第47話 滝の裏の道
朝食のパンを食べ終える頃、テッサが俺の右手を見た。
「今日は、石を持ってないんだ」
「飯を食うのに邪魔だろ」
「昨日、寝る前も見てたから」
見ていたのは事実だった。
ただの小石だ。拾えばどこにでもある。それを一歩先まで飛ばしただけなのに、宿へ戻ってからも、指先に残った感触を何度も思い出していた。
もっと遠くへ飛ばしたい。狙ったところへ当ててみたい。
だが、昨夜はもう使わなかった。頭の重さが引くまで時間がかかったし、今日も迷宮へ入るつもりだったからだ。
「戦うときは、今までどおりでいい?」
リオに聞かれ、俺は頷いた。
「剣を使う。あの小石に命は預けられない」
「じゃあ、僕も今までどおり、ノルの横を狙う」
「俺に当てない方の横で頼む」
リオは笑い、矢筒の蓋を閉じた。
今日向かうのは、滝の向こうに見えた道だった。
◇
昨日の広間へ着くと、まず岩棚の下を確かめた。
宝箱は、蓋の開いたまま残っていた。中には何もない。テッサが覗いてから肩をすくめる。
「一晩では増えないか」
「毎朝増えたら、ここに住む人が出るぞ」
「湿気がすごいから、私は嫌」
俺も遠慮したかった。
今日は壁沿いの岩棚を辿り、滝へ近づいた。水音が大きくなり、細かな飛沫が頬につく。広間から見たときには細い線にしか見えなかった道も、近づけば一人ずつ歩ける幅があった。
壁側は乾いている。外側には水で磨かれた石が並び、その下に浅い水溜まりが続いていた。
テッサが先に立ち、盾を身体へ寄せて進む。俺が続き、リオが後ろを確かめた。
滝のすぐ脇まで来たところで、道が途切れたように見えた。
正面には、黒く濡れた岩。
俺は足を止めた。
「行き止まり?」
テッサが振り向く。
答えかけたとき、滝の音に混じって、低くこもった響きが聞こえた。
広間で聞いていた音とは違う。水が石を叩く音の後ろに、もう一つ、短い音が重なる。
俺は顔を少し横へ向けた。右では分かりにくく、左へ寄ると聞こえた。
「そこの岩の裏、空いてるかもしれない」
テッサが覗こうとしたので、腕を伸ばして止めた。
「足元を見てから」
「分かってる」
彼女は壁に手を添え、ゆっくり身体を傾けた。
「あ。道が曲がってる」
正面を塞いでいたのは、張り出した岩だった。その左側に、人が横向きで通れる隙間がある。滝の水に隠れ、広間からは見えなかったらしい。
「音で分かった?」
リオが聞いた。
「何か違った。どのくらい広いかは分からない」
言いながら、俺はもう一度耳を澄ました。
今度は水音ばかりが気になる。さっきの響きを探そうとすると、かえって聞き分けられなかった。
それでも、曲がり角を一つ見つけられた。
今日はそれで十分だった。
◇
隙間の向こうは、薄暗い小部屋になっていた。
滝を背にすると、目の前には人がすれ違えるほどの通路が続いている。壁際には淡く光る苔があり、その下で細い草が揺れていた。
奥から風が流れてきている。
リオがしゃがみ込んだ。
「ここ、何か通ってる」
湿った砂の上に、短い線がいくつも並んでいた。人の靴跡とは違う。その先には、白く削れた木の根がある。
テッサが盾を前へ回した。
俺も剣を抜き、リオが指した根の向こうを見る。
黒いものが動いた。
握り拳より大きな頭。その両脇で、曲がった顎が開く。続いて、艶のない硬い背が岩陰から現れた。
林で相手にしたものと似た、甲虫の魔物だった。腹は低く、六本の脚が濡れた石を掴んでいる。
「一体、見える」
リオが弓を構えた。
俺はその言い方に頷き、通路の奥も確かめた。今のところ、別の影は動いていない。
甲虫が向きを変えた。触角が揺れ、頭がこちらへ下がる。
「テッサ、右へ流せるか。俺は左にいる」
「やってみる。リオ、後ろ空けて」
三人が動いた直後、甲虫が走った。
テッサの盾に、硬い顎がぶつかる。
彼女は右足を引き、盾を傾けた。だが、甲虫の顎の片方が縁へ引っかかり、盾が外側へ引かれる。
「引っかかった!」
俺は斬りつけようとして、剣を止めた。見えているのは硬い背ばかりだ。ここへ当てても、刃を傷める。
テッサは無理に引き戻さなかった。
相手が引く方へ半歩進み、盾を少し下げる。それから身体ごと向きを変えた。顎が外れ、勢いのついた甲虫が壁際へ滑った。
左の脚が浮いた。
「下、入る!」
俺は低く剣を差し込んだ。
刃が脚の付け根へ入り、甲虫が身体を捻る。深追いせず引き抜くと、剣先が岩へ触れる前に戻せた。
甲虫は倒れなかった。傷めた脚を引きずりながら、壁を登り始める。
俺たちの頭より高いところへ、黒い背が上がっていった。
「上に来る!」
盾を持ち上げかけたテッサの後ろで、リオが弓を引いていた。
すぐには射ない。
甲虫の前脚が次の窪みを掴み、腹が壁から離れた。
弦が鳴った。
矢を受けた甲虫が落ちる。俺たちは落下する場所から退き、仰向けになった身体へ近づいた。
暴れる脚の届かない側から、腹の継ぎ目へ剣を入れる。
動きが止まるまで、柄を握って待った。
◇
「盾、大丈夫か」
周囲を確かめてから聞くと、テッサは縁を指で押した。
「削れたけど、割れてはいない。無理に引いたら、もっと傷んでたかも」
「よく前へ出られたな」
「後ろに引いたら、腕ごと持っていかれそうだったから」
彼女はもう一度足を動かし、さっきの向きを確かめた。
俺はその足元を見た。初めて講習を受けたときには、二人で並ぶだけで肩がぶつかった。今は、俺が剣を出す場所を残したまま、盾の向きを変えている。
リオは回収した矢の先を見て、口を曲げた。
「こっちは、直さないと駄目だ」
甲虫を貫いた先が、岩にも当たったらしい。
「でも、登ってるところを狙えたな」
「平らな壁なら難しかった。脚を掛ける場所が少なかったから、次に伸びるところが分かったんだ」
リオは矢を別にしまい、甲虫のいた岩壁を見上げた。
「昨日も、薄くなるところを待てた。少し、待ち方が分かってきた気がする」
俺は剣を拭きながら頷いた。
小石を飛ばせるようになったのは俺だが、変わっているのは俺だけではなかった。
◇
通路をもう少し進むと、壁際に灰白色の粒が見えた。
天井近くから伸びた根の下で、何かが鈍く光っている。魔石か、ただの濡れた石か。顔を近づけるには、低い岩の下へ手と頭を入れる必要があった。
「棒、届く?」
テッサに聞かれ、俺は手近な枯れ枝を差し込んだ。
先が曲がっていて、粒の脇を擦るだけだった。無理に動かすと、折れて奥へ残りそうだ。
俺は枝を抜き、少し考えた。
「一回だけ、試していいか」
二人が場所を空ける。
俺は岩の前へしゃがみ、見えている粒に手を向けた。指先から、昨日覚えた感覚を辿る。
狙う先は、奥ではない。
こちら側。誰もいない、俺の膝の前だ。
粒は動かなかった。
息を吐き、肩を緩める。見えている輪郭をもう一度確かめたところで、灰白色のものが根元から外れた。
小さく跳ね、靴の先へ転がってくる。
「取れた」
拾って光へ向ける。
ただの小石だった。
俺たちはしばらく、それを見た。
「宝石じゃなかったね」
テッサが言った。
「うん」
「でも、手を入れずに取れた」
リオの言葉に、俺は岩の隙間を見直した。
遠くへ飛ばすことばかり考えていた。今は、腕より少し先にあった石が、手元にある。
頭がわずかに重くなったので、続けては使わなかった。代わりに小石を袋へ入れる。
「それ、持って帰るの?」
「練習に使う」
「もう三つ持ってたよね」
「四つ目だ」
テッサは何か言いかけ、結局笑った。
◇
通路の先には、下り坂があった。
そこから見下ろした瞬間、三人とも黙った。
青白い光の中を、細い水の筋が何本も走っていた。高いところから低いところへ、段になった岩を伝い、それぞれ違う音を立てて落ちていく。
水を挟むように、道もいくつかに分かれていた。
いちばん下には広い池がある。その向こう岸で、大きな丸い影がゆっくり動いた。
俺は膝をつき、岩の陰から目を凝らした。
遠くて、脚の形までは見えない。だが、昨日戦った甲虫より、ずっと大きい。
リオが俺の隣へしゃがむ。
「見える?」
「ああ。池の向こう」
テッサも盾を岩へ当てないよう下ろし、二人の間から覗いた。
「ここからだと、道が三つあるね」
俺は影から目を離し、水を渡る場所を探した。
今日はまだ、手前の道を確かめられる。
「まず左の道。池へ下りずに、どこまで見えるか行こう」
二人が頷いた。
袋の中で、小石が触れ合った。
俺たちは立ち上がり、三人が通れる幅を確かめながら、新しい坂へ足を踏み出した。




