第58話 弓を選んだ理由
風車の羽根が回り始めると、建物の中から低い音が聞こえてきた。
木と木が噛み合う音。その奥で、重いものがゆっくり擦れる音が続く。鳥が巣を作っていたときには止まっていたものが、一つずつ動き出していた。
ヨストは書き終えた完了票を渡すと、俺たちの顔を順に見た。
「これで明日の分から挽ける。助かったよ」
テッサが、風車の入口に積まれた袋を見た。
「これ、全部?」
「今日のうちに全部は無理だな。止まっていた分もある」
「じゃあ、私たちが明日食べるパンの粉も?」
「ここの粉を買う店なら、そうなるかもしれん」
テッサは回り続ける羽根を見上げた。
「それなら、ちゃんと回ってくれないとね」
報酬のほかにも、仕事をした跡が残っている。俺は完了票を折りながら、建物の中へ運ばれていく麦袋を見送った。
帰り際、リオがヨストへ尋ねた。
「この辺りは、どこもこんな風なんですか」
「丘を一つ越えるだけでも変わるよ。北の岩場なんか、地面の穴から吹いてくる」
「穴から?」
「風鳴りの迷宮だ。入口のそばを通ると、笛みたいな音がする。中のことは、ギルドで聞いてくれ。わしは麦を挽く方だからな」
リオが北へ目を向けた。
連なる丘の向こうに、灰色の岩が帯のように見えている。
俺たちは礼を言って坂を下りた。行きには向かい風だったものが、今度は背中を押してくる。テッサが盾の肩紐を押さえた。
「帰りは手伝ってくれるんだ」
「行きに邪魔した分だな」
「荷物も持ってくれたらいいのに」
そこまで頼むと、持っていってほしくないものまで飛ばされそうだった。
◇
ギルドで報酬を受け取ったあと、俺たちは隊商が泊まっている宿へ向かった。
帰りの護衛に加わるかどうか。セヴランには、今日の夕方までに返事をする約束だった。
宿の裏庭では、エナが木箱へ腰を掛けて弩の手入れをしていた。俺たちに気づくと、膝の上から手を離す。
「風車の仕事は?」
「終わりました。三羽いて、巣も片づけました」
リオが答えると、エナは頷いた。
「怪我もなさそうだね」
「一本、矢を駄目にしたけど」
リオが矢筒から取り出したのは、先端近くで軸が割れた矢だった。最初に外し、地面へ当てた一本だ。
エナは受け取らず、彼の手元を覗いた。
「風に持っていかれた?」
「それも。でも、待てたのに射っちゃった」
「鳥が飛ぶ前に、って?」
リオが頷いた。
エナは弩を箱の上へ置いた。矢は装填されておらず、弦も引かれていない。
「私もあるよ。今しかないと思って撃ったら、その後でもっといい場所へ止まった」
「弩でも?」
「持ってる道具が違うだけで、焦るのは同じだから」
リオは膝を曲げ、弩の横から仕組みを見た。
「構えて待てるのは、いいですよね」
「それは助かる。ただ、撃った後は弦を引き直さないといけない。近くで次々に動かれると、一本外した分が痛い」
エナは弩の胴を軽く叩いた。
「私のこれなら、なおさらね。弓みたいには続けて射てない」
テッサがリオを見た。
「替える?」
「買える値段を聞いてからにしてくれる?」
リオが真面目に答えたので、エナが笑った。
「触ってみる? 矢は入ってないけど、人のいない方へ向けて」
リオは弓を俺へ預け、弩を受け取った。
肩へ当てる位置を教わり、裏庭の土壁へ向ける。初めて持つ道具を確かめる顔は、《鉄輪》でいろいろな武器を試したときの自分を見ているようだった。
「前が重い」
「腕だけで持とうとするから。もう少し身体へ寄せて」
エナに直してもらうと、揺れが小さくなった。
リオはしばらく構え、それからゆっくり下ろした。
「……面白いね、これ」
「だろうね。私も気に入って使ってる」
返された弩を受け取り、エナは布で金具を拭いた。
「弓は、どうして選んだの?」
俺もリオへ目を向けた。
射る姿を何度も見てきたのに、それをちゃんと聞いたことはなかった。
リオは俺から弓を受け取ると、握りの部分を親指で撫でた。
「最初は、近づかなくていいと思ったから」
「魔物に?」
「うん。剣が届くところまで行くのは、怖かった」
俺は少し笑った。
「今も怖いぞ」
「ノルが言うと、あんまり安心できないね」
「安心させるために槍を買ったわけじゃないからな」
テッサが自分の盾を振り返る。
「私なんて、近づいてくる方だよ」
「だから、二人ともすごいと思ってる」
リオはあっさり言った。
返す言葉を探しているうちに、彼は弓へ目を戻した。
「でも、離れてるだけじゃ駄目だった。前が見えなかったら射てないし、外したら、その間も二人は戦ってる」
エナは口を挟まずに聞いていた。
「今は、見えてるのに届かないのが嫌なんだ」
リオの指が、握りから離れた。
「テッサの盾の外に何か回ったときとか。ノルが槍を戻して、道を空けてくれたときとか。そこへちゃんと射てるようになりたい」
石雫の迷宮で、俺が前へ出すぎた場面を思い出した。あのときも、リオは後ろで矢をつがえていた。
撃たなかった一本のことは、撃った本人にしか分からない。
「ずっと弓に決めるかは分からないけど」
リオは弦の端を確かめた。
「まだ、これでもっとできることがあると思う」
エナが口元を緩めた。
「それなら、急いで替える理由はないね」
それから、割れた矢を指した。
「次は、それを一本減らすところからかな」
「うん」
「上手くなっても、矢を探す時間はなくならないけど」
「そこは減ってほしかった」
俺もそう思う。武器を選んだあとには、使う練習と、使い終わったあとの仕事が待っているらしかった。
◇
セヴランが戻ってきたのは、その少しあとだった。
俺たちは、ベルナにもうしばらく残ることを伝えた。
「風車を見たら満足したかと思ってたが」
「見たいものが増えました」
リオが答える。
「北の迷宮の話を聞いて。まず、どんな場所か調べようと思ってます」
「風鳴りか」
セヴランは俺とテッサも見た。
二人で頷くと、彼は腰の袋から小さな紙を出した。隊商の泊まる宿や、出入りする商会が書かれている。
「帰りの足を探すときは、ここでも聞ける。出発日と、護衛を雇うかは、その都度確かめろ」
「ありがとうございます」
「俺たちの帰りを断ったからって、歩いて帰らなきゃならんわけじゃないぞ」
「そこまでは意地を張りません」
「ならいい」
紙を受け取ると、セヴランが片手を差し出した。
握った手は大きく、指の付け根に硬いところがあった。
「四日間、助かった」
「俺たちの方が、教わってばかりでした」
「馬を守った仕事まで、なかったことにするな」
俺は顔を上げた。
荷車の脇で止まった穂先。盾の向こうから来た狼。割れずに届けられた器。
セヴランは、もう一度俺の手を握ってから離した。
「また道で会ったら、声をかけろ」
「はい」
テッサとリオも、それぞれ挨拶をした。
宿を出るとき、エナが後ろから声を掛けた。
「リオ」
彼が振り返る。
「今度会ったら、風の中で何本当てたか聞かせて」
「外した方も?」
「そっちの方が、話は面白いかもしれない」
リオが笑った。
「少なくなるように練習しておく」
◇
ギルドへ戻る道で、リオは少し口数が減った。
手には、折れた矢をまだ持っている。
「弩、欲しくなった?」
テッサが聞くと、彼は首を振った。
「気にはなった。でも、今の弓をもう少し使う」
「じゃあ、次の宝箱は弓でもいいね」
「そんなに都合よく入ってるかな」
「私の手甲は入ってたよ」
「お前、その前に持ち手を何度も握り直してたからな」
俺が言うと、テッサは左手を開いたり閉じたりした。
「じゃあ、弓が欲しいって何度も言っておく?」
「宝箱に聞こえる声で?」
リオが笑った。そのあとで、俺たちを交互に見た。
「……本当に残ってよかった?」
「何が?」
「僕が迷宮の話をしたから」
俺は立ち止まらず、少し歩く速さを緩めた。
「地下の湖、覚えてるか」
「もちろん」
「俺、ああいうものを見たくて冒険者になったんだ。この街まで来て、まだ見てない場所があるなら気になる」
テッサも頷いた。
「私は宝箱」
「そこは迷わないんだな」
「でも、知らない弓が入ってたら、リオに見てもらわないと分からないし」
リオがこちらを見た。
俺は続けた。
「お前が行きたいって言った場所に、俺たちも行きたくなった。それじゃ駄目か?」
彼はすぐには答えなかった。
代わりに、折れた矢を鞄へしまった。
「駄目じゃない」
「なら、決まりだな」
「うん」
次の角では、リオが先にギルドの方へ曲がった。
◇
風鳴りの迷宮は、ベルナの北にある登録迷宮だった。
受付で見せてもらった記録では、入口近くの回廊は銅札でも探索できる。ただし、その先へ続く縦穴や高低差の大きな区画は別扱いになっている。
風が通るのは、壁や天井に開いた穴が、外や別の空間へ繋がっているためらしい。
「風が吹いている方へ行けば、外へ出られるわけではありません」
受付の職員は、最初にそこを説明した。
「吹き込む穴も、抜ける穴もあります。人の通れる大きさとは限りませんから、帰り道は通ってきた道で確かめてください」
俺たちは頷いた。
公開されている入口付近の図面を借り、窓際の卓へ広げる。
途中で二つに分かれ、また合流する通路。その先に、柱の並ぶ広間が描かれていた。奥には未確認の印もあるが、今の俺たちが考えるのは、まず手前の部分だった。
リオが分かれ道へ指を置いた。
「ここ、片方が壁沿いで、もう片方は広いね」
「盾を使うなら、壁がある方が楽かも」
テッサが身を寄せた。
「でも、逃げるときに詰まる幅かどうかは、見ないとな」
俺も卓へ肘をついた。
明日は朝から情報を確かめ、道具を揃える。入るなら入口側の回廊まで。そう決めると、どれだけ灯りを持っていくか、昼の飯をどうするかと、話は次々に続いた。
窓から吹いた風が、図面の端を持ち上げた。
リオが指で押さえる。
その向こうでは、丘の風車が夕空の中で回っていた。今日、俺たちが直す手伝いをした羽根も、あの中にあるのだろう。
「今度は、どんな場所だろうね」
リオが言った。
まだ見ていない通路を指す手元へ、俺とテッサも顔を寄せた。
三人分の影が、机の上の道に重なった。




