第59話 矢の通る場所
風鳴りの迷宮は、入口に着く前から場所が分かった。
岩の間を抜ける風が、細く長い音を立てている。笛に似ていたが、同じ音は続かない。高くなったかと思うと途切れ、別の穴から低い音が返ってきた。
「誰か吹いてるみたいだね」
テッサが盾の肩紐を直した。
「ずっと吹いてたら、息が切れるだろ」
「交代してるのかも」
岩の中で笛を吹く仕事は、依頼板にはなかったはずだ。
朝のうちにギルドで最新の報告を確かめ、灯りと消耗品を買い足してから来た。今回歩くのは、入口に近い回廊と、その先の柱の広間まで。奥へ下りる縦穴には入らない。
入口脇の小屋で名前と予定を伝えると、係の男が壁に貼った図を指した。
「回廊の上にも目を配れ。昨日は岩トカゲが出てる」
図には、平たい胴と長い尾を持つ魔物が描かれていた。爪を岩の割れ目へ引っかけて登り、上から飛びついてくるという。
「背中は硬いんですか?」
俺が聞くと、男は首を振った。
「岩潜りみたいな板はない。ただ、爪を掛けたまま向きを変える。壁にいるから動けないと思うなよ」
俺たちは頷き、石の入口へ向かった。
中から吹いてきた風が、リオの外套を後ろへ膨らませた。
彼は布の裾を押さえ、暗がりを見た。
「ここから出てくるんだ」
昨日、図面の上で話していた風に、ようやく触れた。
◇
入口近くの通路には、昼の光が届いていた。
天井の高い場所に細い穴が開き、差し込む光の中を埃が流れている。壁は滑らかなところと、爪で掻いたような筋のあるところに分かれていた。
テッサが前を歩き、俺が灯りを持って続く。リオは少し間を空け、上と後ろを交互に見ていた。
道が二つに分かれるところで、俺たちは図面を広げた。
左は壁沿いの細い道。右は幅があるが、途中に柱が並んでいる。どちらも先で合流していた。
「左から行こう。戻るときも、同じ方で」
俺が言うと、二人が頷いた。
分かれ目の岩の形を簡単に書き足し、通った側を記録する。図面だけを見ていると、実際の道まで同じ太さに思えてしまう。左の道は、テッサの盾が壁に触れないよう気を遣う幅だった。
少し進むと、足元へ横から風が当たった。
壁の下に、拳が二つ入るほどの穴がある。近づけた灯りの炎が、覆いの中で傾いた。
「出口には使えそうにないな」
「荷物だけなら通せるかも」
「取りに行けないだろ」
テッサは穴を覗くのをやめ、歩き出した。
通路を抜けた先は、思っていたより明るかった。
太い柱が何本も立ち、その間へ天井の光が落ちている。柱の根元は床と一続きだが、途中には石を積んだような線もあった。
自然にできた洞窟なのか、誰かが造った建物なのか。
見比べようとしたところで、リオが小さく声を出した。
「止まって。右の柱」
俺は足を止めた。
床ではなく、頭より高い場所へ目を向ける。
灰色の尾が、柱の陰へ引っ込んだ。
◇
岩トカゲは、尾まで含めると俺の腕より長かった。
腹を柱へ貼りつけ、爪のある指で凹凸を掴んでいる。頭は平たく、横へ広がった口の端から、細い舌が出入りしていた。
灯りを向けると、丸い目がこちらへ動いた。
「もう一匹。左の張り出し」
リオが続けた。
見上げると、壁から突き出た岩の上に、もう一つ頭があった。
俺たちを挟むほど離れてはいない。それでも、同時に見るには首を動かす必要がある。
「通路まで戻る?」
テッサが盾を身体へ寄せた。
「まず二歩。上を見たまま」
俺は入口側の平らな岩へ灯りを置き、両手で短槍を構えた。
後ろの足を引く前に、靴底で床を確かめる。砂が薄く載っていたが、その下は硬い。半歩ずつ下がると、テッサも同じだけ動いた。
左の岩トカゲが腹を持ち上げた。
後ろ脚が曲がる。
「左、来る!」
灰色の身体が岩から離れた。
テッサが盾を斜め上へ向ける。爪が木の表面を擦り、続いて重い音がした。
彼女は盾を高く掲げたまま耐えなかった。膝を曲げ、身体ごと右へ向きを変える。
盾の縁から滑った岩トカゲが、俺の前へ落ちた。
俺は槍を突き出しかけ、踏み込みを小さくした。
近い。腕を伸ばしきれば、穂先が相手を越えてしまう。
後ろの手を引き、距離を取り直して突く。刃が前脚の後ろへ入った。岩トカゲは身体を捻り、長い尾で床を叩く。
槍を押さえつけようとせず、動きが緩んだところで引き抜いた。起き直ろうとした首元へ、もう一度刃を入れる。
「右は?」
「柱にいる!」
リオの返事がすぐに来た。
一匹目の動きが止まるのを確かめ、俺は槍を戻した。
右の柱では、残る一匹が身体を横へ動かしていた。前脚を掛け替えるたびに頭が見え、すぐ石の向こうへ隠れる。
リオは弓を持ち上げていたが、まだ弦を引いていなかった。
「ここからだと、柱に当たる」
俺の位置からも、見えるのは頭の先だけだった。
矢が速くても、石を通り抜けることはできない。
「右へ三歩、動ければ見えると思う」
リオが床へ目を落とした。
そこには柱の根元から崩れた小石が散っているが、通れないほどではない。問題は、動く間に上から飛びつかれることだった。
「私、前に出る」
テッサが言った。
俺は右の柱を見たまま頷いた。
「俺は下を見る。降りてきたら止める」
テッサが盾を高めに構え、リオの前へ入る。俺はその左側で、柱の根元へ穂先を向けた。
岩トカゲが頭を下へ向けた。
さっき飛びついた一匹と似た姿勢だったが、今度は後ろ脚が伸びたままだった。
俺は突かなかった。穂先を少し上げ、その先へ出てくるのを待つ。
横で、靴が小石を踏んだ。
「一歩。……もう一歩」
リオの声に合わせ、テッサが身体の向きを変える。
盾で隠す位置が、少しずつ右へ移った。
岩トカゲは飛ばず、柱を回り込んだ。頭を俺へ向けたまま、腹の横が右側へ出る。
「見える」
リオが弦を引いた。
そのとき、外套の裾が膨らんだ。
風が右から左へ抜ける。高い穴の音が一段上がった。
リオは射たなかった。
弦を引き続けるのではなく、一度戻す。
岩トカゲの前脚が動いた。俺は穂先を追わせかけ、柱へ当てそうになって止めた。
「まだ押さえられる!」
そう言ったものの、長く待てる自信はなかった。
相手が柱の反対側へ回れば、こちらからは見えなくなる。そこから別の場所へ跳ぶかもしれない。
リオがもう一度、弓を上げた。
今度は迷わなかった。
盾の右側を矢が抜け、岩トカゲの前脚の付け根へ刺さる。
爪が外れた。
落ちた身体が床を打ち、こちらへ頭を向ける。俺はその口が開くより先に、槍を突き入れた。
長い尾が石を擦り、やがて動かなくなった。
俺たちは構えを解かず、残る柱と天井を確かめた。
風の音が戻ってきた。
いや、ずっと鳴っていたのだろう。聞く余裕がなかっただけだ。
◇
「当たった」
リオが、ようやく弓を下ろした。
「見てた」
俺も短槍を下げる。
「二回目に引くの、早かったな」
「待ってる間に、どこへ射つか決められたから」
彼は矢の刺さった場所を見ていた。
「風が弱くなったら、あそこって。それでも、柱の向こうへ行かれたら無理だったと思う」
「私は、三歩目で石を踏みそうになった」
テッサが足元の小石を靴で寄せた。
「リオに下がってって言おうとしたら、もう横にいた」
「足、止まったから」
「止まったの、分かった?」
「盾も止まったし」
テッサは少し考えてから頷いた。
「次は声もかける」
最初に講習を受けた日、俺たちは隣にいるだけで肩をぶつけた。今は動きで分かることもある。それでも、全部分かったつもりになるのは早かった。
俺は盾の新しい爪跡を見た。
「上から受けても、腕は平気か?」
「平気。でも、ずっと上げてるのは嫌」
「次も早く射つ」
「当ててくれたら、ちょっとは待つよ」
リオが笑った。
必要な処置と矢の確認を済ませ、俺たちは灯りを持ち直した。
広間の入口からここまで、まだ大した距離は歩いていない。それなのに、柱の見え方が変わっていた。
さっきまでは、敵が隠れる邪魔な石だった。
今は、どちらへ回れば何が見えるか、先に考えるようになっている。
リオの矢が通ったのは、三歩動いた先だった。
◇
広間の中央では、風が頭上を流れていた。
床に置いた布の端はほとんど動かないのに、柱の高いところでは細い根のようなものが揺れている。
俺たちは一度立ち止まり、図面と壁の形を照らし合わせた。
この先に、二つの通路がある。片方は入口へ戻る広い道。もう片方は奥の区画へ続き、途中から床が下がるらしい。
「今日はここで戻ろう。右の道は入口側から確かめてないし、来た方へ」
俺が言うと、リオは図面へ印をつけた。
テッサは返事をしなかった。
何かを見上げている。
「どうした?」
「あれ」
盾ではなく、右手で壁際を指す。
壁に沿って、狭い石段が伸びていた。柱の陰に隠れていたため、入ってきた場所からは見えなかったものだ。
途中の数段が崩れ、その先は高い張り出しへ続いている。
張り出しの奥に、四角い箱があった。
木の蓋。緑色に曇った金属の帯。前面には、小さな輪の付いた留め具が見える。
「……宝箱?」
俺が言うと、テッサがようやくこちらを向いた。
「たぶん」
「言ってみるもんだね」
リオが小さく笑った。
昨日、宝箱に聞こえる声で弓が欲しいと言おうか、と話したばかりだった。
テッサはすぐには近づかなかった。箱から石段へ、その下の床へと視線を移している。
「階段、途中がない」
下の段から上の段までは、脚を伸ばせば届くという幅ではなかった。横の壁にも、都合よく手を掛けられる突起は見えない。
背伸びをして箱を引きずり下ろすには、張り出し自体が高すぎた。
俺は灯りを平らな岩へ置き、鞄から図面を出した。
石段の位置に、細い線がある。だが、段が欠けていることまでは書かれていなかった。
「向こうから回れるか、壁沿いに見てみよう。登るのは、そのあとだ」
「うん」
リオは箱の上と、張り出しの両端を確かめた。
俺も、あの蓋を開けてみたかった。
硬貨かもしれない。手入れを待つ道具かもしれない。まだ名前も知らないものが、収まっているのかもしれない。
テッサが左の手甲へ目を落とし、指を一度曲げた。
それからリオを見た。
「弓が入ってる大きさかな」
「短い弓なら。でも、分からないよ」
「じゃあ、確かめないとね」
天井の穴から差した光が、箱の金具を細く照らした。
迷宮へ入る前には知らなかった、今日の目標ができた。
俺は槍を持ち直し、箱へ続く壁際へ目を向けた。
まずは、あそこまでの道を見つけよう。




