第43話 剣が届くまで
「何がいたんだ?」
俺が尋ねると、カイルは池の向こうへ目を向けた。
「石鎧蟹。水際の岩に張りついてた。殻の色が同じで、近づくまで気づかなかった」
「蟹って、食べる方の?」
テッサの問いに、槍を担いだ男が笑った。
「食われる方になるかと思ったよ。片方の鋏だけで、その盾の半分くらいあった」
俺はテッサの盾を見た。料理の話を続けるには、少し大きすぎる。
カイルは剣の柄に手を置いた。
「鋏の外を抜けて、脚を斬ろうとした。けど、横へ動くのが速い。追いかけたら、浅い水に足を取られた」
「そこで刃を欠いたのか」
「ああ。脚に当てるつもりが、鋏に引っかけた」
悔しそうだったが、傷を隠そうとはしなかった。
カイルたちの三人目が、巻いた布を鞄へ収める。濡れた袖口から見える腕には、擦り傷があった。
「今日は戻る。水の中で足を止めて戦うのは、やめた方がいい」
俺たちは頷き、道を空けた。
すれ違うとき、カイルが足を止める。
「倒すなら、こっちが先だ」
「まだ戦うとも言ってないぞ」
「じゃあ、見るだけ見てこいよ」
口元だけで笑い、仲間と来た道を戻っていった。
背中が岩の陰へ消えると、テッサが俺を見た。
「どうする?」
「時間は、まだある。入口から見えるところまで行ってみたい」
地図では、浅池の先に広い部屋が描かれていた。その出口には、細い通路を示す二本の線がある。カイルたちが引き返したのは、そこで間違いなさそうだった。
リオが池の縁へ視線を移す。
「僕も見たい。ただ、戻る道からは離れないようにしよう」
「分かった。盾で鋏を受けるのは、なしね」
テッサが先に言った。
「俺も見たくない」
「蟹は見たいのに?」
「盾が割れるところは、別だ」
彼女は持ち手を握り直し、灯りを前へ向けた。
◇
池の奥へ回ると、石の間を抜ける短い通路があった。
床は湿っていたが、中央には砂の溜まった筋が続いている。俺は乾いて見える場所を選びかけ、先に靴底で軽く擦った。
砂の下は、ぬるりと滑った。
「ここ、見た目より悪い」
後ろへ伝えると、リオが壁際の出っ張りを指した。
「そっちは足を置けそう」
互いに場所を確かめながら進む。急いで戻ることになったら、今見た石を覚えていられるだろうか。俺は曲がり角で一度振り返り、帰る方向からの眺めも確かめた。
通路の先は、入口が左右に張り出した広間だった。
俺たちは張り出しの手前で止まった。テッサが灯りの向きを変えると、床の大半を覆う浅い水が見えた。左側には平たい岩が続き、向こうの通路まで、細い岸のようになっている。
その途中に、蟹がいた。
胴は木桶を伏せたくらいの大きさだった。灰色の甲羅には石の粒が食い込み、右の鋏だけが不釣り合いに大きい。濡れた脚が岩を掴み、目のついた細い突起がゆっくり動いていた。
「いたな」
俺は声を落とした。
剣の届くところまで近づくには、まず、あの鋏の届く範囲へ入らなければならない。
石殻甲虫なら、前脚を上げたときに腹が見えた。だが、この蟹は身体が低い。脚の付け根は見えても、剣を差し込めるほど広い隙間には思えなかった。
テッサが隣へしゃがんだ。
「あの大きい方、盾で止めたらどうなると思う?」
「挟まれたら、離せなくなりそう」
「だよね」
彼女は盾を、岩へ当てないよう引き寄せた。
そのとき、広間の右端で小さな影が動いた。
泥スライムだった。水面に身体を半分沈め、岩の間から這い出してくる。
石鎧蟹の目がそちらへ向いた。
横へ滑るように移動し、大きな鋏を振り下ろす。水が跳ね、泥スライムの身体が潰れた。だが、薄く広がった身体は鋏の下から抜け、岩の割れ目へ縮んでいく。
蟹が追おうとした。
大きな鋏の先が岩の間へ入り、身体が一瞬止まる。脚を踏み替えて鋏を引く間に、泥スライムは見えなくなった。
リオが俺の袖を引いた。
「今の、見た?」
「鋏が引っかかった」
「そのあと。右の前脚が、浮いてた」
蟹は元の場所へ戻っていった。動きは速い。さっきの一瞬に剣で突けと言われても、俺には間に合う気がしなかった。
それでも、見えていなかった場所が一つ分かった。
俺たちは身体を引き、通路の陰へ戻った。
「大きい鋏を持ち上げると、前が少し空くんだね」
リオが、床に指で簡単な形を描いた。
「そこなら矢が入るか?」
「止まってくれれば。ただ、一度で動かなくできるかは分からない」
「その間、私が正面にいるのは嫌だな」
テッサの言葉に、俺も頷いた。
隙間があることと、そこを狙えることは違う。岩潜りを見たラズも、腹なら斬れると言っていた。今なら、その先に足りなかったものが少し分かる。
俺たちが立つ場所と、外した後に戻る場所だ。
奥で、水を掻く音がした。
話すのをやめる。灯りの端に、細い脚が見えた。石鎧蟹が、入口へ向かってきていた。
「戻ろう」
俺は立ち上がり、先ほど確かめた石へ足を置いた。リオが続き、テッサは盾を蟹へ向けたまま下がる。
甲羅が入口の向こうに現れた。
大きな鋏が、張り出した岩の間へ伸びる。
「もう少し下がって!」
テッサの声で、俺たちは曲がり角の後ろへ退いた。鋏の先が岩を擦り、細かな欠片が落ちる。
蟹の胴は、入口を通れなかった。
だが、鋏は俺が思っていたより遠くまで届いていた。さっきまでしゃがんでいた場所を見て、背中が冷たくなった。
俺たちは止まらず、浅池まで戻った。
◇
明るい岸へ出てから、テッサが大きく息を吐いた。
「見るだけでも、近すぎたね」
「ああ。次はあの岩から、もっと離れる」
俺は地図の余白へ、入口の形と鋏の届いた辺りを描いた。戻り道の滑る砂も書き足す。
リオが隣から覗き込んだ。
「狭い入口でも、向こうが攻撃できるんだ」
「盾で塞げばいい、じゃないんだな」
俺は描いた線を一本消した。入口の手前に立つつもりで付けた、自分たちの印だった。
「槍なら、少し離れて突けそうだけど」
そう言ってから、カイルの仲間も槍を持っていたことを思い出した。長い武器を一本持ち込めば終わる話でもない。
テッサが広間へ続く通路を見た。
「大きい鋏を使わせて、引っかかってる間に狙う。それなら、盾で受けなくてもできるかな」
「狙ったところへ振ってくれるかだな」
「そこは、まだ考える」
リオが頷き、俺の地図へ指を置いた。
「左の岩の上なら、弓を構えられそうだった。あそこへ行く道も見ないと」
少しずつ、次に確かめたいことが増えていった。
俺は地図を畳み、鞄へしまった。
カイルたちは、剣も槍も持っていた。それでも戻った。俺たちも今日は、相手の身体へ一度も武器を届かせていない。
それなのに、あの蟹を倒すことを考え始めている。
「先に倒すって言われたな」
呟くと、テッサが笑った。
「気にしてたんだ」
「少し」
「かなり、じゃない?」
否定しかけて、やめた。
村へ戻ったら、カイルに聞きたいことがあった。どこで槍を出し、どちらへ避けられたのか。こちらが見た鋏の動きも、隠しておくつもりはなかった。
同じ相手を見て、あの三人は何を考えたのだろう。
俺は剣の柄へ触れ、来た道へ向き直った。
次にあの広間へ行くときは、剣を届かせるところまで考えてから行きたかった。




