第50話 売らずに持ち帰るもの
宝箱を前にして、テッサが盾を置いた。
手を伸ばしかけて、止める。それから俺とリオを順番に見た。
「開けていい?」
「周りを見てからな」
「もう見た」
「俺はまだ見てる」
リオが白い石柱の裏から答えた。
岩甲亀のいた水辺より、この部屋は少し高い。床には浅い水の筋が走っていたが、宝箱は乾いた岩棚に載っている。奥にも通路はあったものの、今いる場所から先までは見通せなかった。
俺は入ってきた道を振り返った。
さっきまで、あの向こうを通れるかどうかも分からなかった。それが今は、三人で宝箱を囲んでいる。
剣を握っていた右手には、まだ疲れが残っていた。嬉しいからといって、急に身体まで元気になるわけではないらしい。
「近くには何も見えない。僕は入口を見てるよ」
リオが戻り、弓を手元に置いた。
箱には暗い緑色の金具が付いていた。蓋の縁や留め具を確かめたが、俺に分かるような仕掛けはない。錠前も付いていなかった。
「じゃあ、開けるよ」
テッサが蓋へ手を掛け、ゆっくり持ち上げた。
蝶番が低く鳴った。
三人とも、その音が止まるまで黙っていた。
箱の底には、折り畳まれた布と、小さな革袋があった。布の隙間から、銀色のものが覗いている。
テッサが慎重に布を広げた。
「……手?」
「手甲だな」
左手に着けるものだった。
濃い灰色の革に、指の動きに沿って細い金属板が重なっている。手首の周りには、青白い線が一本、編み込まれるように走っていた。
派手な飾りはない。それでも、店先で見かける作業用の手袋とは違った。
テッサが持ち上げ、裏返す。
掌の部分だけは金属がなく、細かな模様の入った革になっている。
「左だけ?」
「もう片方は入ってない」
箱を覗いていた俺が答えると、彼女は自分の左手へ目を落とした。
盾の持ち手を握る手だ。
「着けたい顔してる」
リオが言った。
「してない」
「今、指を入れかけた」
「大きさを見ようと思っただけ」
テッサは手甲を胸の前で持ち直した。手首の青い線が、洞窟の光を細く返す。
俺も使ってみたくなる気持ちは分かった。何に使うものなのか分からないのに、これを着けた手で道具を握るところを、もう想像してしまう。
「村で見てもらおう。変なものじゃなければ、試せる」
「うん」
返事をしても、テッサはすぐには布へ戻さなかった。
俺はその間に革袋の口を開いた。
中で硬貨が触れ合った。
一枚取り出し、指の上へ載せる。銅色ではなかった。
「銀貨だ」
テッサが顔を上げる。
「何枚?」
「待て。今数える」
銀貨が三枚。銅貨が十八枚。
岩棚に並べると、テッサが手甲を置いて数え直した。俺は文句を言わず、もう一度一緒に数えた。
何度数えても、銀貨は三枚あった。
「一人、銀貨一枚と銅貨六枚だね」
リオが入口から目を離さずに言った。
「早いな」
「二人とも、銀貨のところで止まってるから」
俺は笑い、硬貨を袋へ戻した。
銀貨一枚。
荷物を運び、宿代を払い、刃を研いでもらう。その繰り返しで少しずつ貯めてきた金に、まとまった重さが加わる。
《鉄輪》の壁にあった、黒い柄の短槍が浮かんだ。
まだ店に残っているだろうか。
帰ったら、値札を見てため息をつくだけでは済まないかもしれない。
「ノル、顔」
「何だよ」
「槍のこと考えてるでしょ」
テッサに言われ、否定できなかった。
◇
帰り道では、新しい通路へ入らなかった。
荷物を増やした肩も、岩甲亀と向き合っていた脚も、今日は十分働いた。リオも矢筒の中を確かめ、来た道を指した。
「次に来た時、あの奥を見よう」
その言い方が嬉しかった。
次がある。
無事に帰れば、今日通った場所の先を、また三人で見に来られる。
水辺を離れ、滝の音が聞こえるところまで戻った時、前方の岩陰から声がした。
「お前らか」
カイルたちだった。
向こうもこちらに気づいて立ち止まっていた。俺たちの濡れた服と、テッサの盾を順に見る。
「奥へ行ってたのか?」
「ああ。水を吐く、甲羅の硬いやつがいた」
「岩甲亀?」
俺が頷くと、カイルは少し眉を上げた。
「抜けてきたのか」
「倒した。何度も水を吐かれて、かなり疲れたけど」
口にしてから、妙に落ち着かなくなった。
自慢に聞こえただろうかと思ったが、カイルは俺たち三人を見て、口元を緩めた。
「三人でか。やるな」
短い言葉だった。
俺は返事をしようとして、一度息を飲んだ。
石鎧蟹を相手にした時、俺たちだけでは届かなかったところへ、カイルたちの武器が届いた。その相手に、今そう言われた。
「……そっちも、奥へ?」
「今日は別の道だ。明日、そっちも見てみる」
リオが岩甲亀のいた場所と、足元の滑りやすい斜面について説明した。カイルは途中で二度聞き返し、覚えるように奥を見た。
別れる時、テッサが小さく息を吐いた。
「やるな、だって」
「聞こえてた」
「もう一回聞いてもよかったね」
「言わせに戻るなよ」
彼女は笑い、盾を背負い直した。
俺も、さっきの言葉を頭の中でもう一度聞いていた。
◇
村へ戻り、報告と売却を済ませたあと、受付で手甲を見せた。
職員は手首の模様を確かめると、奥から装備の見本帳を持ってきた。何枚かめくり、似た模様が描かれた頁を開く。
「《握り留めの手甲》ですね。付与が残っているか、確かめましょう」
机の上へ、滑らかな木の棒が置かれた。
職員は手甲の革や留め具を調べてから、テッサへ渡した。
彼女は左手を入れ、手首の帯を締めた。少し余った部分を調整すると、指の付け根まで収まる。
「軽く持ってください」
テッサが棒を握る。職員がゆっくり引くと、棒は掌の中を滑った。
「今度は、指を曲げてしっかり握って」
言われた通りにした瞬間、手首の線に淡い色が浮かんだ。
もう一度引かれても、棒は動かなかった。
テッサの肘が、棒と一緒に少し前へ出る。
「あ」
「握った物を滑らせにくくする付与です。指を開けば解けますよ」
テッサが手を開く。今度はするりと棒が抜けた。
握る。離す。
彼女はもう一度、自分で確かめた。
「盾にも?」
「持ち手がこの掌に当たれば。ただ、腕の力が増えるわけではありません。強く引かれれば、さっきのように腕ごと持っていかれます」
テッサは頷いた。
水に濡れた持ち手を握り直していた姿を、俺は思い出していた。盾を傾けたあと、指を掛け直すほんの少しの間。そこを助けてくれるなら、役に立つ場面はありそうだった。
職員は手甲を返してもらい、指の継ぎ目を最後にもう一度確かめた。
「良級として扱える品です。売却もできますが、どうしますか」
テッサはすぐには答えなかった。
手甲と、自分の盾を見る。
「売ったら、三人で分けられるね」
「使いたいんじゃないのか」
「使いたいよ。でも、一個しかないから」
俺はリオを見た。
リオは頷き、テッサへ向き直った。
「僕は使ってほしい。次も、その盾の後ろから射つことがあると思うから」
「俺も。石弾の巻物は使わせてもらったしな」
「それは、ノルに土の適性があったからでしょ」
「これは、お前の左手に合う」
テッサは手甲を受け取り、指を一本ずつ曲げた。
「じゃあ、次に弓で使えるものが出たら、リオね」
「使えるか、ちゃんと見てからね」
「分かってる」
彼女は笑った。
職員が帳面を閉じる。
「では、売却はなしで」
「はい」
今度の返事は、早かった。
◇
宿へ戻る前に、テッサは人のいない広場で盾を持った。
構えて、傾ける。指を緩め、持ち直す。
新しい手甲の上に、使い込んだ盾の持ち手が収まっていた。
「どうだ?」
「握り方を変える時、ちゃんと手を開かないと駄目だね」
そう言って、もう一度動かす。
突然うまくなる道具ではないらしい。それでも、彼女の目は楽しそうだった。
リオは少し離れて立ち、盾の横から見える範囲を確かめた。
「今くらい傾けたところで、一度止めてみて」
「こう?」
「うん。そこなら、横を狙える」
俺も自然と、その反対側へ回っていた。
剣を抜かず、足を置く位置だけ確かめる。
三人とも疲れているはずなのに、次にどう動くかを考え始めていた。
「今日は終わり」
最初に言ったのは、テッサだった。
「私、この手甲を着けたまま、ご飯まで食べそう」
「汁は付けるなよ」
「そこまで下手じゃない」
盾を背負った彼女は、左手だけは外さなかった。
俺は分けてもらった硬貨の袋を握った。
槍に近づいた金。リオは矢を選び直したいと言っていた。テッサの左手には、今日までなかった装備がある。
食堂の前まで来たところで、俺は二人に声を掛けた。
「リーヴェに帰ったら、寄ってほしい店がある」
「武器屋?」
「その前に、食堂。俺が働いてたところ」
ガルドに冒険の話をする時、一人で説明するより、二人にいてほしかった。
大盾の大きさも、リオの弓も、実際に見てもらえば早い。それに俺だけが話したら、都合の悪い失敗を少し省いてしまうかもしれない。
「おいしい?」
テッサが聞いた。
「ああ」
「じゃあ行く」
「僕も。ノルがどんなふうに働いてたか、聞いてみたい」
「それは聞かなくていい」
リオが笑った。
あの店を出た時、持っていたのは中古の短剣と、銅札と、減り始めた金だった。
帰る時には、話せることが増えている。
俺が戸を引くと、テッサが左手で押さえてくれた。手首の青い線が、夕方の光を受けて見えた。
銀貨に替えなかったものが、もう俺たちの道具になっていた。




