第49話 三人で開く道
昨日、パンの欠片を置いた場所に、今日は俺たちが立っていた。
目の前の岩は思っていたより高く、池までの距離は近い。紙の上では邪魔にならなかった砂利が、踏むたびに靴底で動いた。
俺は一度だけ足を置き直し、剣を抜いた。
左前にテッサ。その少し後ろ、岩を挟んだ場所に俺がいる。リオは右へ離れ、岸の平らな石の上で弓を持っていた。
帰り道は俺たちの背後だ。誰かが戻ると言えば、全員で岩棚へ上がる。
村の受付で教わった注意も、ここへ来るまでに確かめた。岩甲亀が水へ戻ったら追わない。岩と岩の間へ入り込まれたら、一度離れる。
今朝も、魔物は低い通路の前にいた。
こちらから見れば、岩を積んだ山にしか見えない。だが、テッサが岩の横へ盾を出すと、その下から頭が伸びた。
「こっち見た」
テッサが小さく言う。
俺はリオへ目を向けた。頷きが返ってくる。
「始めよう」
テッサが棍棒で盾を一度叩いた。
乾いた音が、池の上を渡った。
◇
岩甲亀は、すぐには走ってこなかった。
頭を持ち上げ、盾を見ている。四本の脚が動き、重い身体がこちらへ向き直った。
首が伸びた。
「隠れて!」
リオの声と同時に、テッサが岩の裏へ入った。
水が岩を叩いた。
飛沫が顔へかかり、俺は目を細めた。さっきまで乾いていた砂利の色が、一気に濃くなる。
一度目。
俺たちはまだ出なかった。
岩の向こうで爪が鳴る。喉を膨らませる音は聞こえない。もう一度吐くまで待つつもりでいると、リオの声が飛んだ。
「来てる! 水じゃない!」
甲羅の端が、岩の横から現れた。
近い。
テッサが身体を引いたところへ、嘴が突き出された。盾のあった場所で硬い音が鳴り、噛み砕かれた小石が飛んだ。
俺は剣を出しかけたが、テッサがすぐ前を横切った。刃を引き、彼女が通れる場所を空ける。
「一つ後ろの岩へ!」
「分かった!」
テッサは走らず、盾を相手へ向けたまま下がった。俺も横へ退き、岩甲亀の頭がこちらへ回る前に距離を取る。
リオは射なかった。俺たち二人が、矢の通る場所にいたからだ。
次の岩へ入ると、テッサが短く息を吐いた。
「二回目、待ちすぎた」
「毎回二回吐くわけじゃなかったな」
知っていたはずだった。
記録にある動きを待っている間に、目の前の相手が近づいていた。
俺は濡れた前髪を払った。
「水の回数は数えなくていい。首と脚を見る」
「うん」
テッサが持ち手を握り直す。
その手は震えていなかった。俺の方は、少し震えていた。
◇
岩甲亀は、最初の岩の横で向きを変えていた。
重い甲羅が邪魔なのか、曲がるたびに脚を何度も踏み替える。ただし、頭だけは速い。身体がこちらを向ききる前に、嘴の先が動いた。
「リオ、首は見える?」
「今は岩で隠れてる。もう少しこっちへ向けば」
テッサが俺を見た。
「盾を見せる。ノルは出ないで」
俺は頷いた。
彼女は岩の左側へ盾を半分だけ出し、すぐには引かなかった。
岩甲亀の頭がそちらへ向く。
テッサは足を置く場所を確かめ、一歩だけ横へ動いた。盾が動けば、相手の首も動く。その間に、リオが弓を持ち上げた。
岩甲亀の前脚が、砂利を押した。
「噛む!」
俺の声で、テッサが岩の裏へ戻る。
首が伸びた。
盾には届かず、嘴が岩の角を掠めた。伸びきった首の側面が、リオのいる方へ晒される。
弦が鳴った。
矢は甲羅の縁より前、首の付け根近くへ刺さった。
岩甲亀が頭を振る。首を引こうとして、矢柄が甲羅へ当たった。
「当たった!」
テッサの声に、俺は踏み出しかけた。
だが、魔物はまだ前脚を踏ん張っていた。今なら届く。そう思ったところで、あの嘴も俺へ届くことに気づいた。
足を止める。
「まだ行かない!」
自分へ言い聞かせるように声を出した。
岩甲亀の頭が、今度はリオへ向いた。
◇
リオは二本目をつがえながら、平らな石から下りた。
魔物の正面に立ち続けず、右側の岩へ移る。俺たちからは少し離れたが、戻る道は塞がれていない。
テッサが盾を叩いた。
岩甲亀は振り向かなかった。
「こっち、見ない!」
石鎧蟹のときも、人間と戦ったときも、相手は俺たちの都合どおりには動かなかった。
俺は岩甲亀の横へ出た。
剣の届く距離まで近づくと、濡れた甲羅が壁のように大きい。前脚が持ち上がる。踏み直す前に、その付け根へ刃を出した。
浅い手応え。
すぐに引く。
頭がこちらへ戻ってきた。
「ノル、右!」
テッサの声で、俺は身体を引いた。
足を置こうとした場所の砂利が、水で流されていた。踵を下ろす前に気づき、隣の平たい石へ踏み替える。
嘴が服の裾を掠めた。
俺は岩の陰へ入り、息を吐いた。遅れて、背中へ汗が滲む。
テッサは追ってこようとする頭の前へ、盾を斜めに差し出した。
受け止めるのではなく、俺の姿を隠す。
「ここだよ!」
今度は岩甲亀が盾を見た。
テッサは盾を引きながら岩の外周を回った。魔物も向きを変える。傷めた前脚が砂利を掻き、身体が一度傾いた。
俺はリオを探した。
右の岩の横で、もう弓を構えていた。
さっきまで俺がいた場所には、誰もいない。
「通る!」
リオが言った。
岩甲亀の首が持ち上がる。喉が膨らみ、テッサが岩の裏へ消えた。
水が噴き出した。
リオは、その間には射なかった。
流れが途切れ、伸びた首がわずかに下がった。
二本目の矢が入った。
岩甲亀の前脚が折れ曲がり、頭が砂利へ落ちた。起き上がろうとする嘴の横へ、俺は回った。
「左から行く!」
テッサが盾を寄せ、場所を空ける。
俺は首の付け根の柔らかい部分へ、剣を突き入れた。
押し返す力に腕が震えた。身体ごと乗りかけ、踏ん張って止める。動きに合わせて柄を支え、刃をねじらないように待った。
脚が砂利を掻いた。
何度か甲羅が揺れ、それから静かになった。
剣を抜いて下がると、膝から力が抜けそうになった。
俺たちはしばらく、その場を動かなかった。
◇
「……三人とも、いる?」
テッサが言った。
「いる」
俺が答えると、右からリオの声も返ってきた。
「いるよ」
顔を上げる。
テッサは髪から水を滴らせ、リオは弓を下ろしたまま大きく息をしていた。俺の袖も濡れている。三人とも、ひどい顔だった。
それでも、自分の足で立っていた。
「倒した、よな」
「今度はパンじゃないね」
テッサの返事に、俺は笑った。
笑うと息が足りなくなり、途中で咳き込んだ。リオまでつられて笑い、三人でしばらく、まともな言葉にならなかった。
岩甲亀は動かない。
昨日はその姿を見ただけで、どうやって近づけばいいのか分からなかった。
今日は、その横に三人で立っている。
「一発目のあと、すぐ出なくてよかった」
リオが言った。
「出かけた」
「でも、止まった」
俺は剣の柄を見た。
斬りたい場所が見えたら、そこへ行けばいいわけではない。何度も教わり、何度も忘れかけて、今日は一度止まれた。
テッサが盾を地面へ置いた。
「私、一回も正面で受けてない」
「ああ」
「それでも、役に立った?」
俺は彼女を見た。
冗談のような口調だったが、目は俺たちの返事を待っていた。
「お前が首を向けてくれなかったら、俺は甲羅の横で立ってるだけだった」
「僕も、射てなかった」
リオが続ける。
テッサは少し目を伏せ、盾の持ち手を撫でた。
「……そっか」
それから、顔を上げた。
「じゃあ、次もそれでいこう。受けるの、腕が痛いから」
いつもの言い方に戻っていた。
俺は頷き、彼女の盾についた砂利を払った。
◇
必要な処置を済ませ、荷物をまとめる頃には、呼吸も落ち着いていた。
俺は浅く擦れた袖を確かめ、破れていないことに安堵した。リオは矢の状態を見ている。テッサは盾の縁を押し、緩みがないか調べていた。
池の水音は、戦う前と変わらない。
ただ、岸の奥へ続く通路が、今ははっきり見えた。
俺たちは入口まで歩いた。
中から風が流れてくる。青白い光が足元を照らし、その先で天井が高くなっていた。
「少しだけ、見る?」
テッサに聞かれ、俺は頷いた。
「入口から見えるところまで」
三人で通路を抜ける。
小さな空間の中央に、乳白色の柱が立っていた。天井から落ちた水が長い時間をかけて重なったような、滑らかな柱だった。
その根元に、箱が一つあった。
昨日見つけたものより細長く、蓋には暗い緑色の金具が渡されている。
俺は足を止めた。
テッサも、リオも、何も言わなかった。
やがてテッサが、俺たちを順番に見た。
「帰るまで、開けた中身の話ばっかりしそう」
「まだ開けてないだろ」
「だから、何が入ってると思う?」
俺は箱を見た。
昨日までは、あの亀の向こうにあったものだ。
その距離を、今日は三人で越えてきた。
疲れているはずなのに、もう一度、胸が弾んだ。




