第52話 三人分の帰り道
リーヴェの水路が見えた時、テッサが歩く速さを少し上げた。
「そんなに腹が減ってるのか」
「減ってる。でも、ノルも速くなってるよ」
言われて、自分の足元を見た。
確かに、さっきまでより歩幅が広い。
旅の間に擦れた靴は、そのままだった。背負った荷物も軽くなってはいない。それでも、見覚えのある橋と店の屋根が近づくにつれて、足が勝手に道を選んでいた。
市場通りには、焼いた肉とパンの匂いが混じっている。
行商の荷車を避け、水桶を抱えた人に道を譲る。角を曲がったところで、食堂の看板が見えた。
俺は扉の前で立ち止まった。
「ここ?」
リオに聞かれ、頷いた。
中から、皿を重ねる音がした。
四年間、毎日聞いていた音だった。
どう声をかけようか考えたが、結局、何も決められないまま扉を開けた。
「いらっしゃ――」
厨房から顔を出したガルドが、言葉を止めた。
俺の顔を見て、肩から足元まで目を動かす。それから、後ろの二人へ視線を移した。
「戻ったか」
「はい」
「三人か」
「はい。テッサと、リオです。一緒に迷宮へ行ってきました」
紹介すると、テッサが軽く頭を下げ、リオも挨拶した。
ガルドは二人の顔を確かめるように見てから、窓際の卓を顎で示した。
「荷物は壁際へ置け。盾で通路を塞ぐなよ」
「よく言われます」
テッサが答えた。
「なら、言われる前に直せ」
彼女は素直に盾の向きを変えた。
俺は少し笑い、鞄を下ろした。
何から話そうかと考えていたのに、先に身体の力が抜けてしまった。
◇
手を洗い、席に戻る。
厨房の脇を通る時、空いた皿が目に入った。癖で手を伸ばしかけると、ガルドの声が飛んだ。
「座ってろ」
「これくらいなら」
「今は客だろ」
伸ばした手を戻す。
この店で何も運ばずに座っているのは、妙に落ち着かなかった。
「ノル、働いてた時もそうだった?」
テッサが聞いた。
「何が?」
「座ってる方が困る顔」
「昼時は、座る暇がなかったからな」
「その割に、客の話を聞いて手を止めてたがな」
ガルドが皿を運んできた。
肉と野菜の煮込みだった。芋の角が少し崩れ、濃い汁に混じっている。パンの籠も卓へ置かれた。
「ほら、食え」
湯気の向こうに、見慣れた手があった。
俺は匙を持ち、ひと口食べた。
味は変わっていなかった。
そう思ったところで、喉の奥が少し詰まった。熱かったせいにして、水を飲む。
テッサは隣で、もう二口目を食べていた。
「おいしい」
「よく歩いてきた奴には、だいたいうまい」
「歩かなくても、おいしいと思います」
ガルドの口元が、わずかに緩んだ。
リオも頷き、パンを割った。
俺は二人が食べるところを見てから、ようやく自分の皿へ目を戻した。
連れてきてよかった。
「で、何を見てきた」
ガルドが卓のそばへ椅子を引いた。
俺は匙を止めた。
魔物のこと。宝箱のこと。小石を動かせるようになったこと。
話したいことはいくつもあったが、最初に口から出たのは、昨日見た景色だった。
「地下に、湖がありました」
ガルドは何も言わず、続きを待った。
「天井の石が光ってて、それが水に映ってるんです。暗いのに、向こうの岸が少し見えて。雫が落ちるたびに、光がばらばらになって……」
両手で広さを示そうとして、卓の端へ当たった。
テッサが笑った。
「ほら。手じゃ足りないでしょ」
「思ってたより説明が難しいな」
「静かになると、遠くの水音まで聞こえたんです」
リオが付け加えた。
「僕たち、しばらく何も言わずに見てました」
ガルドは三人を順に見た。
「そうか」
それだけ言って、俺の皿へ目を落とす。
「冷めるぞ。食いながら話せ」
俺は頷き、匙を持ち直した。
今度は、岩甲亀の話をした。
テッサが盾を叩いて気を引いたこと。途中で相手がリオを狙い、慌てて動いたこと。勝ったあと、三人とも立っているのを確かめたこと。
俺が言い落とすと、二人が続きを足した。
「ノル、そこで滑りかけたんだよ」
「言おうと思ってた」
「僕の矢も、最初の一発では止められなかったしね」
ガルドは失敗したところで眉を寄せたが、話を遮らなかった。
全部聞き終えると、前掛けについた粉を払った。
「一人で行かなくてよかったな」
「はい」
それには、すぐ答えられた。
テッサとリオを見て、もう一度頷いた。
「本当に」
◇
食べ終わってから、俺は三人分の代金を卓へ置いた。
「今日は俺が出す」
言うと、テッサが目を丸くした。
「槍のお金は?」
「三人の飯で買えなくなるようなら、まだ早いだろ」
昨夜、修理代としばらくの宿代を分けたあとで、何度も数えていた。
今日の分も、その中に入れてある。
ガルドは硬貨を受け取り、いつも通り数えた。まけるとも、要らないとも言わなかった。
「ごちそうさまでした」
リオが頭を下げる。
「また来い」
ガルドが答えた。
俺は鞄を持ち上げ、椅子を元の位置へ戻した。
店を出る前に振り返ると、ガルドはもう厨房へ向かっていた。
「ガルドさん」
「何だ」
「帰ってきました」
さっきも伝えたはずのことを、もう一度言っていた。
ガルドは足を止めた。
少しだけこちらを向く。
「ああ。よく帰った」
俺は頷いた。
今度は、返事をする前に笑えた。
◇
《鉄輪》では、ドランが俺の挨拶を聞くより先に剣を指した。
「見せろ」
「ただいまくらい、言わせてくださいよ」
「帰ってきたのは見りゃ分かる」
俺は剣を鞘ごと渡し、短剣も並べた。
ドランは刃と柄を順に確かめた。汚れは落としてある。今回は、まず汚いとは言われなかった。
「こっちは刃を整える。短い方は、今日はこのままでいい」
「お願いします」
次にテッサが盾を作業台へ載せた。
ドランは縁の金具を叩き、裏の帯を引いた。新しい手甲にも目を留めたが、付与については鑑定済みだと聞くと、盾の持ち手との収まりを確かめた。
「握ってみろ」
テッサが左腕を通す。
「ここ、金具が当たるな」
「使ってる時は、あまり気になりませんでした」
「動くたびに擦ってりゃ、先に革が傷む。持ち手の巻きを直せば、少し逃がせる」
彼女は手甲の掌を見た。
新しい物を手に入れたら、それで全部揃うわけでもないらしい。
「盾は、まだ使えます?」
「使える。縁と帯には手を入れるぞ」
「じゃあ、お願いします」
答えが早かった。
ドランが修理代を告げると、テッサは分けておいた硬貨を出した。俺も自分の分を払う。
遠征で増えた金には、すぐに行き先ができた。
それでも、今回は修理代だけで終わらなかった。
壁際を見る。
黒い柄の短槍が、そこにあった。
最初に見た時より、一本分だけ奥へ移されている。それでも、細身の穂先と飾りのない柄は見間違えなかった。
「……まだあった」
「売れてねえからな」
ドランが言った。
俺は近づき、値札を確かめた。
銀貨三枚と銅貨四枚。
数字も変わっていない。
「持ってもいいですか」
ドランは土間へ目をやり、床に置かれた箱を脇へ退けた。
「そこでだ」
受け取ると、柄が掌に収まった。
前にも、持ちやすいと思った。
今はそれに加えて、穂先を向けた時の肩の位置と、引き戻す時に後ろへ余る柄が気になった。
テッサの盾の横から出すなら、どのくらい離れればいいか。
リオが射る時、どこまで下げれば邪魔にならないか。
実際に使う場所が、前よりはっきり浮かんだ。
「振るなよ」
「分かってます」
「前より、後ろを見るようにはなったな」
ドランが言った。
俺は槍の端から目を戻した。
「何度か、狭いところへ行ったので」
「だろうな」
握る位置を変え、穂先を低くする。
これを持てば、岩甲亀を簡単に倒せたとは思わない。足場が悪ければ使いにくいし、近づかれた時の戻し方も覚えなければならない。
それでも、昨日まで剣で届かせようとしていた場所へ、この穂先なら届く。
その違いを、試したかった。
「買います」
声に出すと、テッサがこちらを見た。
「決めた?」
「ああ」
短槍をいったんドランへ返し、袋から硬貨を出した。
銀貨を三枚。銅貨を四枚。
卓へ並べた指が、最後の一枚で少し止まった。
最初に値段を聞いた時には、返すしかなかった槍だ。
木材を運んだ日も、道を測った日も、魔物から逃げた日もあった。剣の修理代に顔をしかめ、宿代を引いて残りを数えた。
今回の宝箱の銀貨も、その隣に並んでいる。
俺は最後の硬貨から指を離した。
ドランは数を確かめ、穂先を覆う革を付けた。
「買ったら、自分で面倒を見ろ」
「はい」
「明日からいきなり討伐へ持ち出すなよ」
「まず練習します」
差し出された柄を握った。
今度は、店へ返すためではなかった。
◇
リオの買い物は、ドランに教わった矢を扱う店だった。
彼は矢筒から何本か出し、店主へ見せた。羽の傷んだものと、軸の曲がったものを分けてもらう。
俺には似たように見える矢を、リオは一本ずつ指で回していた。
「長さを揃えたいんです。重さも、なるべく近いものを」
店主が何本か選び、並べた。
リオはその中から六本を買った。古い矢のうち、羽を替えれば使えるものは修理に回す。
「全部、新しくしなくていいのか?」
店を出てから聞くと、彼は頷いた。
「まず、この六本で練習する。同じつもりで射ても、違うところへ行くことがあったから」
「矢のせい?」
「僕のせいかもしれない。それを、もう少し分かるようにしたい」
リオは矢筒の中で、新しい六本を分けて収めた。
遠くへ飛ぶ付与も、光る鏃もなかった。それでも、選んでいる時の顔は、俺が短槍を握っていた時と似ていた。
テッサが、修理を頼んだ盾の受取時刻を確かめる。
リオは新しい矢を手に入れた。
俺の右手には、黒い柄の短槍がある。
三人で街を歩くと、今まで空いていたはずの場所に槍の端があった。人を避ける時、いつもより少し大きく身体を向けなければならない。
「ノル、看板」
テッサに言われ、慌てて穂先を下げた。
「……助かった」
「最初、私の盾に言ってたでしょ」
返す言葉がなかった。
リオが笑い、槍の先を見た。
「明日は、三人で練習しよう」
「ああ」
「私の盾にぶつけないでね」
「お前も、急に動かすなよ」
「動くための盾なんだけど」
言い合いながら、俺は柄を握り直した。
一人で持った時には分からなかったことが、もう一つ見つかった。
この槍で覚えるのは、俺の間合いだけではない。
二人のいる場所も含めて、明日から練習していく。




