第55話 穂先の向こう
馬具の金属が、また鳴った。
俺は焚き火の外へ目を向けた。
さっきから、短い間隔で同じ音がしている。馬が身体を動かせば鳴る音だ。セヴランにも、最初にそう教わった。
ただ、今はそのあとに続く蹄の音が少なかった。
同じ場所で、何度も金具だけが鳴っている。
「馬のところ、見てもいいですか」
隣へ声をかけると、セヴランがこちらを向いた。
「何かあったか」
「音が同じところで続いていて。歩いてる感じではないんですけど」
彼は少し聞いてから、俺の立つ位置を指した。
「俺が確かめる。お前はここを見ていろ」
セヴランが灯りを持って近づくと、繋がれた馬が頭を上げた。低く張り出した枝へ引き綱が引っかかり、首を動かすたびに金具が鳴っていたらしい。
綱を外し、繋ぐ位置を変える。
戻ってきたセヴランは、灯りを元の場所へ置いた。
「絡んでいた。よく気づいたな」
「音が気になっただけです」
「それで十分だ。何が起きているかは、見て確かめればいい」
俺は頷き、また街道へ目を戻した。
暗がりの向こうが見えるようになったわけではない。聞こえるものが全部分かるわけでもなかった。
それでも、同じ音をしばらく聞いていると、違った時に顔を上げられる。
その夜、俺の番では魔物は来なかった。
交代に来たリオへ馬のことを伝え、毛布へ潜る。地面は宿の寝台より硬かったが、身体を横にした途端、膝の裏から力が抜けた。
次に目を開けた時には、天幕の布が朝の光を通していた。
◇
「寝た?」
荷物をまとめながら、テッサに聞かれた。
「寝た。もう少し寝たかった」
「私も」
彼女は盾を背負い、肩紐を直した。
リオは水を飲んでから、昨夜の見張りでは遠くを狐らしいものが通ったと話した。暗くて姿ははっきりしなかったが、エナには見分けがついたらしい。
「僕には、目が光ったところしか分からなかった」
「近づいてきたのか?」
「ううん。こっちを見て、それから離れた」
俺は短槍の穂先を覆う革を確かめた。
夜が明けたからといって、街道の脇にいるものまで消えるわけではない。
荷馬車が動き出し、俺たちは昨日と同じ最後尾についた。
午前の街道は、緩い上り下りが続いていた。道の片側には背の低い林があり、反対側には草地が広がっている。
車輪が轍に落ちるたび、荷台の陶器が小さく鳴った。
その音に慣れ始めた頃、先頭から短い笛が響いた。
御者が手綱を引く。
「止まるぞ」
荷馬車が速度を落とし、順に止まった。
前の方でエナが声を上げた。
「林側、二匹!」
俺は槍の覆いを外した。
テッサも盾を背中から下ろす。
何が出たのか見ようとして、顔を前へ向けかけたところで、リオの声がした。
「後ろにもいる」
振り返ると、草の間から灰色の頭が出ていた。
犬に似ているが、背に沿って黒い毛が硬く逆立っている。細長い口の端から歯が覗き、その後ろでもう一匹が身を起こした。
「灰牙狼だ! 後ろの三人、車から離れるな!」
セヴランの声が飛んだ。
俺たちは返事をした。
前に二匹。後ろにも二匹。
少なくとも、見えている数はそれだけだった。
◇
御者が手綱を握り直した。
馬が鼻を鳴らし、前脚を踏み替える。灰牙狼の一匹が、その動きへ顔を向けた。
俺たちではなく、馬を見ている。
「車の右を抜けさせない」
俺が言うと、テッサが荷馬車の右後ろへ出た。
彼女の盾と車体で、馬へ続く道を狭くする。俺はその右へ半歩ずれ、穂先を灰色の頭へ向けた。
リオは数歩後ろに残った。俺たちと重ならないよう、道の中央寄りへ位置を変えている。
先に出ていた一匹が走った。
速い。
甲虫のように床を掻いてからではなく、草を蹴ったと思った時には、もう近づいていた。
俺は穂先を突き出した。
灰牙狼が身を捻る。刃先は肩の毛をかすめただけで、深くは入らなかった。
そのまま横へ走る相手を追い、槍を大きく振りかけた。
柄の端が、荷車の車輪へ近づく。
止めた。
まず引く。
両手を戻し、穂先をもう一度、自分と相手の間へ置いた。
灰牙狼が歯を剥き、足を止めた。
俺の脚までは、まだ届いていない。
剣を持っていた時より遠い場所で、相手と向き合っていた。
「右の溝、もう一匹!」
リオの声がした。
後ろにいた一匹が、草の生えた浅い溝を使って回り込もうとしていた。
俺がそちらへ向けば、目の前の一匹が入ってくる。
「こっちは見る!」
そう答えて、穂先を下げすぎないよう握り直した。
リオの弦が鳴った。
溝の縁へ上がろうとしていた灰牙狼の肩に矢が当たり、灰色の身体が草の中へ崩れた。すぐに起き上がったが、こちらへ来る足は止まった。
目の前の一匹が、その音と同時に飛び込んできた。
槍の先を避け、俺の左へ抜けようとする。
テッサの盾が入った。
正面から叩きつけるのではなく、盾の面を進む先へ差し出す。ぶつかった頭が外へ流れ、灰牙狼の前脚が踏み直された。
「出す!」
俺は短く突いた。
穂先が、前脚の後ろへ入った。
藁束とは違う抵抗が、柄を通して両手へ伝わる。
灰牙狼が暴れ、槍が横へ引かれた。
思わず腕を固めたが、そのまま押さえ込める重さではなかった。前へ持っていかれる足を踏み直し、相手が身を捻るのに合わせて刃を引いた。
穂先が抜ける。
俺は息を吸い、盾の後ろへ戻った。
「戻った!」
テッサが盾を構え直す。
灰牙狼は数歩よろめき、口を開けたままこちらを見た。前脚を踏ん張ろうとして、片側が沈む。
まだ動く。
俺は追って突かなかった。槍を構えたまま、足を置く場所を確かめた。
リオの声が後ろから聞こえる。
「もう一匹、下がってる。でも、まだこっち見てる」
返事をしようとしたところで、目の前の灰牙狼が頭を上げた。
低く身を縮め、最後の距離を詰めてくる。
俺は大きく踏み込まなかった。
足を残し、両手で穂先を前へ送る。
喉元から胸へ刃が入り、灰色の身体が重く下がった。柄を掴んだまま膝を曲げ、横へずれて抜く。
灰牙狼は地面へ伏せた。
その向こうで、矢を受けた一匹が身を翻した。
草が大きく揺れ、灰色の背が遠ざかっていく。
リオは弓を向けたまま、次の矢を放さなかった。
俺も、その場に残った。
◇
「後ろ、どうだ!」
セヴランの声がした。
「一匹倒れました! もう一匹は草地へ!」
答えたつもりだったが、最後の方で声が裏返った。
テッサは盾を下ろしていない。リオも草地を見ていた。
前の二匹は退けたらしい。エナが荷馬車の脇を通って戻り、離れていった灰牙狼の方へ弩を向ける。
セヴランは倒れた一匹と周囲を確かめた。
「三人、怪我は?」
「ないです」
俺が答えると、テッサとリオも続いた。
そこで初めて、自分の手が震えているのに気づいた。
柄に血が付いている。
昨日まで宿で眺めていた、黒い柄だった。
「槍、離せるか」
セヴランに聞かれ、俺は指を一本ずつ緩めた。
「はい」
「なら、一度息を吐け」
言われた通りにする。
吐き切ると、吸う方は勝手にできた。
テッサが、こちらを見ずに言った。
「一回目、振り回すかと思った」
「俺も思った」
「やめてくれてよかった。私、そこにいたから」
俺は頷いた。
稽古場なら、ぶつければ止めてもらえる。
ここでは、テッサに柄を当てたその間に、灰牙狼が馬へ抜けていたかもしれない。
リオが少しだけ弓を下げた。
「戻る場所、空いてたね」
「ああ」
あの時、後ろを全部見直さずに下がれた。
そこにテッサの盾があり、俺が戻れば右側が開く。リオが見る場所も分かっていた。
何度も間違えた動きが、今日は一つ、間に合った。
◇
周囲を警戒しながら、出発の支度を整えた。
御者は馬の脚と荷台を確かめていた。幌を持ち上げ、藁に包まれた陶器を覗く。
「割れてないぞ」
その声を聞いて、俺は顔を上げた。
御者がこちらを見た。
「馬も、荷も無事だ。助かった」
俺は短槍を持ち直した。
倒した魔物を見ていた時より、その言葉の方が、仕事を終えた感じがした。
テッサがようやく盾を下ろす。
「私たちも、割れてないです」
「そっちが一番だよ」
御者は笑ったが、手綱を握る手はまだ強張っていた。
俺たちだけが怖かったわけではなかった。
セヴランが隊を動かす前に、短く話をした。
「馬の方へ抜けさせなかったのはよかった。ノル、最初の突きは追いすぎたな」
「はい」
「当たらなかったあと、戻したのはいい。槍を外へ流せば、その内側へ入られる」
俺は頷いた。
全部がうまくいったわけではない。それでも、何を間違え、どこで立て直せたのかは覚えていた。
エナがリオへ声をかける。
「追う一発は撃たなかったね」
「遠ざかっていたし、まだ他にもいるかもしれなかったので」
「うん。残しておいて」
リオは矢筒へ手をやり、頷いた。
荷馬車が動き出す。
俺たちは同じ場所を歩き始めた。さっきまでと違うのは、穂先をまだ覆っていないことと、草の揺れへ目が向く回数が増えたことだった。
◇
昼の休憩で、俺は短槍の汚れを落とした。
穂先の付け根と、柄に残った血を拭う。刃を光へ向け、欠けがないか確かめた。
大きな傷は見つからなかった。
それでも、帰ったらドランに見てもらおうと思った。
横では、テッサが盾の縁に付いた灰色の毛を取り、リオが矢筒の中を整理していた。
「使ってみて、どうだった?」
テッサに聞かれ、俺は穂先を見た。
「届いた」
「それは見てた」
「いや。俺が近づかなくても、届いたんだなって」
彼女は少し考えてから頷いた。
「その分、私も押されっぱなしにならなかった」
「僕も、ノルが戻ったあと、向こうを見られた」
リオが言った。
俺は二人の顔を見た。
短槍を初めて持った時には、手に馴染むかどうかしか分からなかった。買えた時には、自分の武器になったことが嬉しかった。
今日は、それが二人の動きまで少し変えた。
布を畳み、穂先へ革の覆いをかける。
銀貨三枚と銅貨四枚は、確かに高かった。
だが、値札を思い出してため息をつく気にはならなかった。
◇
その日の夕方、予定していた宿場へ着いた。
柵の内側へ荷馬車が入り、馬を預ける声が飛び交う。宿の窓から灯りが漏れ、焼いた玉葱の匂いがした。
テッサが建物を見上げた。
「今日は地面じゃないね」
「寝台があるとは、まだ聞いてないぞ」
「今、それ言わないで」
リオが笑った。
俺たちは荷を見届けてから、泊まる部屋へ案内された。広い相部屋だったが、藁を詰めた寝具が三つ並んでいる。
テッサは腰を下ろし、満足そうに頷いた。
窓際には、街道沿いの町を描いた古い絵図が掛かっていた。
リーヴェから東へ続く線。その先に、小さな風車が何本も描かれている。
ベルナだった。
リオが俺の隣へ来た。
「あと二日くらいだね」
「ああ」
絵図の中では、指一本で届く距離だった。
実際には歩いて、眠って、荷馬車を守って、もう一度歩く。その途中で、俺の短槍には初めて血が付いた。
俺は絵図から離れ、武器を寝床の脇へ置いた。
今日守った陶器も、あの町へ届く。
自分たちが見に行く場所で、それを買って使う人がいる。
明日は、もう少し近くなる。




