第51話 持ち帰れない宝物
翌朝、宿の裏でテッサが盾を振っていた。
強く握り、傾ける。一度指を開き、持ち手を握り直す。昨日手に入れた手甲の青い線が、そのたびに薄く光っていた。
「もう使いこなした?」
声をかけると、彼女は盾の上から顔を出した。
「今、一回引っかかった」
「何に?」
「自分の手」
盾を傾けたあと、握る位置をずらそうとしても、掌が持ち手から滑らなかったらしい。便利な道具でも、今までと同じ動きをすればいいわけではないようだ。
リオが脇から盾の端を軽く押した。
テッサは肘を固めず、押された方へ少し身体を向ける。盾が斜めに動き、リオの手が縁から外れた。
「今のは?」
「大丈夫。指をずらさなければ、こっちの方が楽」
「じゃあ、ずらす時だけ覚え直すんだね」
テッサは頷き、もう一度盾を構えた。
俺はその横で剣を抜いた。
踏み出して、止める。戻る場所を見てから、足を引く。昨日、岩甲亀の前で滑りかけた時の感触は、まだ靴底に残っている気がした。
今日も奥へ行く。
ただし、身体が動くことを確かめてからだ。
◇
白い石柱の部屋まで来ると、テッサは空になった宝箱を覗いた。
「増えてないね」
「一晩で増えたら、宿をこっちへ移すか」
「寝てる間に魔物も増えそう」
リオに言われ、テッサはすぐ蓋から手を離した。
昨日と同じように、部屋の周囲を確かめる。岩甲亀のいた水辺も、ここへ来るまでに見た範囲では静かだった。
今日は、石柱の奥に続く通路へ進む。
入口で折り返す目安を決めた。新しい道を歩いていると、少し先を見るだけのつもりで、どこまでも行きたくなる。帰る時間まで使ってしまわないよう、リオにも時々声をかけてもらうことにした。
通路は緩く下っていた。
左の壁際には浅い溝があり、細い水が流れている。俺たちは乾いた右側を歩いた。天井が低いところではテッサの盾が引っかかりそうになったが、少し先でまた高さが戻った。
足音の響き方が変わった。
さっきまでは、すぐ横から返ってきていた。今は前へ抜けていくように聞こえる。
「先、広くなってるかも」
俺が言うと、リオが顔を上げた。
「風も少し来てる」
頬では分からなかった。だが、立ち止まると、首元の汗が冷える感じがした。
曲がり角の向こうに、青白い明かりが見えた。
近づこうとしたところで、リオの手が上がる。
「壁にいる」
明かりへ目を向けていた俺は、視線を手前へ戻した。
右の壁に、石殻甲虫が張り付いていた。もう一匹は、その下の岩棚にいる。灰色の甲殻が壁の色に紛れ、脚が動くまで輪郭が分からなかった。
「下を私が見る」
テッサが盾を下ろした。
「上は僕。ノル、右の壁には寄らないで」
俺は頷き、二人の間から半歩下がった。
ここは三人で横に並べる幅ではない。左には濡れた溝があり、右には甲虫がいる。テッサの後ろに残る乾いた場所を確かめ、剣を抜いた。
下の一匹が、岩棚から降りた。
触角が揺れ、前脚が床を掻く。次の瞬間、低い姿勢のまま走ってきた。
テッサが盾を斜めに出した。
硬い音がして、甲虫の頭が外へ流れる。だが、前脚の先が盾の縁へ引っかかった。
盾が引かれた。
テッサの肘が伸び、身体が前へ出かける。
「引くよ!」
彼女は握り締めていた指を開いた。前腕の帯で盾を支えながら、持ち手の位置を変える。そのまま片足を引き、盾の面をこちら側へ回した。
甲虫の脚が外れた。
俺の前に、頭と前脚の付け根が見えた。
踏み込もうとした右足を、わずかに内側へ置く。
床の光っているところを避けたのだと、自分で気づいたのは剣を出したあとだった。
刃先が脚の付け根へ入る。甲虫が身を捻る前に抜き、盾の後ろへ戻った。
「上、動く!」
リオの声がした。
壁の一匹が、こちらを向いていた。脚を一本ずつ外し、低い岩棚へ移ろうとしている。
リオの弓は、甲虫の今いる場所を向いていなかった。
少し下だ。
前脚が次の足場へ伸びる。その拍子に腹側が壁から離れたところへ、矢が入った。
甲虫が落ちた。
テッサは音につられて盾を振らなかった。目の前の一匹が再び向き直るのを見て、進む先へ盾の下端を置く。
俺は声をかけ、その横へ剣を出した。
二度目の突きで、甲虫の脚が床を掻く力が弱まった。
落ちた方にも近づきすぎず、動きを確かめる。リオが次の矢をつがえたまま待ち、俺たちは二匹とも動かなくなるまで距離を保った。
通路に、水の流れる音が戻った。
テッサが盾を下ろす。
「握ったままだったら、腕ごと引っ張られてた」
「今の、離したのか」
「指だけ。帯があるから」
彼女は左手を開き、もう一度握った。
新しい手甲が勝手にうまく動かしてくれたわけではない。朝、何度も持ち直していた動きを、今ここで使ったのだ。
リオは壁の岩棚を見上げていた。
「矢、先に向けてたな」
「前の脚が、あそこへ伸びたから」
「行き先が分かった?」
「行きそうだと思った。止まったら、射たなかったよ」
そう言ってから、リオは少し笑った。
「前より、待てた気がする」
俺は足元を見た。
踏み込んだ場所のすぐ横に、薄く水をかぶった石があった。
何も考えずに動けたわけではない。それでも、剣を当てることだけで頭がいっぱいにはならなかった。
昨日できなかったことが、今日いきなり全部できるようになるわけではない。
だが、今の二匹を相手にした動きは、初めて迷宮へ入った日の俺たちとは違っていた。
◇
少し休んでから、曲がり角を越えた。
最初に見えたのは、黒い水面だった。
その上に、小さな青い光が無数に浮かんでいた。
俺は足を止めた。
水の中に光るものがいるのかと思った。だが、目を上げると、高い天井にも同じ光が散っている。
岩のあちこちに、淡く光る鉱物が露出していた。
遠くまで続く湖が、それを映していた。
地下なのに、星空があった。
「……広い」
隣でテッサが言った。
大きな声ではなかったのに、水の向こうで薄く響いた。
通路の先は、幅のある乾いた岸になっていた。リオが周囲を確かめ、俺たちも壁際と足元を見てから進む。
右には白い岩の岸が細く続いている。その先は暗く、湖がどこまであるのか分からなかった。
天井から雫が落ちた。
水面に輪が広がり、映っていた光がほどける。しばらくすると元に戻り、また遠くで別の輪が生まれた。
俺たちは並んで、それを見ていた。
誰も、すぐに先へ行こうとは言わなかった。
「ここ、地図に描くの難しいね」
リオが紙を出しながら言った。
「大きく丸を描けば?」
「それだと、端まで見えたことになる」
「ああ。じゃあ、途中まで」
テッサも紙を覗いた。
俺は湖から目を離せなかった。
食堂で聞いた、峠の向こうの湖を思い出していた。
旅人は卓上の水滴で道を描き、山を越えた先に広い水が見えると話した。俺は煮込みの皿を持ったまま聞き入り、ガルドに呼ばれた。
あの湖には、まだ行っていない。
その前に、こんな場所へ来た。
「ノル?」
テッサに呼ばれ、顔を向ける。
「何かいる?」
「いや。きれいだと思って」
口にしてみると、それだけだった。
もっと何か言える気がしたのに、出てきた言葉は短かった。
テッサは湖を見て、頷いた。
「うん」
リオも紙から顔を上げた。
しばらく、ペンを動かさなかった。
◇
岸の手前で、持ってきたパンを食べた。
水際までは近づかず、背中を岩へ預けられる場所を選んだ。座っていると、歩いていた時には気づかなかった脚の疲れが分かった。
「宝箱はなかったね」
テッサが言った。
「まだ少ししか見てないからな」
「うん。でも、今日はこれでいいかも」
彼女はパンを持ったまま、湖へ目を向けた。
「これ、持って帰れないのが残念」
「説明すればいいだろ」
「この広さ、手じゃ足りないよ」
両手を広げかけ、パンを落としそうになってやめる。
リオが笑った。
「来たことがある人なら、分かるかもしれないね。村で聞いてみよう」
俺は頷いた。
自分たちが最初に見つけた場所とは限らない。岸の向こうまで調べた冒険者もいるかもしれない。
それでも、俺がここへ来たのは初めてだった。
人から話を聞く時には分からなかった水音も、冷たい空気も、今は自分の身体に触れている。
「ガルドさんには、何て話す?」
リオに聞かれ、少し考えた。
「地下に湖があったって」
「そこから?」
「他にどう言えばいいんだよ」
「三人で見つけた、も入れて」
テッサが言った。
俺は二人を見て、頷いた。
「それも言う」
パンを食べ終え、荷物をまとめる。
先へ続く岸は、まだ見えていた。もう少し歩けば違う景色があるだろう。魔物もいるかもしれないし、今度こそ宝箱が見つかるかもしれない。
だが、俺たちは帰り道へ向き直った。
また来たい場所ができたことに、不満はなかった。
◇
村の受付で湖のことを話すと、職員は俺たちの描いた道と、保管していた記録を見比べた。
「この辺りの湖畔ですね。到達の報告はあります。ただ、岸沿いの道は記録が分かれています。次に進むなら、改めて確かめてください」
リオが紙へ印を書き足した。
俺たちが歩いた道は、ほかの誰かも歩いた道だった。
それでも、自分たちの紙に線が増えるのを見るのは嬉しかった。
宿へ戻ると、三人で道具を広げた。
盾の縁。剣の刃。矢の軸と羽。
直すところを確かめ、買い足したいものを書き出す。俺は最後に、帰りの荷物へ入れる金を別にした。
「明日、リーヴェへ戻ろうか」
言うと、二人とも頷いた。
「まず食堂だね」
テッサが言った。
「武器屋も寄る」
「矢を見られる店も」
リオが加えた。
帰るだけなのに、予定が増えていく。
荷物をまとめ終え、俺は地図をもう一度開いた。今日描き足した湖の縁で、線は途切れていた。
その先は、まだ白い。
紙を畳み、鞄へしまった。
今度は話を聞く側ではなく、話す側で、あの食堂の扉を開けられる。




