第57話 風の中へ届く矢
丘へ上がる道では、テッサがいつもより口数を減らしていた。
疲れたのかと思って横を見ると、背中の盾を押さえている。
「重い?」
「横から引っ張られる」
風が吹くたび、盾の広い面が押されるらしい。彼女は身体の向きを少し変え、歩き直した。
俺も短槍を立てすぎないよう持ち替えた。
昨日、町から見た風車はゆっくり回っていた。だが、その足元へ来ると、羽根が空気を切る音が思ったより大きい。
その中に、一基だけ止まっている風車があった。
依頼の場所だった。
◇
受付で確認した報告では、風切り鳥は三羽だった。
風車の外側に巣を作り、帆布を引き裂いて運び込んでいる。作業員が近づくと追い払おうとしてくるため、補修が止まっていた。
依頼には、駆除後の巣の撤去と帆の補修が終わるまで、周囲を見張る仕事も含まれていた。
風車の入口で待っていたのは、白髪交じりの髭を生やした男だった。
「ヨストだ。この風車を見ている」
男は俺たちの武器を見てから、リオの弓へ目を留めた。
「射るなら、先に場所を相談してくれ。人も帆も、穴を増やしたくない」
「はい。巣はどこですか」
リオが聞くと、ヨストは塔の脇へ回った。
石造りの土台から少し上に、外へ突き出した木組みがある。その隅へ、枝や布が詰め込まれていた。
「今、二羽いる。もう一羽は、ときどき丘の下へ降りる」
覗いていた頭は、烏より大きかった。
長い尾と、先の尖った嘴。巣から身を起こした一羽が翼を広げると、思っていた以上に幅がある。
俺は槍の長さと、巣までの高さを見比べた。
背伸びをしても、届く場所ではない。
リオは上を見たまま、風で揺れる自分の袖を押さえた。
「ここ、町より強いですね」
「強いだけなら、まだ読みやすい」
ヨストは塔の角を指した。
「向こうから来た風が、ここへ回り込む。上と下でも違う。羽根が回る向きだけ見て、足場の上で油断するなよ」
俺には、頬へ当たる風が一度弱くなったことしか分からなかった。
リオは塔の角と、足元の草を順番に見た。
「細い布を、少し借りられますか」
ヨストが眉を上げる。
「何に使う」
「風が見えるところを、増やしたいです」
◇
リオは借りた布を二本、違う高さへ結んだ。
一つは腰くらいの杭へ。もう一つは、作業用の棒の先へ付けた。
上の布がまっすぐ伸びていても、下の布は垂れたり、横へ跳ねたりした。
「同じようには動かないんだな」
俺が言うと、リオは頷いた。
「思ってたより、違う」
作業員には風車の中へ入ってもらい、俺たちは巣の見える位置へ移った。鳥の向こうに人がいないことも確かめる。
一羽が巣から出て、低い石積みに降りた。
翼を畳み、首を動かしている。
リオが弓を引いた。
俺は声を出さず、鳥を見た。
弦が鳴る。
矢は鳥の横を抜け、後ろの土へ刺さった。
風切り鳥が跳ね上がった。甲高い声を上げ、翼を広げて塔の向こうへ回る。
巣にいたもう一羽も飛び立った。
「上!」
テッサが盾を持ち上げる。
黒い影が頭の上を横切った。俺は槍を上げかけたが、届く前に通り過ぎていた。
リオは次の矢をつがえた。
だが、引かなかった。
二羽が高いところで旋回している。俺たちは塔から少し離れ、見上げ続けなくても周囲を確かめられる場所まで戻った。
「ごめん」
リオが言った。
「風に持っていかれた?」
俺が聞くと、彼は刺さった矢の方を見た。
「それもあると思う。でも、早く射た。布が動き始めたのに、離した」
もう一度上空を見る。
鳥は翼を細かく動かし、向きを変えていた。
その姿を弓で追うことはできても、同じところへ矢を届けるのは別らしい。
「場所を変えよう」
リオが言った。
◇
ヨストの話では、鳥は裂いた布を運ぶ前に、風車の裏の地面へ降りることがあるという。
そこは低い石積みに囲まれ、道からは少し窪んでいた。
リオと一緒に回ると、頬へ当たる風が弱くなった。石積みの上では草が揺れているのに、下には落ちた羽毛が残っている。
「ここなら、さっきより近くから射てる」
リオは射る場所を決め、俺とテッサを見た。
「裂けた帆布を、あそこへ置きたい。来るかは分からないけど」
示したのは、巣からも見える土の上だった。
ヨストに、使えなくなった布を分けてもらった。風に飛ばされないよう端を小石で押さえ、ほつれた部分だけを動かす。
リオは石積みの切れ目に立った。
俺とテッサは、その左側。鳥がこちらへ来た場合には、盾で遮り、リオの前を空ける。
「先に手を出さないでね」
リオが言った。
「分かった」
テッサが盾を低く構えた。
すぐには来なかった。
一羽が巣へ戻り、もう一羽は屋根の向こうへ消えた。少しして、丘の下から三羽目が飛んでくる。
嘴に細い枝をくわえていた。
俺たちは動かずに待った。
そのうち、巣にいた一羽が身を乗り出した。土の上の布を見ている。
羽ばたき、低く滑るように降りてきた。
リオの弓が上がる。
今度は、鳥の身体を追って大きく動かなかった。
脚が伸び、地面を掴む。
翼がまだ畳まれきっていない、その瞬間だった。
矢が胴へ入り、風切り鳥が横へ倒れた。
羽音が激しくなる。
リオは弓を下げず、次の矢へ手を伸ばした。
俺も倒れた鳥から目を離しすぎないようにしながら、上を見た。
残る二羽が、巣から飛び出していた。
◇
一羽がこちらへ降りてきた。
翼を広げたままではなく、身体を細くして、まっすぐ近づいてくる。
「私の後ろ!」
テッサの盾が上がった。
俺は半歩下がる。
嘴が盾へ当たり、乾いた音がした。鳥は掴みかかるように爪を掛け、羽ばたいて身体を持ち上げた。
テッサは盾を振り回さなかった。
左足を引き、面を外へ傾ける。
爪が縁を滑った。
風切り鳥が低い石積みへ降り、すぐに飛び直そうとした。
「右、出す!」
俺は盾の横へ槍を伸ばした。
翼の先を追わず、その下にある身体を狙う。
穂先が当たった。
羽ばたく力に柄が揺れたが、両手を離さずに引き戻す。鳥は石積みの内側へ落ちた。
まだ動いている。
テッサが盾で頭上を覆い、俺は足元の一羽へもう一度穂先を向けた。
その時、リオが叫んだ。
「もう一羽、塔の右!」
俺は上を向かなかった。
テッサがそちらを見る。リオが弓を構える。
今、自分が受け持っているものまで放り出せば、足元の鳥がまた飛び上がる。
動きを見て突き、引く。
それから、リオの射線を空ける位置へ戻った。
最後の一羽は、すぐには近づいてこなかった。
石積みの上を回り、風を受けるたびに翼の角度を変えている。
リオは弓を引きかけ、戻した。
鳥が高くなったからだ。
俺は槍を構え、テッサと一緒にその下を見た。左右のどちらへ降りても、すぐに向き直れる距離を残す。
風が強く吹いた。
杭の布が横へ伸びる。
鳥が塔の方へ流れ、向きを変えた。巣へ戻ろうとしているのか、高さを落としてくる。
リオは狙いを先へ置いた。
鳥の今いる場所より、少し下。
石積みの陰へ入る直前、翼が一度大きく開いた。
弦が鳴った。
鳥が姿勢を崩し、土の上へ落ちた。
俺たちはすぐには近づかなかった。
リオが次の矢を持ち、テッサが盾を向ける。俺は槍の届く距離から動きを確かめ、必要な処置を終えた。
三羽とも、もう動かなかった。
風だけが、布の端を揺らしていた。
◇
リオは弓を下ろしても、しばらく鳥の落ちた場所を見ていた。
「最後の、分かったのか?」
俺が聞くと、彼は首を横に振った。
「全部は分からない。でも、上へ行った時は無理だと思った」
「降りてくるところを待った?」
「うん。さっきも、巣へ戻る時にあそこを通ったから」
リオは塔の脇を指した。
風そのものが見えるようになったわけではない。
布を見て、鳥を見て、一度外して、それから射る場所を変えた。
飛んでいるものへ矢を届かせるために、地面の上で考えることがいくつもあった。
「当たったね」
テッサが言った。
リオは、ようやくこちらを見た。
「うん」
「最初は外れたけど」
「それは覚えてる」
彼女が笑い、リオも少し笑った。
俺は穂先を下げた。
「俺たちも、ずっと上向いて戦わずに済んだ」
「僕一人だったら、途中で弓を引けなくなってたよ」
リオが、テッサの盾の傷を見た。
嘴の当たったところに、小さな跡が残っている。
テッサはそこを指で擦り、肩をすくめた。
「その分は働いたからね」
◇
ヨストたちは、俺たちが周囲を見張る間に巣を撤去した。
木組みの隅から出てきたのは、枝と羽、それに何枚もの帆布だった。まだ卵はなかったらしく、男は中を確かめてから息を吐いた。
「よくも、こんなに持っていったな」
裂けた布を広げると、同じ色の切れ端がいくつも重なっていた。
風車の帆へ継ぎを当て、傷んだところを締め直す。
作業をする人間が上にいる間、リオは鳥の飛んできた丘の下を見ていた。俺とテッサも、道と塔の反対側へ目を配る。
別の個体は現れなかった。
やがて、作業員が下りてきた。
道具を片づけ、人が離れたことを確かめてから、ヨストが風車の中へ入る。
低い音がした。
止まっていた羽根が、少し動く。
布が風を受けて膨らみ、大きな影が地面を横切った。
一周。
さらに、もう一周。
塔の中から、歯車の噛み合う音が響き始めた。
テッサが顔を上げる。
「動いた」
俺も頷いた。
昨日、町へ着いた時には、風車が回っているのは当たり前の景色だった。
今は、継ぎを当てた帆の場所が分かる。あそこへ上がっていた作業員の顔も知っている。
ヨストが入口へ戻ってきた。
「これで粉が挽ける」
男は回る羽根を見上げてから、俺たちへ向き直った。
「助かった。完了の紙を書く。少し待っていてくれ」
俺たちは石積みのそばへ下がった。
リオが、杭に結んだ布をほどく。借りた時には長かった端が、風に揉まれて少しほつれていた。
それを畳みながら、彼は言った。
「風車、朝よりゆっくりに見える」
「風が弱くなったから?」
「そうかもしれない。でも、どこが動いてるか分かるから、そう見えるのかも」
俺は羽根の先を目で追った。
リオが何を見ているのか、全部は分からなかった。それでも、朝とは少し違う顔で見上げていることは分かった。
「この依頼、選んでよかったな」
言うと、彼は頷いた。
「うん。また、風のあるところで練習したい」
「次は、鳥がいないところで頼む」
テッサが言った。
俺たちは笑った。
丘を渡る風が、畳みかけの布をもう一度揺らした。
リオは慌てて押さえ、それから風車へ目を戻した。
俺たちが仕事を終えたあとも、大きな羽根は回り続けていた。




