までの練習が何だったんだろうってなるよ」
「今日まで練習したから、全部真ん中かもしれないじゃん」
「それなら、明日の練習に期待しようかな」
彼は矢をまとめ、射つ場所へ戻った。
今度は、最初の一本から少し違った。
構えたあと、肩を上げ直さない。頬の横に置いた手も、大きく後ろへ跳ねなかった。
矢が的へ刺さる。
次の一本は、その近くへ届いた。
三本目は外側へ離れ、リオが小さく息を吐く。それでも、さっきのような困った顔ではなかった。
何を試したいのか、自分で分かっている顔だった。
俺は《鉄輪》で、練習用の槍を初めて突いたときのことを思い出した。
できなかったことは山ほどある。それでも、もう一度やれば、さっきより分かりそうな気がした。
あの感覚があると、同じ動きを繰り返す時間まで楽しくなる。
◇
練習場を閉める声が掛かり、リオは矢を数え直した。
新しい指掛けを外すと、今まで使っていた革の指当てを取り出す。縁が擦れ、弦の当たるところには跡が残っていた。
彼はそれを捨てず、小さく畳んで道具袋へ戻した。
「まだ使うの?」
テッサが聞いた。
「新しい方が濡れたり、壊れたりするかもしれないから」
それから、少しだけ笑う。
「こっちで当てた矢も、結構あるし」
俺は、柱から落ちた岩トカゲを思い出した。
今日、俺たちを助けた一本は、まだ古い方で射った矢だった。
リオは紺色の指掛けをもう一度はめ、右手を夕日に透かした。手首の飾りに光が当たり、淡い青が浮かぶ。
「明日、迷宮へ行く前に、少し練習していい?」
「朝から?」
「うん。もうちょっと、分かりそうなんだ」
テッサが俺を見た。
「短槍を買った人と、同じこと言ってる」
「俺も明日の朝は練習する」
「じゃあ、私だけ寝てるわけにもいかないね」
「寝ててもいいぞ」
「起きたら二人とも出発してそうだから、嫌」
リオが声を出して笑った。
彼の弓は、昨日と同じだ。
張れば腕は疲れるし、風が吹けば矢も流れる。指掛けを替えただけで、遠くの魔物を何でも射抜けるようにはならない。
それでも、リオは明日、少し早く起きたいと思っている。
俺はその右手を見て、宝箱を開けてよかったと思った。
次の一本が、もう楽しみになっている。




