第54話 東へ向かう車輪
交易隊との顔合わせは、ミラから依頼を紹介された二日後だった。
ギルドの小部屋には、丸めた地図と、木製の小さな駒が三つ置かれていた。
その向こうに座る男が、俺たちの顔を順に見た。
「セヴランだ。ベルナまでの護衛をまとめる」
四十歳くらいだろうか。日に焼けた顔に、短く刈った髪。椅子の脇には、使い込まれた鞘に収まる剣が立てかけられている。
胸元の札は銀色だった。
俺は背筋を伸ばした。
「ノルです」
テッサとリオも名乗る。
セヴランは手元の紙へ目を落としてから、最初の質問をした。
「歩けるか?」
「はい」
「一日歩いて、飯を食って、夜の見張りをして、翌朝また歩く。それを何日か続ける」
俺は返事を少し遅らせた。
遠征では歩いた。迷宮にも入った。
ただ、宿で眠れるのと、途中で起きて見張りをするのでは違う。
「夜の見張りを交代しながら、何日も歩いた経験はありません」
「分かった。初日は疲れ具合を見る」
セヴランは紙に短く書き足した。
できないと言えば、その場で断られるかと思っていた。男は特に顔色も変えず、地図を広げた。
「荷馬車は三台。護衛は俺とエナ、それにお前たち三人で五人だ」
隣にいた女性が手を上げた。
日に焼けた頬と、後ろでまとめた茶色の髪。足元の袋からは、弩の弓部分が覗いていた。
「エナです。足にまめができたら、歩けなくなる前に言ってね。黙って遅れる方が困るから」
俺たちは頷いた。
セヴランが地図に駒を並べる。
「四日で着く予定だ。天候で延びることはある。初日の夜は街道沿いの野営地、次は宿場を使う」
「野営の道具は、持参ですか?」
俺が聞くと、彼は荷馬車を示す駒を指した。
「天幕は隊で持つ。自分の毛布と雨具は用意しろ。食事は出る」
テッサが、そこで少し安心した顔をした。
報酬は一人、一日銅貨十二枚。日程が延びた場合も、同じ日額が出る。契約はベルナへの到着と荷下ろしまでで、帰りは別だった。
食費を考えれば、悪くない。
ただ、俺は報酬欄だけでなく、地図の線を見ていた。
「途中で魔物が出たら、俺たちはどこを守ればいいですか?」
「まず最後尾の車だ。お前たちの判断で列を離れて追うな。前で何かあっても、呼ぶまでは後ろを空けるな」
セヴランが、三つ目の駒を指した。
「全員が同じものを見に行くと、反対側から持っていかれる」
荷車の男が、盾を避けてイーヴへ手を伸ばした時のことを思い出した。
目立つ相手だけを見ていればいい仕事ではない。
「三人で最後尾ですね」
「移動中はな。夜は経験のある者と組ませる」
俺は二人を見た。
リオは道沿いの林を指し、水場の場所を尋ねた。テッサは、停車した時に荷台へ盾を置いてもいいか確かめている。
質問が終わると、セヴランは地図から手を離した。
「どうする?」
俺たちは顔を見合わせた。
「受けます」
三人の返事が、ほとんど重なった。
◇
出発までの二日は、思ったより短かった。
稽古場へ通い、雨具の綻びを縫い、毛布を巻き直す。短槍で突いたあとに戻る位置も、何度も確かめた。
ガルドには、東のベルナへ行くと伝えた。
「風車の町か」
「知ってるんですか?」
「粉を扱う商人が来る。あそこの堅いパンは、汁へ浸して食え。歯で勝負するなよ」
景色より先に食い物の話が出るのは、予想通りだった。
出発の朝、東門の外には三台の荷馬車が並んでいた。
幌の下へ荷物が積まれ、御者たちが縄を締め直している。馬の鼻から白っぽい息が漏れ、車輪のそばで木の楔を外す音がした。
最後尾の車には、藁で包んだ陶器が積まれていた。
俺たちを見た御者が、荷台を親指で示した。
「頼むぞ。こいつらは文句を言わんが、割れると高い」
「人も、怪我すると高いですよ」
テッサが答えると、御者は笑った。
「そりゃそうだ。どっちも無事に運ぼう」
水筒や毛布など、すぐには使わない荷物を指定された場所へ積ませてもらう。俺は短槍を手に持ち、剣と短剣は腰へ残した。
背中が軽くなったテッサが、肩を回した。
「荷車って便利だね」
「この前は、乗れないって残念がってただろ」
「荷物だけでも、だいぶ違う」
リオは車の後ろから、前の二台まで見通していた。
セヴランの合図で、先頭が動き出す。
一台ずつ車輪が回り、最後に俺たちの横の車も進んだ。
馬の歩みに合わせて足を出す。
街へ戻ったばかりなのに、もう次の道を歩いていた。
◇
街道は、思っていたより忙しかった。
空の荷車が向こうから来る。籠を背負った人が道端へ寄る。羊を連れた一団とすれ違う時には、こちらも速度を落とした。
羊の一匹がテッサの盾へ鼻を近づけ、彼女が困った顔をする。
「食べ物じゃないよ」
「木だから、分かるんじゃないか」
「昨日、革まで拭いたんだけど」
リオが笑い、群れの最後が通り過ぎるのを見届けた。
低い丘へ上がると、背後にリーヴェが見えた。
石の建物と水路。その間を渡る橋が、遠くからは細い線になっている。
俺は歩きながら、一度だけ振り返った。
あの中の食堂で、旅人の話を聞いていた。
今は、帰った時に話すことを増やしに行くところだった。
道の右手には川が見え始めた。白い帆が一つ、畑の向こうをゆっくり動いている。
「船もベルナへ行くんですか?」
御者に聞くと、男は首を振った。
「川をそのまま行けば、別の町だ。ベルナは丘の方。船で全部運べるなら、俺も少し楽なんだがな」
地図の線が、目の前の景色につながる。
川と街道が分かれていくところを、俺はしばらく見ていた。
「ノル、車」
リオに呼ばれ、前へ向き直る。
荷馬車との間が、少し空いていた。
「悪い」
「僕もさっき、帆を見てた」
二人で歩調を戻した。
見たいものが増えると、仕事中の目が足りなくなるらしい。
◇
昼前、リオが荷台の横で足を止めた。
「この縄、朝より下がってない?」
俺も見る。
幌を押さえている縄の端が、車体の外で揺れていた。結び目の位置までは覚えていなかったが、風を受けるたび、幌の端が大きく膨らむ。
御者へ伝えると、男は後ろを振り返った。
「本当だ。次の広いところで止める」
前へ声が送られ、荷馬車は少し先の道端へ寄った。
エナが二台目から戻ってくる。
「どうした?」
「荷の縄です。締め直します」
俺が答えると、彼女は荷台を見て頷いた。
「じゃあ私は前へ伝える。三人とも荷物に集まらないでね」
テッサが道側へ残り、リオは後方へ目を向けた。
俺は御者と一緒に縄をほどく。幌の下で、藁を詰めた籠がわずかにずれていた。
「ここを押さえてくれ」
「はい」
籠を戻し、縄を掛け直す。
食堂の荷物や、採石場の資材を縛った時と同じだった。槍は車体へ立てかけ、両手で縄を引く。
男が結び目を確かめた。
「よし。助かった」
動き出す前に、リオが後ろから来る荷車を知らせた。テッサが道を空け、先に通す。
大した出来事ではなかった。
魔物も出ていない。誰も武器を抜いていない。
それでも、荷馬車がまた走り始めた時、さっきより少し仕事をした気がした。
セヴランが前から歩いてきて、御者の話を聞いた。
「気づいたのは?」
「リオです」
俺が答えると、彼はリオへ頷いた。
「次も変わったところがあれば言ってくれ」
リオは短く返事をした。
隊長が先頭へ戻ってから、テッサが小声で言う。
「私、羊しか見つけてない」
「ちゃんと道を見てただろ」
「次は羊以外も見つける」
俺は笑い、短槍を持ち直した。
◇
野営地へ着いたのは、日が沈む前だった。
街道から少し入った平地で、低い石積みと、何度も焚き火をした跡がある。近くには水場があり、すでに別の旅人たちが支度を始めていた。
セヴランとエナが周囲を確かめる間、御者たちは荷馬車を寄せた。
車輪を止め、馬を外す。水を運び、天幕を張り、寝る場所を整える。
着けば休めると思っていたが、座るまでには、まだ仕事があった。
「冒険者って、どこへ行っても荷物を運ぶね」
テッサが毛布を抱えて言った。
「運んだ先で寝られるだけ、今日はいいだろ」
「それはそう」
リオは天幕の縄を張り、風で布がばたつかないか確かめている。
俺は炊事の手伝いへ回った。
鍋へ入れる根菜を切っていると、御者が手元を覗いた。
「慣れてるな」
「食堂にいたので」
「それなら、こっちも頼めるか」
差し出された袋には、まだ何本も野菜が入っていた。
俺は受け取り、少し離れたところのテッサを見た。
目が合うと、彼女は笑った。
「得意な仕事、見つかったね」
「増えたんだよ」
それでも、嫌ではなかった。
鍋の中へ揃えた野菜を落とし、焦げつかないよう底から混ぜる。湯気が上がると、焚き火のそばへ人が集まってきた。
皿を受け取ったリオが、ひと口食べて顔を上げる。
「ガルドさんの店と、ちょっと似てる」
「材料は違うぞ」
「野菜の大きさ」
俺は鍋へ目を落とした。
四年間、何度も直されたところだった。
ガルドに聞かせたら、今さら何を言っていると返されそうだ。それでも、帰った時に話すことへ、もう一つ加えておこうと思った。
◇
食事が終わる頃には、街道が暗くなっていた。
セヴランが見張りの順番を伝える。
俺は最初に、彼と組むことになった。テッサとリオは、それぞれ後の番で経験者と交代する。
「先に寝るね」
テッサが立ち上がった。
「もう眠れるのか?」
「横になったら分かる」
彼女は盾を寝床のそばへ置き、毛布へ潜った。
リオも弓を手元へ寄せてから、俺を見た。
「交代の時、ちゃんと起こして」
「ああ」
二人が休む場所を確かめ、俺は短槍を持ってセヴランのところへ向かった。
焚き火から離れると、空が急に広くなった。
迷宮の湖に映っていたものとは違う、本物の星が出ている。風が草を倒す音と、馬が地面を踏む音が聞こえた。
セヴランは街道を見たまま言った。
「まず、今ここで鳴っている音を覚えろ」
「魔物の音ですか?」
「馬も人もいる。天幕も鳴る。知らん音を全部、敵にしていたら朝までもたん」
俺は耳を澄ませた。
焚き火の枝が弾ける。どこかで食器を重ねている。馬具の金属が、短く触れ合った。
昼間は車輪に紛れていた音が、一つずつ聞こえてくる。
セヴランが少し位置を変え、俺の前を空けた。
街道は、暗がりの中へ続いていた。
その向こうに、まだ見たことのない町がある。
俺は槍を握り直し、背後の天幕へ一度だけ目を向けた。
今夜は、二人が眠っている間の道を、俺が見ている。




