第45話 水音の向こう
石鎧蟹が塞いでいた場所を通るとき、テッサは昨日より少し手前で足を止めた。
浅い水の底には、爪で削られた白い筋が残っている。岩の間に蟹の姿はなかったが、見えない場所まで空だとは限らない。リオが弓を持ったまま右側を確かめ、俺は水際に続く足場を見た。
「今日は、いないね」
「昨日のが戻ってこなくても、別のが来るかもしれない」
「分かってる。毎朝ここにいたら、通行料が高すぎると思っただけ」
盾の縁を確かめながら、テッサが言った。
昨日は六人で倒した。爪を引きつける場所も、攻撃を入れる順番も相談して、それでも俺は剣を抜き損ねかけた。三人になった今日、同じことができるとは思っていない。
だから、奥へ続く道を確かめる。戦う相手は、その先で見て決めることにした。
浅い池の脇を抜けると、通路は少しずつ上り始めた。水に濡れていた靴底が乾いた石を踏み、頭上の隙間から入る光が細くなる。
それでも、暗くはなかった。壁の窪みに生えた苔が、淡い緑の光を残している。
「この先は、まだ歩いてないな」
声に出すと、それだけで足が少し軽くなった。
昨日まで、ここへ来るために蟹の爪を見ていた。今は、その向こうに何があるのかを見ている。
通路の先で、水音が大きくなった。
◇
広間の奥から、細い滝が落ちていた。
高さは人二人分ほど。流れ落ちた水は岩の窪みに溜まり、足元を横切る細い沢になって、別の通路へ消えている。
壁の上の方から光が差し、飛び散った水滴が白く光っていた。湿った岩には、小さな葉の草がまとまって生えている。
テッサが立ち止まった。
「ここ、外みたい」
「上が開いてるのかな」
「見えるのは、途中の岩までだね」
リオは顔を上げたあと、すぐに周囲へ目を戻した。
俺もつられて見回す。右の壁沿いなら、水を渡らず滝の近くまで行けそうだった。左側には平らな岩が張り出し、その下に黒い塊がある。
石かと思った。
だが、角が四つあった。
「……あれ」
俺が指すと、テッサも顔を向けた。
「箱?」
岩の陰に、木箱が置かれていた。
鉄の帯が二本巻かれ、正面には錠らしい金具が見える。腰掛けるには低く、道具をまとめて入れるにはちょうどよさそうな大きさだった。
胸の奥が、急に落ち着かなくなった。
迷宮に宝箱があるとは聞いていた。けれど、自分の歩いてきた先に置かれていると、話で聞くのとはまるで違う。
「見つけたね」
テッサが小声で言った。
「ああ」
「先に聞くけど、持ち主の札とか付いてない?」
料金所の管理札を思い出し、俺は笑いかけた。
そのとき、リオが手を上げた。
「箱の右。水際」
灰色の泥が盛り上がっていた。
一つではない。箱の手前に一体、そこから少し離れた沢の中に、もう一体。水に崩されず、流れに逆らうように動いている。
泥スライムだった。
俺は剣を抜き、箱から目を離した。
見つけただけでは、まだ俺たちのものにならないらしい。
◇
「水の中で追いかけるのはやめよう」
俺が言うと、リオが乾いた岩棚を指した。
「こっちへ出てきた方だけ。もう一体は見てる」
「二体とも来たら?」
「通路まで戻る。並んで来られる幅じゃない」
テッサが背後を確かめ、盾を構えた。
俺たちは岩棚の手前まで進んだ。箱に近い一体が動きを変え、こちらへ身体を伸ばす。水を含んだ泥が、石の上をずるりと滑った。
テッサが一歩前へ出る。
泥スライムが膨らんだ。
「来る」
言い終える前に、灰色の塊が跳ねた。
テッサは盾を正面へ固めなかった。右足を引き、面を斜めに向ける。ぶつかった泥が盾を伝い、俺たちの左側へ落ちた。
思ったより近かった。俺が剣を出そうとすると、テッサの声が飛ぶ。
「まだ!」
彼女は盾の下端を寄せ、這い戻ろうとする身体を押しとどめた。
その横に、俺が踏み込める場所が空いた。
「今、右!」
剣を短く突き出す。
泥の重みに刃が引かれ、狙いが少し下へずれた。硬い芯には当たらない。俺はすぐに引き、泥スライムが縮むのを見た。
濁った身体の中で、暗い粒が動く。
さっきは、外側が動いた方へ剣を出していた。中の粒は、それより遅れて移っている。
次に身体が伸びたところへ、半歩だけ踏み込んだ。
刃先に硬い感触があった。
手応えを確かめようと止まらず、剣を引き戻す。泥の塊は形を崩し、岩の上へ広がった。
「もう一体、来る!」
リオの声で顔を上げる。
沢にいた一体が、水際を越えようとしていた。弓は引かれている。だが、リオはまだ放たない。
泥スライムが岩の縁へ前半分を載せ、身体を薄く伸ばした。
その瞬間に、弦が鳴った。
矢が刺さり、泥が大きく波打つ。完全には止まらなかったが、沢へ滑り戻る前にテッサが近づいた。
「ノル、こっち!」
盾で退路を塞ぐ。俺は彼女の右から剣を出し、矢の脇に見えた芯を狙った。
今度は、一度で届いた。
水際へ崩れた泥を見ながら、しばらく誰も動かなかった。沢の水が少しずつ灰色に濁り、それもやがて流れていく。
「……二体」
テッサが盾を下ろした。
俺は頷き、剣についた泥を振り落とした。
戻るための通路は、結局使わずに済んだ。
◇
リオが矢を回収している間に、俺たちは残った魔石を拾った。泥を落とすと、どちらも小さい。箱を見つけていなければ、これだけでも嬉しかったはずだ。
「さっき、すぐ射たなかったな」
俺が言うと、リオは矢柄の曲がりを確かめながら頷いた。
「水の中だと、芯の場所がよく分からなかった。上がるときなら、薄くなると思って」
「見えてから引いたんじゃ、間に合わない?」
「たぶん。だから引いて待った。でも、もう少し遅かったら腕がきつかった」
リオは弓を持つ肩を回した。
テッサも盾の裏で、握っていた指を伸ばしている。
「そっちも、俺が出る場所を空けてくれたよな」
「ノルが右にいるのは分かってたから。そっちへ落としたら困るでしょ」
「困る」
「昨日は、私が動いてからノルが避けてたし」
言われてみれば、今日は足をぶつけなかった。
できることが増えたのか、たまたまうまくいったのか。まだ分からない。ただ、もう一度同じ場所に立つなら、どこを見るかは覚えていた。
俺たちは箱へ向かった。
周囲に別の魔物はいない。リオが張り出した岩の奥を覗き、俺は箱の下へ細い紐が伸びていないか確かめた。
見える範囲には、何もなかった。
「錠は?」
テッサに聞かれ、正面を見る。
錠だと思ったものは、蓋を留める金具だった。鍵穴はない。
俺は箱の正面から少し横へずれ、金具を持ち上げた。指先へ、冷たい鉄の感触が伝わる。
蓋をゆっくり開けた。
何も飛び出してこなかった。
代わりに、中に敷かれた粗い布が見えた。その上に、小さな布袋と、手のひらほどの革の筒が載っている。
袋には硬貨が入っていた。
銅貨が十二枚。
思わず三人で数え直したが、増えも減りもしなかった。
「四枚ずつ」
テッサが言う。
「分けるのが早いな」
「今回は、仕事が終わる前に修理代へ消えないといいね」
もう一つの革筒には、蓋の継ぎ目をまたぐように薄い封が貼られていた。表面には細かな文字と、曲線を重ねた模様がある。
リオが顔を近づけた。
「これ、巻物を入れるやつじゃない?」
俺は手を止めた。
技能や魔法を覚えるためのスクロール。その名は知っている。だが、似た筒に入っているからといって、そうだと決まったわけではない。
それでも、ただの空箱だったと思うには、封を破らずに残した誰かの手間が気になった。
「開ける?」
テッサが聞いた。
俺は模様をもう一度見て、首を振った。
「読める人に見てもらおう。使い方があるなら、先に知りたい」
「じゃあ、帰ったら見てもらうところまで付き合って」
「お前の分でもあるだろ」
「だから、一人で先に聞かないでってこと」
リオが笑い、布を差し出した。俺は革筒を包み、鞄の奥へしまった。
蓋を開ける前と、荷物の重さはほとんど変わっていない。
それなのに、帰ってからの楽しみが一つ増えていた。
昨日は六人で、この先へ来る道を開けた。
今日は三人で、初めての宝箱を見つけた。
滝を振り返ると、落ちる水の向こうに細い岩棚が見えた。その先にも、まだ歩いていない道が続いている。
「次は、あっちかな」
テッサの言葉に、俺もリオも頷いた。
まずは、この筒の中身を知りたい。
そのあとで、またここへ来よう。




