第48話 盾で受けない戦い
左の道は、池を見下ろしながら壁沿いに続いていた。
俺たちは足を止めるたび、戻る方も振り返った。下りでは越えやすい段差でも、帰りには上らなければならない。テッサの盾が通れる幅を確かめ、濡れた場所を避けて進む。
途中で、リオが俺の袖を引いた。
「そこ。水の落ちる下」
壁から滴った水が、小さな窪みに溜まっていた。その底で、透明な粒が青白い光を返している。
初めてこの迷宮へ入った日に拾ったものと似ていた。
「雫石か?」
「たぶん。届くところにある」
俺はしゃがみ、指で一つ取り上げた。小さいが、光へ向けると中まで透けて見える。隣には、同じような粒が二つあった。
テッサが池の方へ目を配り、リオが布を広げる。拾った三つを包んでから、俺たちはまた歩き始めた。
「今日は本物だったね」
テッサに言われ、さっき魔法で引き出した小石を思い出した。
「あれも、本物の石ではある」
「売れる方の本物」
そこは反論できなかった。
道は大きな岩の裏へ回り込み、その先で少し広くなった。三人で腰を下ろせる乾いた場所があり、岩越しに池の向こう岸が見える。
俺は顔を出しかけ、すぐに身を低くした。
さっきの影が、岸へ上がっていた。
◇
亀に似ていた。
ただし、庭の池で飼えるような大きさではない。頭から尻尾まで、俺の背丈より長そうだった。
盛り上がった甲羅には、角張った岩のような突起が並んでいる。四本の脚は短く太く、爪が砂利を押し分けるたび、腹の下で小石が転がった。
頭は平たく、口先が嘴のように尖っていた。
「背中、斬りたくないな」
俺が囁くと、テッサも小さく頷いた。
「私は、あれに押されたくない」
魔物は池から離れ、岸の奥へ向かった。そこには低い通路が口を開けている。亀が前を横切ると、入口の半分ほどが甲羅に隠れた。
そのとき、通路脇の岩陰から小さな黒い影が走った。
甲虫だった。
亀の頭がそちらへ向いた。首を伸ばし、顎の下を膨らませる。
次の瞬間、口から水が噴き出した。
細くまとまった流れが低い岩を叩き、白い飛沫になって広がる。甲虫は横へ弾かれ、脚をばたつかせながら岩の向こうへ消えた。
俺は思わず首を引っ込めた。
対岸の音なのに、盾へ何かがぶつかったように身体が強張る。
「……水を吐くのか」
テッサが自分の盾を見た。
「受けたら、見えなくなりそう」
水を浴びるだけでも目を閉じる。その間に、あの嘴が来るかもしれない。足場まで濡れれば、踏ん張れるかも分からなかった。
俺は岩の縁から、もう一度覗いた。
亀はすぐには追わなかった。口を開けたまま、伸ばした首をゆっくり戻している。
リオが、俺の肩へ指を置いた。
「今、首が出たままだった」
「ああ」
「あそこなら、甲羅に当てずに射てるかもしれない」
俺は魔物の頭から通路へ、目を移した。
ただ大きいだけの相手ではなかった。だが、硬いところしかないわけでもない。
◇
しばらく観察していると、亀はまた池へ戻った。
頭を水へ入れ、喉を何度か動かす。それから岸へ上がり、さっきと同じ通路の前へ歩いていった。
「水を飲んでるのかな」
「吐いた分を補ってるのかもしれない」
答えてから、俺は紙へ短く書き留めた。
水を吐いた。あとで池へ戻った。
理由まで一緒に書くのはやめた。一度見ただけでは、ただ喉が渇いていただけなのかもしれない。
その横で、テッサが道の先を指した。
「こっちから、向こう岸へ行けそう」
岩棚は池の端を回り込み、少し先で斜めに下りていた。下りた先には、魔物との間に大きな岩を挟める砂利の岸がある。
俺たちは姿勢を低くし、岩棚の途中まで進んだ。
下まで駆け下りる必要はなかった。そこからでも、岸にある岩の間隔と、通路までの道が見えた。
「真ん中は広いけど、隠れるところがない」
リオが言った。
「左の岩なら、頭を出したところを横から見られる。でも、下りる途中は射てない」
テッサは一つ手前の岩を見ていた。
「私は、あっちまでなら動ける。盾を構えて止まるより、岩の裏へ回った方がよさそう」
「引きつけるってことか」
「水を受けるつもりはないよ。吐く前に隠れる」
俺はもう一度、魔物を見た。
さっきは首が伸び、そのあと喉が膨らんだ。合図になるかもしれない。だが、いつも同じ順番かは、まだ分からない。
「狙いを途中で変えられたら?」
「だから、一回見ただけで走らない」
テッサがこちらを向いた。
「でも、盾を持って立ってる以外のやり方はあるでしょ」
俺は口を閉じ、それから頷いた。
ベックにも教わったことだった。
盾は、攻撃を受けるためだけの道具ではない。相手から仲間を隠し、動ける場所を作るためにも使える。
それを今、テッサ自身が考えていた。
「俺は二人の間にいる。近づいてきたら、テッサが岩へ戻る間を作る」
「斬れる?」
「甲羅は無理だ。脚か首を狙う。ただ、今の場所からじゃ距離が分からない」
三人で岸を見た。
試したいことはあった。けれど、試す順番を間違えれば、水を吐かれるだけで終わる。
俺は紙を畳んだ。
「今日は名前を調べて帰ろう。戦うなら、あの水のことを聞いてからだ」
テッサはすぐに頷いたが、リオはまだ対岸を見ていた。
「どうした?」
「通路の向こう、何があるんだろうって」
亀の身体が動き、入口が少しだけ見えた。
その奥は暗い。ただ、壁の下に沿って、細い青白い光が続いている。
「俺も、見たい」
そう答えると、リオはようやく弓を下ろした。
◇
村の受付で、描いた形と見た動きを説明すると、職員は棚から記録を出してきた。
「岩甲亀だと思います。水を吐く個体なら、特徴も合いますね」
記録には、丸い甲羅と太い脚の絵があった。俺の描いたものより、ずっと亀らしい。
「俺の絵で、よく分かりましたね」
「動きの説明がありましたから」
絵だけでは無理だったらしい。
職員は過去の報告を読み、指で一か所を示した。
「水を吐く前に首を伸ばす。吐いた直後には、首を引くまで間がある。ただし、近づくと噛みつきます。隙があるからといって、正面へ入らないように」
リオが身を寄せた。
「水は、続けて吐けますか」
「一度とは限りません。間を置いて二度吐いた記録があります」
俺はテッサを見た。
一発を避けたつもりで顔を出せば、次が来る。
聞いておいてよかった。
「守護個体なんですか?」
「その場所にいたというだけでは、判断できません。普通の個体でも、気に入った場所に居着きますから」
職員は記録を閉じず、俺たちの前へ置いてくれた。必要なところを書き写し、村を出る前にはもう一度相談すると伝えた。
その後で今日の魔石をまとめて売り、雫石も買い取ってもらった。
宿代と飯代を引いても、少し残る。リオの矢を直す分も、そこから出せそうだった。
テッサは硬貨を袋へ入れ、満足そうに口を結んだ。
「戦わなかった亀の分まで、損した気にならなくて済むね」
「戦ってたら、修理代の方が増えてたかもしれないぞ」
「だから、盾で受けない方法を考えてるんじゃない」
今度は俺も笑った。
◇
宿の卓へ紙を広げると、テッサがパンの欠片を一つ置いた。
「これ、私の岩」
リオも欠片を置く。
「こっちが、僕の場所」
「食い物でやるのか」
「石、出す?」
俺は袋の口へ伸ばした手を止めた。
「パンでいい」
真ん中に置いた大きな欠片を亀に見立て、三人で動く順番を考えた。
一度目の水で飛び出さない。二度目が来るか確かめる。首を引かれたら、無理に追わない。
リオが指を動かし、テッサが自分の位置を変える。俺がその間へ手を入れると、二人から同時に、そこでは邪魔だと言われた。
まだ、紙の上でもうまくいかない。
それでも、次にあの岸へ立つ自分の姿が、少しずつ想像できるようになっていた。
「今度は、私たちでやりたいね」
テッサが言った。
石鎧蟹は六人で倒した。助けてもらったことも、教わったことも覚えている。
だからこそ、それを三人で使ってみたかった。
「ああ。三人で、あの先へ行こう」
答えると、リオが頷いた。
テッサは卓の上の亀を摘まみ、口へ放り込んだ。
「今日は倒した」
「明日は噛み返されるぞ」
笑いながら、俺は紙へ三人の立つ場所を書き込んだ。




