第56話 風車の町で選ぶもの
旅の三日目は、剣も槍も使わずに終わった。
緩んだ縄を締め、車輪が深い轍へ落ちそうなところで御者へ声をかける。昼には足を休め、夕方には寝床を作る。
灰牙狼が出た日のあとだったからか、何も起きない時間が、前よりありがたかった。
その日の休憩で、セヴランに聞いた。
「銀札になったら、こういう道も楽に歩けるんですか」
彼は水筒を口から離し、俺の靴を見た。
「足は痛くなる」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
セヴランは少し笑い、栓を閉めた。
「昔より、余計な戦いは減ったな」
「魔物を早く見つけられるから?」
「それもある。あとは、通る道と時間を選ぶ」
彼は、俺たちが上ってきた坂を指した。
少し手前には、林へ入る細い道があった。御者が、あちらを通れば距離は短いと言っていた場所だ。
「あっちは雨が降ると水が溜まる。今日は乾いて見えても、車輪が沈むことがある。抜くのに時間を使えば、暗くなるまでに次の宿へ着けん」
「知ってれば、避けられるんですね」
「一度、知らずに入ったからな」
俺は顔を上げた。
「セヴランさんが?」
「荷を半分下ろして、また積んだ。日が暮れてからだ」
少し離れたところで、御者が笑った。
「その話、俺は聞いてないぞ」
「別の隊だ。お前にはやらせてないだろう」
セヴランは水筒をしまい、立ち上がった。
強い武器を持っていれば、先へ行けると思っていた。
もちろん、それも必要なのだろう。ただ、目の前の銀札は、道が乾いて見えることまで疑っていた。
俺は林へ入る道を、もう一度見た。
そこを選ばなかった理由を、次に通る時も思い出せるだろうか。
◇
四日目の昼を少し過ぎた頃、丘の向こうに大きな羽根が見えた。
最初は一本だった。
坂を上がるにつれて、その隣にも、さらに奥にも現れる。布を張った四枚の羽根が、空をゆっくり区切るように回っていた。
「風車」
テッサが言った。
俺も頷いた。
絵図で見た時には、町の場所を示す小さな印だった。それが今は、丘の上で本当に動いている。
建物の高さより、羽根の先が描く円の方が大きい。
その足元には、赤茶色の屋根が並んでいた。
「ベルナだ」
御者が教えてくれた。
道端の草が、一斉に倒れた。
次の瞬間、風が幌を膨らませ、テッサの短い髪を乱した。彼女は目の前へ来た髪を払い、盾の肩紐を握り直す。
「風車が多い理由、分かった」
「まだ町に着いてないのにね」
リオが笑った。
彼は風車を見たあと、道端の細い草へ目を落とした。倒れた草が起き上がると、今度は丘の旗へ視線を移す。
俺は短槍を持つ手を替えた。
水路を辿って歩くリーヴェとは違う。
この町では、見上げれば何かが風に動いていた。
◇
門を通っても、仕事は終わらなかった。
三台の荷馬車は商人たちの集まる広場へ入り、それぞれ指定された場所へ寄せられた。
俺たちの守っていた最後尾の車は、陶器を扱う店の裏へ着いた。
「下ろすのは、こちらの人間が数を確かめてからだ」
セヴランに言われ、待つ。
店から出てきた男が帳面を開き、御者と荷を見比べた。幌が外され、藁で包まれた籠が一つずつ下ろされる。
俺とテッサは、大きな籠の両側を持った。
四日間、横を歩いていた荷物だ。
実際に持つと、思っていたより重かった。
「よく馬が運んだね」
「俺たちは横を歩いてただけだったな」
「その横を歩くのも、結構大変だったけど」
指定された台へ、ゆっくり置く。
店の男が藁を除けると、青い縁取りのある皿が現れた。別の籠からは、持ち手の付いた杯が出てくる。
魔物が出た時、御者が気にしていたものだった。
割れていない。
男は一枚ずつ確かめ、帳面へ印を付けた。
「こちらの皿は、丘の宿へ回してくれ。杯は店に出す」
手伝いの人間が頷いた。
俺は空になった籠を持ち上げた。
あの皿で、誰かが夕飯を食べる。
それを想像すると、街道で槍を構えていた時間と、この店の仕事が、ようやくつながった気がした。
最後の荷を渡し終えると、御者が俺たちへ手を差し出した。
「無事に着いた。ありがとうな」
俺はその手を握った。
短槍の柄とは違う、温かく硬い手だった。
◇
ベルナのギルドは、広場から二つ角を曲がったところにあった。
リーヴェより小さな建物だったが、入口には荷を積んだ背負い籠や、泥の付いた長靴が並んでいる。受付の脇には、町と周辺の丘を描いた地図が掛かっていた。
セヴランが完了の書類を渡し、俺たちも呼ばれて名前を告げた。
報酬は一人、銅貨四十八枚。
一日十二枚で、四日分だった。
硬貨を袋へ入れると、まとまった重さになった。道中の食事が出た分、自分の財布から減った金も少ない。
テッサが口を結び直し、小さく息を吐く。
「着いて、お金もある」
「帰る分は残しとけよ」
「分かってる。今、残す方を考えてた」
俺も頷いた。
全部を次の道具へ使うわけにはいかない。ここで何日泊まるかによっても、残す額が変わる。
エナが、自分の荷物を背負いながら言った。
「宿は決まってる?」
「まだです」
「西の通りなら、冒険者を泊め慣れてるところがある。武器を持って入れるけど、部屋で振らないでね」
「振りません」
俺が答えると、テッサが槍を見た。
「眺めるだけです」
「余計なこと言うな」
エナは笑い、通りの名前をもう一度教えてくれた。
セヴランは帰りの隊を組む予定だという。同行を希望するなら、明日の夕方までに知らせれば、条件を説明してくれるそうだ。
「俺たちは、少し町を見たいです」
そう伝えると、彼は頷いた。
「なら、見てこい。せっかく来たんだ」
依頼の間は、止まる場所も進む時間も決まっていた。
今は、次にどこへ行くかを自分たちで決められる。
俺は二人を見た。
「まず、宿だな」
「その次は、ご飯」
テッサが言った。
リオは窓の向こうの風車を見ながら、少し考えていた。
「僕は、そのあと丘を見たい」
◇
紹介された宿で部屋を取り、荷物を置いた。
靴を脱ぐと、足の指まで疲れているのが分かった。ずっと歩いていた時には、足全体が一つの重いものになっていた気がする。
テッサは寝台へ腰を下ろし、そのまま倒れかけた。
「もう出ない?」
俺が聞くと、彼女はすぐ起き上がった。
「ご飯は行く」
それなら大丈夫そうだった。
大通りへ戻ると、パンを売る店がいくつも見えた。
丸いもの、細長いもの、種をまぶしたもの。窓の下には粉の入った袋が積まれ、店先を通るたびに焼けた匂いが変わる。
俺たちは薄い汁物と、厚く切ったパンを出す店に入った。
テッサがパンを齧ろうとして、途中で止まる。
「これ、硬い」
「汁に浸すらしい」
「知ってたなら先に言ってよ」
ガルドの忠告を伝えると、リオが笑った。
「ちゃんと役に立ったね」
浸したパンを食べる。
食堂の柔らかいパンとは違う。穀物の匂いが強く、噛むほど味がした。
ガルドに聞かれたら、まずこれを話せる。
俺がもう一口食べたところで、店の外を風が抜けた。
吊るしてあった布が大きく持ち上がる。
リオは匙を止め、そちらを見た。
「気になる?」
聞くと、彼は頷いた。
「建物の間だと、急に向きが変わるんだね」
「風の?」
「うん。丘の旗は同じ方を向いてるのに、ここの布は戻ってくる」
俺は窓の外を見た。
さっきまでは、ただ風の強い町だと思っていた。
リオには、それより細かい違いが見えているらしい。
◇
食後、俺たちはもう一度ギルドへ寄った。
丘へ上がる道と、立ち入ってはいけない場所を聞くつもりだった。仕事を受けるかどうかは、休んでから決めればいい。
だが、依頼板の前でリオの足が止まった。
「これ、見ていい?」
指した紙には、小さな鳥の絵が添えられていた。
《東風車丘・風切り鳥駆除》
翼を広げた姿は烏に似ていたが、尾が長く、脚の爪も大きく描かれている。
風車の帆布を傷め、補修に上がる作業員へも近づいてくるらしい。現場で個体数と飛来場所を確認し、駆除する。詳しい状況は、受付と依頼主に確認するよう記されていた。
「鳥か」
俺は窓の外の風車を見た。
高い。
あの羽根の辺りを飛び回られたら、短槍を持っていても届かない。
「飛んでるところを射つの?」
テッサが聞くと、リオはすぐには頷かなかった。
「ずっと飛んでるとは限らない。降りる場所があるかもしれないし」
紙の絵へ、もう一度目を落とす。
「でも、風の中でどう飛ぶのかは見たい」
俺はリオの顔を見た。
依頼を選ぶ時、いつも周囲の条件を確かめてくれる。行ける道や、戻る場所を考えることも多い。
今は、その先に自分のやりたいことがある顔だった。
「弓の練習になるから?」
「それもある」
リオは少し迷い、それから口を開いた。
「迷宮では、壁があったでしょ。矢を通せる場所を見つければよかった。でも街道だと、同じところを狙っても風で変わる」
新しく揃えた矢筒へ手を置く。
「道具を揃えても、外の風は揃わないから。そこでも、狙ったところへ届かせたい」
俺は短槍の柄を握り直した。
遠くへ届く武器が欲しかった。
リオも、同じように自分の届く場所を広げたいのだろう。ただ、俺と違って、武器の長さを変えれば済む話ではない。
「じゃあ、詳しく聞こう」
俺が言うと、リオが顔を上げた。
「いい?」
「俺の槍にも付き合ってもらっただろ」
「私も聞く。盾を上に向ける仕事かもしれないし」
テッサが鳥の絵を見上げる。
「ただ、ずっと上向いて歩くのは無理だよ。転ぶ」
「そこは、僕が見る」
リオが答えた。
窓から入った風が、依頼票の端を持ち上げた。
彼は紙を押さえ、俺たちにも読めるように指をずらした。
まだ、受けるとは決めていない。
鳥の数も、飛ぶ高さも、足を置ける場所も分からない。聞いてみれば、今の俺たちには難しい仕事かもしれなかった。
それでも、話を聞きに行く理由はもうあった。
窓の外で、大きな風車が回っている。
リオが依頼票を外した。
「僕、これをやってみたい」
今度は、彼の行きたい場所へ、三人で向かう番だった。




